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第3話 いつかの過去といつかの未来・後編*

 予備校での授業を終えて、駅に向かう途中だった。昼間のような容赦ない暑さは幾分か和らいでいるが、湿気がひどい。  時刻は19時近かったがまだ日は沈みきっていなくて、街は昼間の明るさにしがみついている。オフィス街でもあるこの街は、この時間になると大量のサラリーマンやOLが駅に向かっていて、あらゆる人間の匂いがした。  隣を歩く和田からは、甘やかな柔軟剤のような匂いが微かにする。汗や体臭を思わせるような不快な匂いはさせていなかった。隙を見せない和田らしかった。 「今日暇?花火やろうぜ」  和田は何の脈絡もなく唐突に誘ってきた。 「は?彼女はどうしたんだよ」  俺は内心焦った。思いがけない提案だったのは確かだが、俺を誘う意図が分からなかった。なんと返事をしていいか迷って、本来花火に誘うべき相手の行方を尋ねた。 「彼女?あー?いたねー?いたいた!そういえばそいつのせいでこんなとこまで来てるんだった。忘れてたわ。よく覚えてたね」  和田は既に5年以上前の記憶を掘り起こしたかのように言った。 「最低」  と、つぶやいたが俺のディスりなど聞いちゃいない。 「鳥羽ちゃんに餌付けするの楽しくて忘れてたわ」 「はぁ!?」  俺は抗議9割、残りの1割は驚きで素っ頓狂な声をあげてしまった。 「カルシウム、食べな?」  和田はおもむろにウェハースを俺の口に突っ込んできた。 「んぐ」  俺は突っ込まれたウェハースを食べる羽目になった。口の中に優しい香ばしさと甘さが広がる。そして水分が持ってかれる。仕方がなく咀嚼して飲み込んだ。可もなく不可もない虚無の味わいだ。 「あはは、草食動物みたい」  和田はいつの間にか鉄&カルシウムとでかでかと書いてある小袋を持っていた。2枚入りらしく、そのうち1枚を俺によこしたようだった。 「じゃ、俺んちの近くの公園でやろ」  和田は自分もサクサクとウェハースを食べながら話を進める。 「俺、やるなんて言ってないけど」 「なんか予定あんの?」 「ないけど」 「じゃあ、よくね?」 「なんで花火?」 「夏といったら花火じゃね?」 「他の友達誘えよ」 「やだよ、めんどくさい。鳥羽ちゃん連絡しなくても毎日会えるから楽だわ」 「...........」  舐められてる。とすぐに分かった。俺は若干ムカついたがそれ以上に変な高揚感があった。夏の夜の蒸した空気は人を高揚させる。夏祭り、花火大会、キャンプファイヤー、お泊り会。子供の頃に許された夜遊びの記憶がそうさせるのだろうか。そうだ、きっとそうだ。  俺は和田にばれないように高鳴る胸を抑えつけるように深呼吸をした。 「やばいやばい消える消える!」  和田はまだ火のついていない手持ち花火を両手に一本づつ持ちながら俺の方に突進してきた。俺は惰性でしゃがみ込んで適当な花火に火をつけて眺めていたところだった。和田は俺の横にかがんで俺の花火から火をもらおうとしたが、そのタイミングで火が燃え尽きてしまった。 「あーー!!!間に合わなかった!くっそ」  和田はさっきから一人でずっと喋ってはしゃいでいる。 「あーー、安い花火って秒で消えんな」  大きい駅ならどこにでもあるようなディスカウントショップで買った安い花火は火をつけて数秒で燃え尽きてしまう。 「しかも火ィつかねー」  和田はついでに買った蝋燭に着火ライターで火をつけようとするのだが、風が強くてなかなか火がつかない。 「あーあ。今度はキャンプファイヤーやりたくなっちゃった。ゴミでも燃やす?」 「燃やさない」 「つまらんなー」 バケツを買い忘れたので、とりあえずビニール袋に水を溜めてそこに花火を捨てていた。ジュっと音をたてて安っぽいキャンディーみたいな手持ち花火は袋に捨てられていく。  夏休みだというのに花火をやっている奴なんていなかった。風が強いからだろうか。俺たちが公園に来たタイミングで妙に湿気た温い風びゅうびゅう吹き始めてしまった。気づけば雲も多くなってきた気がする。気づかないふりをしていたが、遠くでゴロゴロ鳴り始めている気配までする。これ雨降るんじゃないか? 「ねぇ鳥羽ちゃんってどんな人が好き?」  和田はどうにか火をつけようとライターをカチカチやっていた。しかし和田の思惑とは反対に風は強くなる一方で、ついてもすぐに消えてしまう。  隣でかがむ和田からは、微かに汗ばんだ匂いがした。走り回っていたせいだろう。でも嫌な匂いじゃなかった。 「そんな事聞いてどうすんの」 「別にただの恋バナじゃん。こういうのもダメなん?」 「ダメ」 「んー、じゃあ将来の夢とか」  和田はめげない。 「興味ねぇだろ」 「興味あるって言ったよ?」 「なんで、そんな、思わせぶりなこと」  言うんだよ。と続けたかったが言葉が出てこなかった。周りから一線引かれて過ごした1学期。独りで過ごしていた事が意外にも堪えていたのかもしれない。  和田は俺をからかっているのかもしれないし、実は何も考えていないのかもしれない。それは分かっていた。それでも少しだけ嬉しいと思ってしまったのだ。興味を持ってもらえたのが嬉しい。他人の認識してもらえているのが嬉しいと。  そしてその感情は友情だけから発生するものではなかった。  ああ、いやだ。なんでよりにもよってこんな奴に嬉しいとか思っちゃうんだろう。いくらなんでも人間に飢えすぎだろう。 「思わせぶりだった?ごめーん」  和田は相変わらず軽薄な口調で言葉を紡ぐ。  「でも鳥羽ちゃん別に俺のことタイプじゃないでしょ」  俺はドキっとした。タイプ。タイプってなんだろう。和田のような人を好きになるかならないかで言えばならない。短い付き合いではあるが、不誠実で不真面目で人を見下している。のは分かる。だとすれば全然タイプじゃない。恋愛以前の問題だった。  じゃあ、なぜ、俺はさっきから和田の言動やら匂いに敏感になっているのだろう。  さっきから、じゃない。多分初めて話しかけられた時からだ。  やめろ。と俺の頭の片隅で何かが警告を出す。和田に対する感情を探るなと。 「タイプじゃない」  俺はぶっきらぼうに答えた。タイプじゃない。それは事実だ。いやそれどころかもっと原始的な危機感がある。こいつを好きになってはいけない。 「でしょ、俺だいたい分かるんだよね。あ、この子チョロそうとか。直感で」  にっと和田は純粋そうでいて意地悪そうな笑みを浮かべた。 「……」  その時だった。でっかい雷鳴が頭上に轟いた。 「!!」  さすがの和田もヘラヘラした顔から真顔になって空を見上げた。頭上ではCGのように綺麗な稲妻が走っている。こんな真上に稲妻が走ってるのを俺は初めて見た。本能的に自然の脅威を感じて俺も焦る。 「やばくない?落ちるんじゃね?」 「つか雨降ってきてない?」 「一回片付けて水捨ててこようぜ」 と言い合っていると、空から水を捨てたかのような豪雨が俺たちに降り注いだ。   俺と和田は急いで和田が住んでいるというマンションに走った。俺たちは川にでも落ちたようにずぶ濡れになってしまった。靴まで浸水した。豪雨と雷鳴の中、叫びながらマンションまで走った。3分間ほどの道のりだったが二人で大笑いしながら走った。アトラクションみたいなゲリラ豪雨はもはや笑うしかなかった。こんなに笑ったのは久しぶりだった。  和田の住んでるマンションは俺にでも高級だと分かる造りだった。ホテルのようなフロントでコンシェルジュまでいた。どう見てもツッコミどころしかない俺たちだったのにコンシェルジュは機械のように無言でにこやかに会釈をした。 「やば。パンツまでびしょびしょ!」 「俺も。靴もやばい」  エレベーターに乗っている間、俺も和田もテンションが高いままだった。 「いいの?入って」  俺は玄関で立ち尽くした。ぽたぽたと俺から雨水が垂れて玄関を汚してしまっている。先に家に入った和田はバスタオルを投げてよこした。とりあえず、それで頭やら足やらを拭かせてもらった。 「いいよー。俺、今ここ一人で住んでんだ」  だから遠慮なく、と言いながら和田は俺の前でさっさとシャツやらズボンやらを脱いでいく。俺はなんとなく目のやり場に困って頭を拭くふりをして目元を隠した。 「え…っと、一人暮らしってこと?」 「そうそう、連れ込み放題だよ」 「なんで?親は?」  と聞いたところで和田は豪快にくしゃみをした。 「んなことより、シャワーしないとやべーな。俺先に入ってきていい?」 「いや、タオルと着替え貸してくれればいいよ」  と言ったのだが、和田はそんなこと聞かずにさっさと去ってしまった。  俺は玄関で座らせてもらってシャワーの音を聞いていた。玄関から入ってすぐの部屋がバスルームらしく、たまに流水音にまじって和田の鼻歌が聞こえてくる。その後、ドライヤーを当てている音がしておよそ5分くらいで和田は戻ってきた。バスローブしか身につけてない。高校生の分際で風呂上がりにバスローブって……と思いながらつい眺めてしまった。脛や足首やふくらはぎの線が綺麗だった。腕や首もそうだが和田は体の筋が綺麗だ。  和田の髪はまだ乾ききっていないようで、湿った前髪が張り付いていた。それが和田をいつもより幼く見せた。 「早くシャワー浴びて来いよ」  と言われ他意などないのに、俺はそのセリフにドキっとしてしまった。ドキっじゃねぇだろ。と俺は俺自身に引く。 「別にそこまでしなくていいよ」 「いいから、風邪ひくって。つか雨やべーー、これいつ止むんだろ」  と言いながら和田は廊下の先にあるリビングの方へ行ってしまった。 「……」  かたくなに拒む方が変な気がして、俺は仕方なく風呂場に向かった。  白いバスルームはよく掃除が行き届いていて綺麗だった。汗と雨を洗い流しながら、なんだか変な事になったぞと思う。これからどうなるんだろう。雨も雷も激しさを増すばかりだ。さきほど天気予報を見たらあと1時間はこの状態のようだ。  泊まるわけでもないのに髪の毛まで洗っていいのだろうか。しかしもう頭もびしょびしょだったので結局頭からシャワーを浴びた。借りてもいいものか悩んだが、シャンプーとボディーソープも借りてみた。なんとなく和田が使ってるものに興味を持ってしまった。ドラストで売っている商品じゃないのはすぐに分かった。 「タオルとバスローブ置いておくよ。服は洗濯機に放り込んどいて。乾燥させておくから」  外から和田の声が聞こえた。脱衣所に出るとホテルのように新しいタオルとバスローブがきちんと畳んで床に置いてあった。洗面所もなんだか生活感がないほど綺麗で物が少ない。本当にホテルみたいだった。  お言葉に甘えて脱いだ自分の衣服をドラム式の洗濯機に放り込んだ。和田が着ていた白いシャツも放りこまれていた。  魔が差した。という瞬間が俺の人生であるならこの時だけだったと思う。俺はなぜだかその白いシャツを引っ張り出してしまった。たっぷり雨水を含んだそれはずしっと重くて冷たかった。 本当に自分でも何を考えていたのか後で思い返しても分からない。どうかしていた。なんとなくその冷たくて重いシャツの端を俺は口元に持ってきてしまった。すん、と空気を吸い込んだ。疚しい気持ちよりもただなんとなくテスターを嗅ぐような気持ちだった。ちょっと通りがかりに目を引く香水瓶があって、というような。  シャツからは雨の匂いしかしなかった。俺は一体何を期待していたのだと自問する。 「ドライヤー使いたかったら使ってー」  突然の和田の声に俺は反射的に振り向いた。和田はそこにはいなかった。幸い見られてはいなかったようだ。全身に電流を流されたような衝撃が走り、俺は正気に戻った。 「あ、ありがとう」  こんな事してるのバレたら俺の人生終わる。俺は和田のシャツを元に戻した。 「飯食う?」  和田は冷蔵庫から何かを出していた。バスローブ一枚で他人の家にいるのはなんだか落ち着かない。部屋着でも貸してほしいが、世話になっている手前言い出せない。和田も和田で面倒なのか暑いのかバスローブのままだった。男子高校生二人がバスローブで家をうろうろしているのシュールすぎる。 「あ、今日麻婆豆腐だわ」  和田は大皿を冷蔵庫から取り出してレンジ入れた。次に小鍋を取り出してIHのコンロに乗せて温め出した。 「なんで食事の用意ができてんの?」 「えー、絹代が飯作っといてくれんの」 「きぬよ……?」 「家政婦の絹代」  一瞬、彼女かなんかの一人を家政婦呼ばわりしてるのかと思ったがそうではないらしい。なんでも午前中にハウスキーパーさんが来て一通りの家事をしていくらしい。通りで家中整っているわけだ。  俺たちは和田の夕食を分け合った。1人分だと言っていたが2人で食べても充分な量だった。      絹代はどっさり副菜を作るので少食な和田は辟易しているらしかった。  俺には母と姉がいるが、2人とも仕事が忙しく食事の用意は俺がしておく事が多いので、人の作った飯は涙が出るほどありがたかった。  麻婆豆腐に茄子やオクラなどの夏野菜の焼き浸し。小鍋には溶き卵の中華スープが入っていた。トマトのナムルも美味しくて家でも作ろうとこっそり思った。  だだっ広いダイニングで和田は毎日1人でこんな飯を食っているのだろうか。そう思うと少し可哀想な気がしないでもない。  俺は何か話題を振ってやろうかと珍しく考えていると和田が口を開いた。 「鳥羽ちゃんって何学部目指してんの?」 「法学」 「あー、っぽいね」 「和田は?」  俺は久しぶりの人の作る家庭料理に気持ちがほぐれていたのか、幾分かいつもより素直に和田と会話ができていた。 「俺はー、イガク」  イガク。という単語が和田から吐かれるとずいぶんと軽いものに感じた。そのせいで一瞬反応が遅れた。 「はっ?医学部?」 「俺さー親が医者なんだよね」  俺はぎょっとしつつもあらゆることが腑に落ちた。要するに和田は金持ちのお坊ちゃんなのだ。 「医学部目指してる奴がなんでうちの高校いるわけ?」  うちの高校はそこそこ偏差値は高いが進学校ではない。医学部を目指している奴などいないだろう。 「受験勉強ぜーんぜんしなかったら青嵐落ちてさー」  そこは県内でもトップの進学校だ。 「オヤからの無言の圧がやばくて。大学受験はちょっと頑張んないとな」  はぁ、とため息をつきながら和田は箸をおいた。悩んでいるというより、単に腹がいっぱいという体だった。 「ってか、あんな予備校行ってる場合じゃなくね?」 「うん、意味ない。元カノ?が行こうっていうから、まいっかー的な?毎日会ってたらついでにヤレるじゃん」 「もうつっこむ気もない」  和田のクズ発言にいちいちつっこんでたら時間が足りなくなるのを俺はこの短期間で学んだ。 「まあ受験対策はカテキョいるからいいんだけどさ」 「あー、そ…。そんでなんで一人暮らし?」  俺はてっきり親がいないとか放置されてるとかそういう理由があるのかと思ったが、そうではなさそうなので尋ねてみた。 「いやー姉ちゃんが2人目産んで里帰りっての?やっててさ。姉ちゃんはずっとキレてるし赤ん坊は泣きまくってるし母親も孫たちの世話で俺の世話までやってらんねっつーから、親父のセカンドハウス的なここに住んでんの。夏休みの間だけね。まー子供は可愛いんだけどね。姉ちゃんと母ちゃんはヒステリックなんだよね」  和田はもう食べる気はないらしく、スマホを眺めだした。おかずはまだまだ残っていた。  絹代がやるからいいと言われたが、流石に気が咎めたので俺は皿を洗わせてもらった。  和田はリビングのソファーに寝っ転がって寝ていた。和田は見る気もないのにテレビをつけていて、バラエティ番組がやっていたが絶えずニュース速報が表示される。洪水注意報や雷注意報、電車が止まったとか土砂崩れとか。1時間前に1時間後には止むと予報されていた雨は未だに激しく降り続けている。  念のため母親に友達の家にいるとだけ連絡を入れておいた。  皿を洗い終えて30分ほど経っても和田は起きない。俺はテレビを見たりネットを見ていたがそれも飽きてしまった。  喉が乾いた。水道の水くらいもらってもいいだろうか。俺はちらりと和田が寝ているソファーに顔を向けた。  和田は無防備に体を投げ出していた。わざとやってるんじゃないかと思うほどにあられもない姿で寝ていて、バスローブははだけて腿まで見えていた。  男の体に欲情することに気づいてからあまり男を見ないようにしてきた。だけど今、ほとんど裸の男が目の前に寝ている。見放題だった。  和田は寝ていると子供のようにあどけなく見えた。けれど体の線は少年と青年が入り混じった絶妙な体つきをしている。それを美しいと思い、生唾を飲み込む自分がいる。  ああだめだ。俺は和田に惹かれてしまっている。たった五日間、少しだけ行動を共にしていただけなのに。  自分はこんなに惚れっぽい人間だったのかとがっかりする。でも和田にはなんとも言えない魅力があった。それをどう言葉にしていいか分からないけれど。  触れたらいいのに。男の体を好き勝手触ってみたい。そんな劣情は年相応にあった。けれど俺にはそういう経験は一度もない。憧れはあったが、SNSは怖いしアプリは高校生は登録できなかったし、詐称してまで知りもしない男と繋がりたいとは思えなかった。  だから、大学生になったら彼氏を見つけたいなと思っていた。俺には夢がある。好きな人と暮らしたいというささやかな、でもきっとすごく難しい夢。  自分以外の男の体はどういう感触がするんだろう。そんなことはしょっちゅう夢想していた。  和田の肌は手入れがよく行き届いてすべすべしてそうだった。首筋とか腕の血管とかふくらはぎとかは硬そうだ。  眠る和田がトリガーとなって、俺の原始的な欲求がどんどん呼び覚まされていく。  触る気はなかった。さすがにそこまで馬鹿ではない。でも触ってるつもり、になるくらいなら許されると思ってしまった。  俺には恋人がいて同じ部屋で眠っていて寝顔に触れる。なんていう何気ないシチュエーションに俺は憧れていた。   俺は和田には触れずに『もしここで眠ってるのが恋人だったら』という妄想だけしたくて、和田の眠るソファの前に跪いた。和田と顔の位置を合わせて寝顔をじっと見た。そして触れないギリギリのところまで手を伸ばしてみた。頬に触るとしたらこんな感じ、かなとか思いながら。 「!!」  その微妙な空気や圧を感じたのか和田は急に目を開けた。俺は即座に手を引っ込めて立ちあがろうとしたが、体勢を崩して尻餅をついてしまった。 「……」  和田は半分寝ているような眼差しで俺を見つめていた。このまま再び寝入ってくれないかと願ったが、和田が目を閉じることはなかった。  黙って見つめ合ってた時間は1分もなかったと思うが、俺には数十分に感じた。様々な言い訳が駆け巡ったが、どんな言い訳も無理があって俺は「ごめん」と謝った。掠れた小さな声しか出なかったので和田に謝罪の言葉が届いたかは分からない。 「付き合ってあげようか」 「へ?」  和田から出てきた言葉はまるで予想もしてないセリフで俺は聞き間違えたか寝ぼけているのかと思った。 「俺のこと好きなんじゃないの?」 「……!」  俺は混乱と緊張と動揺で吐きそうになった。 「あれ違った?」 「ちが」  否定しようとした声を遮るように、 「俺の服嗅いでみたり、俺の事触ろうとしたり。してたよね」  と言った。これが推理もののドラマなら俺は間違いなく終盤で探偵に追いつめられる真犯人だ。   和田の瞳がいつものように意地悪く揺れる。  ああ、全部見られていたのか。俺は後ろめたさで血の気が引くのと恥ずかしさで顔が紅潮するのが同時に襲ってくるような感覚に陥った。今即死できるならしたい。 「ごめん」  俺は再度謝ったが和田の顔はもう見れなかった。何をどう言ってもここを切り抜ける言葉が見つからない。 「ねえベッド行こうよ」 「は、え?」  俺は間の抜けた返答しかできなかった。 「俺のしゃぶれる?」 「は!?」  何?何が起きてるんだ?さっきからこいつは何を言ってるんだ?俺は俺の頭では和田が何を考え何を言っているのか分からなかった。俺は自分の頭がおかしくなったとさえ思った。 「どうなの?したい?」  和田はゆっくり体を起こすとするっとバスローブを脱いだ。この時、俺がどういう返事をしたかとかはよく覚えていない。和田の全裸に俺は17年の人生の中で一番、性的に興奮させられてしまった事しか記憶がない。  その後、和田に手を引かれてベッドルームに連れていかれた。  ベッドルームも生活感がなくて、ビジネスホテルのようだった。ベッドランプだけつけた薄茶色の部屋の中で、気づけば寝そべる和田の脚の間に頭を埋めていた。 「上手。ってか結局彼氏いたんだっけ?」 「いない」  俺は一度和田から口を離して答えた。 「こんな事したこともない。和田が初めて」 「マジで?ウケる」 「ウケない」  と言うと和田は俺の頭を掴んで股間に押し付けた。その態度にムカっとしつつも、俺は馬鹿みたいに勃起していた。 「俺バイなのかなー。んーでも鳥羽ちゃん以外の男は気持ち悪いな」  とかなんとか言っていたが、俺はもはや聞いていなかった。ずっと触れてみたいと思っていた男の体がそこにあることにただ興奮していた。  つつがなく、という言い方も変だが初めての口腔行為はあっさり終わった。よく分からないが和田は喜んでいたようだった。だからといって、俺のもしてくれるという展開にはならなかった。まあそうだろうな、と思ったが俺のそこは勃ちっぱなしだったので、困ってしまった。  その状態を分かっているだろうに和田は知らんぷりだったので、ますます腹立たしかった。  だというのに俺はここを立ち去ることができなかった。帰ろうと思えば帰れる程度には雨脚は弱くなっていた。でも俺はただベッドの端に座っていた。  俺、なんでここにいるんだっけ。  疲れた顎と頭のせいでぼーっとしていると和田が何かの布を投げてよこしてきた。 「はいパジャマ。と下着。全部新品だから安心して。いやお古のがよかった?」  馬鹿にされてる。クソ野郎と思いつつ、その時には俺はもう和田のされるがままだった。もう自分ではコマンド入力ができなくなっていて、和田の次の指示を待ってしまっていた。  俺は渡されたパジャマに着替える。 「おいでよ」  和田もパジャマに着替えていた。シンプルなストライプのパジャマはナチュラルすぎて和田に全然似合ってなかった。 「悪いけど俺は舐めたり触るの無理だから、腕枕してあげる」  といって片手を広げて指先で手招きした。 「え」 「これからエロいことしてくれたら、代わりに彼氏っぽいことしてあげるよ。良い案じゃね?」 「……」 「あ、興味なかった?」 「横にいっていいの?」 「いいよーなんか眠くなってきたからもう寝ようぜ」 「まだ21時過ぎだけど」  と言いながら俺は和田の隣に横になった。キングサイズのベッドは男二人でも余裕があった。こんなに広くてふかふかのベッドは初めてだった。 「あー、うんうん。抱き心地悪くないじゃん」  と言って和田は俺に絡みついてくる。俺はびっくりして身を固くしてしまった。 「緊張してんの?」 「少しだけ」 「どう?」 「どうって言われても」  内心はめちゃくちゃ嬉しかった。男の腕の中で眠るのは夢だった。男との性行為には勿論興味があったが、それ以上に恋人らしいことに憧れていた。  彼氏の腕枕で眠る。という少女みたいな夢が叶っている。和田を彼氏と呼んでいいのか謎だが。   さっきまで花火をして大雨に打たれてたのが随分昔みたいだ。ふいに和田に聞かれた将来の夢の話を思い出す。 「俺、弁護士とか公務員とか安定して食いっぱぐれないような職業について、好きな人と暮らすのが夢なんだ」  俺は自分がこうだと気付いてからとりあえず一生金に困らなそうな職業に就きたいと思っていた。父親が中学生の時に死んでからはますますそう思った。強迫観念にも似ていた。どうにか母親と姉に迷惑をかけず俺の事を好きな人と暮らしたい。恋人が欲しい。幸せに暮らしたい。だからその人を養えるくらい金が欲しい。 「ふーん、叶うといいね」  和田は適当な返事をするとすぐに寝てしまった。本当に眠かったようだ。別に和田に真剣に聞いて欲しかったわけではないが、なんだよとつまらない気持ちになる。  和田の投げ出された右腕を首の下に通して俺は和田と添い寝している。和田の左腕は俺に絡みついてる。なんだか抱き枕代わりにされた気がしないでもない。しかし、暑い最中だというのに人肌の暖かさは不快ではなかった。  ベッドの上には四角い窓がついていた。ブラインドを閉め忘れたようで外が丸見えだが、真っ暗で何も見えない。何も見えないが俺はその窓をなんとなくじっと見ていた。  弱まり始めた雨の音を聞きながらいつのまにか眠りに落ちていた。

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