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第6話 私の満ちぬ月・前編*
『あ、だめ、見つかるってば』
俺のベッドの中で和田が裸で俺にのしかかってくる。俺自身も素っ裸で俺たちは裸で抱き合っていた。
『大丈夫だから』
『ま、待って』
という俺の制止も聞かずに和田は自分の性器を俺の性器に擦り付けてくる。
『あっ』
俺は力が出せずに和田を押し返せない。和田が腰を動かすと、とてつもない快感が押し寄せてくる。
『あっ、あ、んん、ぁ』
しかし俺の部屋の前で母と姉が甲高い声で喋っていて、俺はバレないか不安になる。興奮と緊張で心臓が痛い。
『和田、バレちゃう』
『大丈夫だって』
しかし和田は行為をやめてはくれない。擦り合わせた性器を扱いてくる。それはめちゃくちゃ気持ち良くて、理性は馬鹿になっていった。
『あっ、やだ、イ、イク』
俺はイキそうになって体を強張らせる。その時だった。
「お母さーん!!スマホあったー!!」
と言いながら姉が俺の部屋に入ってきた。
『!!』
「………」
というところで目が覚めた。俺にのしかかっていた和田はいなくて、よく見知った自室の天井が視界に入ってきた。元々和室だった部屋で、畳はフローリングに変えたが天井は古い板張りのままだ。
さっきまで妙にリアルに和田の重みも快感も感じていたのに、煙のように消えていった。寝起きの頭で脳の不思議についてボヤっと考える。
時刻は8時前。部屋の外で姉と母がバタバタしている声が聞こえる。狭いマンションでは、部屋の中にいても誰がどこで何をしてるか大体分かる。目覚める直前に聞こえてきた姉の声は現実だったのかもしれない。そういえば母と姉は墓参りに行くと言っていたっけ。やがてドアの閉まる音がして喧騒は聞こえなくなった。
なんつー夢を見たんだ。俺ははぁと息を吐いて胸を手で押さえた。夢精は避けられたようだが、俺の性器は熱を持って充血していた。心臓もドキドキし続けていた。
世間はお盆休みに突入したようで予備校が建っているオフィス街はサラリーマンとOLが一斉に姿を消し、街全体が伽藍堂になっていた。
大きなビルが建立しているのに人が全然いない風景はなんだかゲームのオープンワールドみたいで少しだけワクワクした。
予備校での授業を終えて俺と和田は駅までだらだら歩いていた。いつもと違って足早な会社員はいないので、幾分かゆったりと歩を進める。いいな。こういう何気ない時間をもっと過ごせたらいいのに。今日はこれからどうするんだろう。今日はまだ「うち来る?」とは誘われてない。俺からは何も言ってはいけない暗黙の了解があるので、俺は指示があるまで動けない。
夕方とはいえ陽射しはまだ暑い。ジリジリと俺の首を焦がす。俺が汗を拭おうとハンカチタオルを取り出した時、和田はおもむろに口を開いた。
「あー、そうだ。明日、港の花火大会じゃん。あの家、よく見えるよ。毎年そこで見てるんだけど。来る?」
そういえば和田の家は観光名所にもなっている港が近くて、そこでの花火大会は地元の人間もよそからも大量に人が押し寄せる。
「花火?」
正直、花火なんかどうでもよかったが、俺はずっと恋人同士が体験しているようなイベントに憧れがあった。柄にもなく胸が高鳴る。
何度か例の報酬としてデートでもしてもらおうとか考えたが、遠出する時間も金もなく、知り合いにも見られないようなデートプランが何も思いつかず結局言い出すことはなかった。
和田と花火を見る。そんな恋人同士の鉄板のイベントが過ごせるなんて。しかも和田からそんな事を言い出すなんて。
俺は和田にとって友人どころか都合の良い性処理係として扱われている自信があったので会うたびにズタズタになっていた俺のプライドが少しだけ修復されていくような気持ちがした。
俺は内心浮かれまくったが和田には悟られないようにできるだけテンションを抑えて返事をした。
「見たい…かも。それって俺だけ?」
「光輝しか呼んでない。なんか最近誰かと連絡取るのだるくってさ。光輝は楽だわ」
「じゃあ…行く」
「俺、明日はじーちゃんの墓参り行かないとダメなんだよ。あちーのにさ。だから予備校休むから夕方くらいに来て」
「今日は?」
「今日はこのまま実家帰って明日の夕方にはマンション戻るから」
「わかった」
「あとさ、帰りの電車めっちゃ混むから泊まれば」
「え……いいの?」
「え?別にいつも泊まってんじゃん」
いつもではないけど、その時のノリで帰りが遅くなった時やだるくなった時はたまに朝まで和田の家で過ごしていた。
けれど和田の方からわざわざ事前に泊まれば?など言われた事はない。
なんで急にそんな事言うんだ?もしかして泊まって欲しいのか?
俺は喜びを隠すように下を向いた。和田は俺の顔なんか見てないけれど。熱帯夜を生み出している昼間の熱射に焼かれたコンクリートがなんだか海みたいにキラキラ見える。
嬉しい。
しかも今の会話、普通に恋人同士が交わすような感じだった。俺の心は珍しくぽわぽわしたもので満たされていく。何気なく頬を触ったら熱くなっていた。もちろんこの暑さのせいではない。
次の日、俺は1人で授業を終えると一度家に帰ってちゃんとシャワー浴びて、久しぶりに遊びに行くような格好をした。(と言っても他人から見たら特に差はないだろうが)
和田の家ではホテルのようにパジャマも歯ブラシも借りられたけど、浮かれてお泊まりセットのようなものもリュックに入れた。念のためゴムとかもいれておいた。
そんなロマンティックに過ごせるとは限らないが、デート前の気分を味わたって誰にも迷惑をかけない。俺はこの時本当にこれ以上ないくらい浮かれていたのだ。
母はお盆休みで家にいたので、ついうっかり花火大会に行ってくると告げてしまった。もしかしたらこのまま友達の家に泊まってくるかもとも。
毎日しっかり勉強してるものだと疑っていない母は、笑顔で送り出してくれた。いつもお世話になってるみたいだから手土産を持って行くように、と五千円札も渡された。俺の心は罪悪感で自爆した。でも電車に乗る頃にはもう忘れた。
どうせまた抜くの手伝わされるのだろうけど、今日はそれだけじゃないのだ。好きな人と花火を見るのだ。和田との普通の思い出が増える。それは単純に俺をワクワクさせた。
夏の夕方はどうして不思議な胸騒ぎがするんだろう。これから何か特別な事が起こるような気分にさせられるんだろう。
だけど嫌な感じではない。期待のドキドキだ。俺は湿った夏の宵の匂いを吸い込んで、深く息を吐いた。
そういえば1人で和田のマンションに来るのは初めてだった。俺たちは相変わらず連絡先を交換していない。教えて欲しいとは言い出せなかった。別に連絡する用事もないし。和田がまめに返信するとは思えない。それに和田にお伺いを立てる取り巻きの1人になるのは嫌だった。
エントランスのオートロック操作盤で和田の部屋番号を押すとややあって、くぐもった声で『はい』と聞こえた。
「あ、俺だけど」
『……』
一瞬、妙な間があって俺は違う家の番号を押したのかと焦った。しかしすぐに和田の声が返ってきた。
『ん…?あ、ああ』
俺は瞬時に嫌な予感を感じた。
それでもドアが開いたので俺はマンション内に入った。コンシェルジュと目が合う。頻繁に来ている俺をもう覚えているだろう。貼り付けたような笑顔で会釈をされた。俺のことを何者だと思っている事だろう。
エレベーターに乗りこんで上階に上がって行くたび俺の心拍数も上がっていった。なんだか気持ち悪い。和田の部屋のインターホンを押す。指が震えていた。俺はその震えの正体を知っている。知っているけど、知らんぷりをした。
案の定、ドアを開けた和田は第一声で
「ごめんけど、帰ってくれる?」
と言い放った。
「あ、え?なんで…」
和田は何も答えなかった。
「あ、お茶くらい飲んでく?」
和田がそう言いながら家の中に入って行ってしまったので俺は慌てて閉まりかけるドアの隙間に入り込んだ。
リビングまで行くと和田は麦茶を出してくれた。そういえば勝手にもらうことはあるけれど、和田がお茶を出してくれたのは初めてだった。
ごとっと俺の前にコップを置くと和田は怠そうにいつものソファに身を沈めて目をつぶった。和田は今の今まで寝ていたのかもしれない。
これ飲んだら帰れってことだよな。なんで?花火は?と思ったがそんな推測無意味だ。
決まってる。俺以外の誰かに会うのだ。
俺は雑に淹れられてコップの縁から滑り落ちる麦茶の雫を見つめたまま、どうしたらこのままこの家に居座れるかを考えた。まだ16時くらいだったが、以前よりも陽が落ちるのが早くなった気がする。西向きのリビングは陽の入りがよく分かる。夏休みはそろそろ折り返しだ。陽が落ちてしまう前にここに居続けられる口実を見つけないと。
「あ、あのさ、光のしちゃダメ?」
馬鹿じゃねぇの!?
けれど、考えても考えても俺が今ここにいられる理由がこれしかなかった。
「光輝から言い出すなんて珍し。でもごめん、ザーメン溜めておかないと」
と言って笑った。
「誰が来るの」
「オンナノコ」
和田は言い訳さえせず即答した。そこにはこれ以上は聞くなよ、という牽制が含まれている気がした。
「そうなんだ」
分かっていたのに声が上擦った。頭が急速に冷えてくような熱くなるようなわけのわからない感覚がする。
和田の周りにはずっと俺以外の誰か、しかも複数の女がいる気配がずっとしていた。
俺は別に和田が付き合おうと言ってくれた事を鵜呑みにしたわけではない。そして俺だけと『こういう事』をしていると思っていたわけでもない。それでもこの夏休みの間に一番会っていて一番性行為をしてるのは多分俺だという自負があった。その『多分』に縋って、『多分』に免じて気にしないふりをしていた。
だけど今明確に順位をつけられてしまった。
怒れよ。なんで怒らないんだよ。馬鹿にされてるんだぞ。雑に扱われてるんだぞ。舐められてるし下に見られてる。怒れ、怒れ、怒れ。それでもうこいつは切ればいい。俺にはそうする権利も理由もある。
「ひかる」
でも俺から飛び出た言葉は全然違う言葉だった。
「セックスしようよ」
俺は自分が言ったことに驚いて固まってしまった。目の前の麦茶がぐにゃっと歪んでいくような感覚がした。だらだらと冷や汗が出てくる。
俺、今、なんつった…?
「は?」
少し間を空けて和田は聞き返した。その声音には嫌悪と驚きが混じっているような気がした。俺だってそうだ。俺だって自分に対して「は?」だ。
「俺に挿れていいよ」
俺は自分が言った事に再度ビビる。体が乗っ取られてしまったように馬鹿なセリフが飛び出す。
「さすがに勃たないって」
和田は半笑いでいなすように答えた。
「俺が勃たせるから」
俺の口は俺の意思に反して矢継ぎ早に誘いの言葉を続ける。もうやめろ、そんな事言ったって無駄だ。和田は俺なんか選ばない。男となんかセックスしないんだよ。
「生でヤッていいよ。中出ししてもいいし。俺、誰ともしたことないから病気とかないし」
ばかばかばか!何を言ってんだよ!何のプレゼンだよ。
「だ、ダメ?」
ダメに決まってんだろ!
「必死でウケる」
和田はさしてウケてない口調で言った。半分呆れたような引いてるようなニュアンスだった。
「ウケない……」
和田からOKがもらえなくて、俺の声は自分でも恥ずかしくなるほどがっかりしていた。
「…光輝ってさ、俺の事そんなに好きなの?」
揶揄うようなバカにしたような、そして引いているような声音で和田が問う。実際今の俺は馬鹿な事を言っているので合っているが。
「それともヤってみたいだけ?」
「…………」
どっちもだった。好きな人とヤッてみたいなんて当然の気持ちだ。とは言えなかったが。
「え?黙秘?」
「……どうだっていいじゃん。光にとってはどうだっていいだろ」
「まあ確かに」
そのまましばらく沈黙が続いた。俺はイエスもノーももらえないままだ。もう帰ろうか。それでもう諦めよう。こんな事はやめよう。2度とここには来ない事にしよう。和田を忘れよう。何もかも忘れよう。今すぐ記憶喪失になってしまいたい。
俺は一口だけお茶を飲んで帰ろうと口に含んだ。そのタイミングを狙ったのかのように、和田は、
「でもさ男同士って尻の穴使うんだろ。どうやって?」
と聞いてきた。麦茶が変なところに入ってむせる。
「え、ロ、ローションとか使って…」
「そんなのないけど」
「持ってる…」
「なんで?」
「……」
「え?また黙秘?」
「あと、いろいろ…あるけど家でやってきたから…」
「何を?」
「深くツッこまないでくれる?」
「ふは!光輝っておもろいなー」
と和田が笑った。そして
「いいよ。ヤッてみようぜ」
と言った。俺は危うく麦茶のコップをひっくり返しそうになった。
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長くなったので前後編に分けました。