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第4話 彼の上弦*
平凡な人生でいい。平穏で、普通で、他人に羨まれるような人生ではないけれど不幸ではない生活。だけどそれがとても難しいことを俺はなんとなく17歳で分かってしまっていた。父親の病死や残された母と姉との生活、自分の性的指向。幸いにもそこまで苦しい事はなかったけれど、俺以上に苦しい生活や思いをしている世界がなんとなく見えるようになってしまった。
これ以上、自分や環境のせいでしんどい思いはしたくない。普通の人間より努力をしよう。そして普通の人が普通に手に入れるレベルの幸福でいいから手に入れよう。だから、謙虚に計画的に間違えないように生きていた。
「普通」に生まれた人間はどんなに恵まれていることだろう。
あれから2日間和田は姿を見せなかった。7月ももう終わりを迎えようとしている。
あの大雨の日の出来事は夢だったんじゃないかと思うようになっていた。
あの日、泊まるつもりはなかったのに、うっかり和田に巻き付かれながら寝入ってしまった俺は起きた瞬間、酔いから醒めるようにさーっと血の気が引いた。急激に自分のしたことが恐ろしくなり眠っている和田に何も告げずに家を飛び出した。
まだ朝の5時過ぎで陽は登っていたが暑くなる前だった。俺は乾き切っていない靴で最寄りの駅まで走った。せっかく洗って乾かしてもらったズボンは水たまりに幾度も突っ込んだせいで再びぐちゃぐちゃになってしまった。
その日は前日の大雨が嘘だったかのように快晴で、水たまりで乱反射する朝日が眩しくて眩しくて目が痛んだ。世界は俺の気持ちを無視してキラキラと美しかった。
俺は脱獄した罪人のように清らかで眩くて神聖な朝の空気から必死に逃げた。まだあまり人が乗っていない電車に腰を下ろした時にようやく現実に戻って来れた気がした。
母も姉も夜勤でまだ帰っていたなかったので、俺が一晩家を空けていたことは誰も知らない。その日もちゃんと予備校には行ったが勉強など手につかなかった。ただ同級生と何か得体の知れない恐ろしい行為をしてしまったのではないかと悶々と考え、同じような体験をした人がいないかひたすら検索していた。とてもじゃないが、男と『そういう事』ができてラッキーとかハッピーとかいう気持ちではなかった。
俺と和田は連絡先など交換してなかったので和田とは連絡が取れなかった。さらに、その日、つまり一昨日も昨日も和田は予備校に姿を現すこともなかった。
和田も気まずいのかもしれない。このまま予備校を辞めてしまうかもしれない。元々和田にはほとんど無意味な場所だ。
それならそれでよかった。俺もホッとしていた。あれは夢だった。でいい。
けれど和田から借りたパジャマと下着が現実だったことを突きつけてくる。俺は下着は新しいものを買ってパジャマは洗って返すつもりで持って帰ってしまったのだ。
なんなら全てあの部屋に置いてきてしまえば夢のままで終わらせることができたかもしれないのに。変なところで働いた理性を恨む。肝心なところでは吹っ飛んだくせに。
結局、和田は予備校を2日休んで3日目に姿を現した。7月28日だった。
「お、おはよ」
「あー久しぶりー」
和田はあの日の出来事などなかったかのように俺の隣に当然というそぶりで座ってきた。俺はなんだか照れてしまい顔が赤くなる。やばい俺めちゃくちゃキモい。俺は悟られないようにすぐに下を向いてノートやテキストを出すふりをした。
「風邪でも引いてた?」
俺はなんでもないふりを最大限装って聞いてみた。本当は聞きたいことがたくさんある。
アレは何のつもりだったのか?
和田は俺が好きなのか?
俺たちは付き合ってるのか?
「あー?うーん、そういうわけじゃないんだけどさ。ちょっと用事あって」
和田はそれ以上話したくなさそうだったので俺も黙った。
「そうだ。これありがと。洗っといた。あと新しい下着」
俺は袋に入れておいた着替えを渡した。
「ああ、いいのに」
和田はなんだかいつも以上に気だるげだった。
「はぁ、だる」
と言って机につっぷす。
「大丈夫?」
「うーん夏バテ?今日あんま寝てない。だるすぎ」
和田はふわぁあと遠慮のない欠伸をした。
「休めばよかったのに」
「鳥羽が心配するかなって思って」
「……」
和田は伏したまま僅かに顔をこちらに向けて笑った。アーモンドのような目を半月みたいに細める。俺はその瞳に一瞬呼吸を忘れる。和田は時々、少年のようにあどけない顔つきになる。無邪気、を演出している顔。分かっているのだ。和田の瞳には『こういう顔好きでしょ?』と書いてある。ように見える。
「俺やっぱ帰るわ」
和田は来たばかりだというのに、急に席を立ってしまった。
「え」
俺は思わず不安気な声を漏らしてしまった。和田を心配してじゃない。置いていかれる不安からだ。
「鳥羽も来る?」
「うん…」
俺は思わず何も考えずに頷いてしまった。和田は少しだけ意外そうな顔をして
「行こうぜ」
と笑った。
俺は初めて予備校をサボってしまった。具合が悪くて欠席とかはあったけど基本的に昔から学校も塾も無意味にサボるということはしなかった。
母と姉にだけは迷惑をかけたくないという意地のようなものがあって、彼女たちに世話になっている間は勉強だけは真面目にやっていたのだ。
それなのに和田に誘われて文句も言わずにふらふらと後をついていっている。
俺はどうかしてしまったのかもしれない。今なら引き返せる。やっぱり戻ると一言告げて背を向ければ午後の授業は間に合う。
きっと和田との関係もそれで切れる。切ってしまえ。これはダメだ。良くないことだ、と俺の理性はずっと警告をしてくれているのに、俺は聞こえないふりをした。
暑さと今までにない感情のせいで思考回路が焼き切れそうだ。
暑い暑い暑い。
今日の気温もとっくに30度を超えているだろう。駅から和田の住むマンションまでは15分ほど歩く。たった15分でも人を殺せるほど、気温は容赦なく上がり続けている。汗でシャツが張り付く。顔に汗が伝う。
「和田じゃね!?」
という声に俺はハッと顔をあげる。3人組の女がいた。みな、一様に可愛い顔をしていたがなんだかメイクも髪型も体型までもが似ていてよく見分けがつかなかった。多分同い年くらいではあるが、高校では見かけない顔だった。
「おー、めっちゃ久しぶり」
和田が挨拶するとあっという間に三人娘に囲まれた。
「誰々!?」
「友達?」
不躾に女達は質問責めにしてくる。といっても和田に聞いているだけで俺の事を聞いているのに俺の事はスルーだ。この年齢特有の無敵感が俺はとても苦手だった。特に女子の団体が苦手な俺はあからさまに嫌そうな顔をしてしまったが、彼女たちは何も気にしていないようだった。俺の表情など見ていないのだろう。
「うーん、友達っていうか」
ふいに和田は俺の肩を抱く。そして、
「カレシ?」
などと言いやがった。
「えーーーー!ついに男に手を出したの!?」
ウケる、どっちがどっち?などと黄色い声を上げているが俺は何の反応もできずに固まってしまった
「そうそう。じゃあねー」
和田はにこにこと女の子たちをあしらうとまた歩き出してしまった。俺も慌てて追いかける。背後から逃げんなー!などとはしゃぐ声が聞こえるが追いかけてはこなかったのでホッとした。
和田と前後に並んで住宅街をだらだら歩く。俺は先に行く和田の背中を見つめながら歩く。和田のうなじに汗が垂れている。
カレシ。と言った。確かに言った。冗談で言った?冗談に決まっている。それでも少し嬉しくて気持ちがふわふわしてしまっていた。俺ってだいぶチョロいんだな、と呆れ返る。どちらかというと自分は冷静で無感動な人間かと思っていた。そういえば和田は前に言っていた。相手がチョロそうかどうか分かると。つまり俺はそういう人間だと見抜かれていたのかもしれない。
顔が赤くなる。もう熱中症になりそうだった。
和田の家は三日前に来た時と何も変わっていなかった。生活感がなくて広くて静かだ。クーラーを付けっぱなしにしているのか家の中は涼しかった。俺は暑さから解放されて少しだけ気が緩んだ。
「暑すぎ。俺シャワー浴びてくる。麦茶とか勝手に飲んでていいよ」
和田は玄関に入るなり、また服をあっけらかんと脱ぎだした。俺は靴を脱ぐより先に和田に問う。
「さっきの何」
「さっき?」
「俺たちって付き合ってるの?」
「え?そういう事になったと思ったんだけど、違った?」
和田は服をすっかり脱いでしまって下着一枚で俺に向き合う。ネイビーのボクサーを履いていた。和田にしては地味だなあと頭の隅でどうでもいいことを思う。
「でも和田は俺のこと好きじゃないよな」
「んー?鳥羽が俺のこと好きなんじゃないの?」
「……」
好き。なのだろうか。惹かれてしまっているのは確かだが、なんだか俺が想像している好きと随分違った。和田といるとときめきよりもなんだか胸がざわざわする。焦燥感とか不安感の方が大きい。もっと恋って楽しかったり嬉しかったり、きゅんとするものじゃないのか。
「わかんない」
俺がぶっきらぼうに言うと和田は
「それでいいじゃん」
と、どうでも良さそうに言った。何がいいんだ。何もよくない。
「ねぇ、またちんこ舐めてよ。前すげぇ気持ち良かった。フェラは男にされた方が気持ち良いってマジなのな」
それでも俺は和田にそう乞われると操られたかのようにそうするしかなかった。
「あ、いい」
ベッドの上のブラインドは今日は下がっていた。この寝室は南向きなのかブラインドの隙間から強い光が差し込んでベッドにストライプの模様を作る。ベランダに続くガラス戸は遮光カーテンで閉じられていて、部屋は薄暗い。ストライプの影は強いコントラストを作っていた。牢屋みたいだ、と思った。
俺はベッドに腰掛ける和田の脚の間に跪いて和田の性器を舐めさせられた。静かに動く空調が俺の汗を冷やして肌が冷たくなっていく。握って舌を這わせているものがより熱く感じた。
そこはボディソープの匂いと和田の本来の匂いがした。それを吸い込むたびに俺の脚の間も膨らんでいく。やっぱり俺って男が好きなんだろうな、と自覚させられるようで何とも言えない気持ちになった。諦めのような落胆のようなすっきりしたような。
「…っ、もっと扱いて…」
和田が切なげに言うので、俺は力を強めて和田のものを扱く。イキそうになっているようだった。
「あ、いい、出そ、」
脈動するそこを咥えて精液を受け止めた。栗の花のような匂いが口に広がる。俺はそれをなんとか飲み下した。三日前に初めて口に入れた時も衝撃的だったが、二回目でも慣れない。ネットの情報だけだともう少し飲みやすいものかと思ったが、ただただまずい。そんなことまでしなくていいような気がするが、和田にはびこる複数の女の影に対して変な対抗意識が沸いてしまった。
ところで、さっきから俺の性器はジーンズの中で張りつめてしまっていて痛い。俺は床に座ったまま収まるのを待ったがなかなかその熱は引かなかった。
和田は俺のことなど放置してベッドの上で寝転んでさっそくスマホを見ている。フェラをさせられている最中も絶えず通知が来ていて、裏返したスマホからは何度も淡い光が漏れた。そのたび俺は水を差されているようでイライラした。
俺のもして欲しい、とはさすがに言えなかった。言った瞬間、和田に捨てられる気がした。和田からはなんというか、対等以上を許さない気配というのが初めて会った時から漂っている。俺に対してではなくて、全ての人間に対して。
この時点で既に和田と俺の従属関係は暗黙のうちに決定していた。従っているのは俺だ。俺が勝手に従っているだけだ。逃げるのやめるのも俺は自由なはずだった。和田は俺を鎖に繋いでなどない。あくまで自己責任、あくまで俺が選んでいるように和田に仕向けられていた。それを分かっていながら俺は和田の不思議な引力に抗えない。
「トイレ貸して」
どうしようもないので部屋を出ることにした。
「抜くの?」
にやにやと意地悪そうな目で和田が俺を見てくる。
「オカズ貸そうか?俺のパンツとか」
俺は和田を好きなのかもしれないが、何かと腹が立つのは変わらなかった。
「いらねぇよ」
いつか本当に襲ってやろうか、と憤りながら俺は部屋を出た。
『家政婦の絹代』は午前中に訪れてこのトイレを掃除して帰ったに違いない。壁にくっついている二つのトイレットペーパーの一つは清掃済を表すように先端が三角に折られていた。
そんな同級生の家のトイレで何をしてるんだ、と思いながら俺は自分で自分を慰めていた。和田が俺のを背後から扱いてくれる妄想をしてしまう。骨や血管が綺麗に浮き出たあの手が、あの長い指が俺を包んでくれたら。
あの軽薄な口調と声で『いいって言うまでイっちゃダメ』『もうぐちゃぐちゃじゃん』『恥ずかしいね』と責め立ててくれたら。
そして、最後は優しく『イッていいよ』と耳元で囁いてくれたら。
「あ、……っ」
ボタボタと音を立てて俺の精液がトイレの中に落ちる。俺はトイレットペーパーで拭うと丸めて捨てて馬鹿げた妄想ごと全て下水に流した。そして足を休めるために便座に座る。下着とズボンを上げる気力もなかった。
薄いグレーの壁紙と渋い茶色の造作家具で構成されたトイレはもはや俺の部屋よりオシャレだった。
和田の精液は俺の体内に、俺の精液は和田の家のお洒落なトイレに。落差がすごい。と考えると俺はなぜだか面白くなってフフッと笑ってしまった。
「……虚しい…」
俺は急に惨めな気持ちになってしまった。こんな事してちゃダメだ。予備校までサボって馬鹿すぎる。帰ろう。もう予備校で会っても無視しよう。
もう帰ろうと思って寝室に顔を出すと誰もいなかった。和田はリビングに移動してソファに横たわっていた。肘掛けに頭を乗せて、足を組んでスマホを見ている。
見てもいないテレビからは主婦向けの情報番組が流れている。
「眠いんじゃないの」
「昼寝はこのソファでしたいタイプなんだよね」
和田は突っ立ってる俺を手招きした。帰ると決めたのに俺は和田の寝そべるソファの隅に座った。ソファはでかいが、さすがに男が1人寝ている隙間に座ると狭い。和田はゆるっとしたTシャツとステテコみたいな半ズボンに着替えていた。時々裸足のつま先が俺の肩や腕に当たる。わざとやってるのかもしれない。
「なんかして欲しいことある?」
和田はスマホから目を離さずに言う。
「え?」
「エロいことしてくれたら、代わりになんかしてあげるって言ったじゃん。あ、エロい事以外でお願い」
「別にして欲しいことなんて…」
正直いっぱいある。いっぱいあるが、何を言えばいいのだろう。俺が言いあぐねていると、
「じゃあ、俺が勝手にしちゃお」
「えっ」
和田はぐるっと体の向きを変えて俺の腿に頭を乗せてきた。
「膝枕で寝かせて。俺、人肌があった方がよく眠れる人なんだよね」
「……」
スマホをテーブルに放り投げると子供みたいに俺の膝で目をつぶる。なんというか庇護欲が掻き立てられてしまった。ずるいなあ。と思う。ずるい。こいつはすごくずるい。
「鳥羽って下の名前なんていうの」
和田は目を瞑りながら話しかけてくる。昼寝をする子供を寝かしつけている気分だ。
「こうき。光って輝くで光輝。嫌いだけど」
「いいじゃん、こーき。綺麗じゃん。ってか俺と被ってるし」
「被ってる?」
「俺、ひかる。しかも一文字で光。なーんかさ名字もパッとしないのに。漢字で3文字だぜ?画数少なすぎてウケるわ」
「ひかる……」
俺は思わず和田の名前を反芻してしまった。
「もう少しかっこいい名前がよかったなー」
「充分いいと思うけど」
それは本心だった。確かに和田の名前にしては地味だが、普通にいい名前だと思った。俺なんかよりよっぽどヒカリという字面が似合う。
「そー?」
しばらく和田は無言だった。本当に寝たのかと思った頃、またおもむろに口を開いた。
「光輝といると落ち着くなー」
そう言って和田は俺の腿の上で頭をぐりぐり動かす。
「ばか、くすぐったい」
俺は思わずふふっと笑ってしまった。体もくすぐったかったが、心もなんだかくすぐったい。和田は本当に眠そうな子供みたいにもぞもぞ動いた。
「こーき、こーき、言いやすいな」
「名前で呼ぶの?」
「鳥羽より言いやすくね?こーき、こーき」
下の名前をそんな風にはしゃいで呼ばれるとむず痒い。暖かくて重い和田の頭が乗っかる腿から何かぽわぽわした物質が血管を巡って冷房で冷えた肌が温まっていくようだった。
俺は初めて和田に対してきゅうとするような想いを抱いた。いつもの嫌なざわざわした感じじゃなくて、危ない感じじゃなくて、癒されるような感覚。本当に恋人がいたらこんな感じなのかもしれない。
セットされてない緩やかな髪やニキビのひとつもできていないつるりとした額を撫でたかった。でもできなかった。そんな事をした瞬間に拒絶されるような気がした。俺の手は何も触れなくて空を掴む。
「俺も名前で呼んでいいよ。あ、これも付き合ってるっぽいじゃんね」
和田は俺の心情を知ってか知らずか無邪気にそんなことを言う。
「なんでこんな事するんだよ」
俺からは何もできないのに。
「こんな事?」
「付き合ってる、ごっこみたいな事」
「なんかさー、鳥羽…じゃない、光輝は俺の事好きなのに、なんも期待してないとこがイイ」
和田は答えになっているような、なっていないような事を言ってそれ以上何も言わなかった。
やがて寝息が聞こえてきた。
今ならそっとキスしてもバレないかもしれない。髪に口をつけるくらいなら大丈夫かもしれない。でもしなかった。
和田は俺を試している。俺が、和田が引いた境界線を超えないかを試している。そして釘を刺している。俺に、深入りをするな。と。上限を超えてくれるなと。
じゃあ、なんでこんな事をするんだ。
俺は先ほど投げかけた疑問を再度和田の寝顔に投げかけた。こんな事をして何になるんだ。気まぐれ?哀れみ?興味本位?暇つぶし?嫌がらせ?遊んでるだけ?
それとも、本当に俺に気がある?
100%ないであろう可能性を見出だしてしまう。こいつが何を考えてどこに行きつこうとしているのか全く分からなかった。
「はぁ……」
俺も眠くなってしまった。もういいや。考えるのめんどくさい。
俺と和田の奇妙で歪な関係は夏の間ずっと続くことになる。
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