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第8話 伏して待つ犬*

 あの花火大会から和田は予備校に姿を現さなかった。  俺は和田のために本当にご飯を作るつもりでいて、それを密かに楽しみにしていて、献立を考えたりレシピを検索したり家で練習したりしていた。男子高校生が好きそうなものばかり家で作っていたら姉からカロリーオーバーだの糖質過多だのクレームが入って喧嘩をしかけた。  だけど1週間経っても和田は現れなかった。夏休みももう10日ほどしかない。期待は落胆に変わり、焦燥は恐怖に変わっていった。俺は夏休みが終わってしまうことを小学生の頃より憂鬱に感じていた。  夏休みが終わったら俺と和田はどうなるのだろう?  何度も何度も考えたけれど、何度シミュレーションしても夏休み明けからも和田とこんな関係を続けられると思えなかった。  だって、和田は俺を好きじゃないのだ。  最初は廊下ですれ違ったら手を挙げて挨拶くらいはするかもしれない。元気?とか言葉を交わすかもしれない。でもきっとだんだんそれも減って、最後は目すら合わない他人になるのが容易に想像できる。  だけど本当に愚かな事に俺は、「だけどもしかしたら」何か変わるかもしれない可能性を願ってしまっていた。俺の不在を寂しいと思ってくれるかもしれない。やっぱり光輝じゃないとだめだとか言ってくるかもしれない。そうなったら、いいのに。それでちゃんと付き合おうとか言われて、大学入ったら一緒に暮らしたり、  ガタガタガタッ。  椅子を引く音や人の足音に俺はハッと顔を上げる。いつのまにか最後の授業が終わっていたらしい。俺は慌てて帰り支度をする。もうこんなふうに授業に身が入らない日がずっと続いていた。  その日、我慢できずに俺は和田の事を事務局に尋ねたが個人情報云々で何も教えてはもらえなかった。  埒が明かないので俺は和田のマンションに行ってみることにした。俺たちは相変わらず連絡先の交換はしていないのだ。  8月も下旬に差し掛かり、陽が落ちるのが早くなった。時刻は19時で遠くのビルの隙間にオレンジを残すばかりで空は群青だった。蝉の声もいつの間にかほとんどしなくなっている。    和田と花火をした広い公園の木々の近くを通ると、まだ夏にしがみつく蝉が鳴いているくらいだ。    うだるような暑さだけを残して夏が終わりに向かっている。このまま夏休みが終わるのかと思うと寂しいを通り越して怖かった。夏の中に取り残された蜜月の死を看取るような気持ちだった。  和田はそれでいいのかもしれないが、俺だけがその死を悼み続けるのかと思うと途方に暮れてしまう。  俺は夜に追い立てられるように足早に公園の横を通り過ぎる。コンっと何かを蹴っ飛ばしたと思ったらそれは蝉の死骸だった。蝉が鳴くのは求愛行動らしい。きっとこれは俺の成れの果てだ。  マンションの前まで来たが俺はなかなか中に入れなかった。追い返されたらどうしよう。そもそも誰も出なかったら?けれどこんなところで不審者のようにうろうろしてても埒が明かない。  俺はどうにでもなれ!と思いながらオートロック操作盤が置いてあるエントランスまで早足で入った。だが、偶然にも同じタイミングでマンションの住民らしき中年の男が出てきてしまい中扉はオートロックを操作せずとも空いてしまった。住民の男は俺になど一瞥もくれずにそのまま外へ出て行ってしまった。俺は0.3秒ほど迷ってそのまま入った。さも、最初からここに来る事を約束しているように。  俺に気づいたコンシェルジュはまた張り付いた笑顔でにこやかに会釈をした。俺は内心止められるのではないかとドキドキしながら、釣られてペコと頭を下げる。でも止められる事はなかった。俺が言えた義理ではないがセキュリティがばがばじゃないか…?  そのまま落ち着かない気持ちでエレベーターに乗り込み、和田の部屋まで着てしまった。おそるおそるインターホンを鳴らす。数秒ほどの間があって 『はい?』  と不審気な和田の声がした。 「あ、俺…鳥羽だけど…」 『光輝…?』  ガチャと扉が開いた。俺はその姿にぎょっとした。和田は寝起きだったのか、髪がセットされておらずぼさぼさだった。髭の処理も怠っているようで少しだけ無精ひげが生えていた。いつも頭髪も顔も服も全てを完璧にセットしているのに全てを放棄しているようだった。 「……何しに来たの」  和田は頭を掻いてあくびをしてめちゃくちゃ面倒そうな顔をした。その顔にグッサリと傷つく自分がいる。 「和田に、…和田が…予備校来ないから…心配で」 「わざわざ?あー…そう言われると俺たちって連絡先も交換してなかったね」 「ま、いいや入って」 「いいよ。和田が無事ならそれで良かったから。帰る」  俺はこれ以上、面倒な奴に成り下がりたくなくて踵を返した。だけど和田は俺に手を伸ばしてきた。 「いいから入れよ」 「!」  掴まれた腕の強さに驚く。俺は引きずられるように中に入った。よろけながら玄関に入る。 「もうさー勝手に予備校行ってたりカテキョサボってるのバレちゃってさ。久しぶりに親にちょー怒られたわ」 「え…」  話が飛躍しすぎて上手く返事ができない。 「だからずっとここで軟禁されてんの。朝から晩まで勉強漬けでクッソだる。しかも女の家庭教師から男に変えられるしさ…やっぱ女って面倒だよな…ってか今寝てたんだよなあ。俺勉強しなくても頭いいのにさ…」  和田は明らかに苛々していた。取り留めのない愚痴をただ羅列していた。話にまとまりがなくて俺は玄関で立ち尽くして黙っていた。  和田があからさまに不機嫌な態度を見せるのは初めてだった。意地は悪いが飄々としている時の方が多かったからだ。 「せっかく来たんだから抜いてってよ。最近自分でしかしてないんだよね。」  と突然ボクサーをずらしてきたので俺はぎょっとする。 「え、ここで?」  和田は玄関から先に進まない。俺を中に上げる気はないというように。 「うん、ベッドまで行くの面倒だから」 「……」  俺が戸惑っていると 「嫌ならいいよ別に帰っても」  と言い放つ。和田の目は冷たかった。和田は確かに意地の悪いことを言うし逆らったり優位に立とうとすることを許さない。でも、こんな無感情な目をされたのは初めてだった。俺の事を壊れかけの機械でも見ているような目で見てくる。動かないなら捨てるけど。というような。 「嫌じゃない、する」  俺はとっさに屈んで、和田の前に膝をついた。そしてすぐに舌を這わせた。  玄関の大理石の冷たさと硬さが膝に伝わる。靴も履いたままなので違和感がある。いつもと違うシチュエーションを楽しむ余裕などなかった。  和田に嫌われたかもしれない。やっぱり迷惑だったんだ。そもそも和田は自分のペースや領域を乱されるのが嫌いなのだ。なんで来てしまったのだろう。俺は必死で挽回しようとひたすら舌を動かして顎が痛むほど咥え込んだ。できるだけ深く咥え込もうとした時に頭を掴まれた。 「もっと、奥まで」 「!!」  和田は俺の頭を動かして喉の奥までいれてきた。 「んっ、んん!!」  息苦しさと嘔吐感が込み上げて俺は何度もえずいた。 「はぁっ、あっ、イイ、絶対噛むなよ」 「んんっ!」  俺は抗議の唸り声を上げるが、和田は俺の頭を無理矢理動かす強制的なストロークを止めなかった。何度も何度も和田の性器を異物と感知して横隔膜と喉が引き攣った。涙が滲んでくる。 「あ、イク、出る」  和田の精液が喉の奥にぶちまけられて俺は激しく咽せた。 「えほっ、ごほっごほっ」  俺がむせてるのを和田はただ見ていた。背中をさすったり、大丈夫?とも聞いてはくれなかった。 「こういうの女の子相手だとなかなか出来ないからさ」  和田が感情のない目で呟く。 「…………」  俺は何も言わなかった。何も言えなかったし何も言いたくなかった。  俺はしばらく四つん這いになりながら息を整えた。やがて呼吸が落ち着くとぼーっと壁に寄りかかって俺を見下ろしている和田を見た。  目が合った瞬間、薄い唇とアーモンド型の瞳を意地悪く歪ませた。冷たい闇夜を見ているようだった。ゾワッと鳥肌が立つ。 「わんちゃんみたい」  そして馬鹿にしたような声で言う。 「光輝って犬みたい」 「従順で馬鹿で可愛い」  ああ。今こいつは明確に俺を傷つけようとしているのか。と理解した。そして試しているのだ。俺が彼に逆らわないか。俺が彼から逃げないか。俺が彼よりも可哀想な存在でいられるか。  俺は口許を袖で拭いながら、 「やめろよ。犬に失礼だろ」  と言った。 「ふはっ」  和田が噴き出す。皮肉っぽい笑い方だった。だけど彼は俺の返しをお気に召したようだった。 「いいこいいこ」  と俺の前に屈んで頭を撫でてきた。その顔はいつもの『ちょっと意地悪で嫌な奴』な和田だった。 「やめろ」  俺はその手を振り払う。和田の隠している本性を少しだけ垣間見たような気がして怖かったが少しだけ嬉しいとも思ってしまった。  もし和田が誰にも見せられない自分を持っているなら。  本当の自分を出せる場所が欲しいなら。  俺は受け止めてやってもいいよ。  お前は俺といると落ち着くって言ったよな。  俺が何も望まないから。  俺は和田に理想なんて見てないよ。  多分、きっと冷酷で性悪で無気力で無関心なお前を好きでいられるよ。  こんな事されても、こんな和田を見ても俺はお前が好きだ。 「それで?わんちゃんは何が欲しいの?」  和田は本当に動物でも見ているような慈愛の目を向けてきた。本格的に俺が人間だという事を忘れているのかもしれない。  それでも良かった。もはやなんでも良かった。  愉快そうに口角を上げる和田の薄い唇を見つめる。今日は少しだけ荒れていた。自分の手入れは怠らないタイプだったろうに、可哀想。リップクリームを塗る余裕すらないのだろうか。  今、俺はお前を抱きしめたいよ。  それから、 「キスしたい」  とぽつりと言ってしまってハッと我に還る。だけど取り繕う言葉は何も出てこなかった。だって本心だし。 「うーーーーーーーん、うううーーん、光輝とならできるかー?うーん」  意外にも和田は首を傾げながらシミュレーションしてくれているようだった。それが逆に俺の心を抉る。バサっと無理、と言ってくれれば変な期待しなくて済むのに。 「もういいよ」  俺は拗ねた気持ちになる。 「ごめんて」  どうせ俺は和田の性欲を処理する事はできても恋愛対象にはなれないのだ。ああ、もうずっと。ずっと。ずっと。永遠に。 「じゃあ観覧車乗りたい。光と」  俺はふと港の観覧車を思い出した。花火大会の会場となっていた港には小規模な遊園地があって、そこの観覧車はシンボルになっている。   小学生の低学年頃までは家族で時々遊びに行っていた。 「観覧車?」 「観覧車…乗ってデートしたい…」  俺は言いながら恥ずかしくなりどんどん小声になってしまった。 「俺、スマホにGPS入れられて監視されてんだよね。外出たらバレるかも」 「じゃあスマホ置いていけば良くない?」 「スマホにカードもペイ系も入ってて現金もない」  とお手上げのようなポーズを取る。 「俺が全部出すよ。今まで昼飯出してくれてたし。お礼」  和田は少し困ったような顔をした。俺と出かけるのが面倒なのか他のためらう理由があるのかは分からなかった。 「行きたい。お願い。一生のお願い」  俺は下を向いて淡々と呟いた。介錯でも頼んでいるような気持ちだった。 「一生のお願い今使っていいの?」 「うん……」  だって、きっともう最後だろ?  俺と和田はマンションを出ると観覧車に向かって歩き出した。電車やバスを使うほどの距離じゃない。和田は最初こそ乗り気でなかったようだが、外に出るとはしゃぎだした。 「外出るの久しぶりすぎ!」 「ずっと家にいたの?」 「ほぼね。スマホ持って出れないしさ。息抜きは近くのコンビニ行くくらい」 「なんで、こんな事になったの?」 「うーん…いやさ、ほら花火大会あったじゃん?カテキョのお姉さんと見る約束してたんだけどあの日、光輝来たじゃん?でもドタキャンしたらさ、マジギレしちゃって。っていうか夏休みも勉強したくないから親に無断で適当な事言ってカテキョの人に来なくていいとか言っちゃっててさ。それがバレて親に…まあこの話長くなるからいいわ。とにかく予備校は辞めちゃった」 「そ、そうなんだ…」  なんだか複雑な事情があるようだったが、その家庭教師の女と何かあったのだけは分かる。俺が何も返答できずにいると、和田は 「手でも繋ぐ?」  と言ってきた。 「いいの?」  和田は勝手に手を握ってきた。 「手ぇ冷たっ」 「ごめん」 「夏にそんな冷たい事ある?」 「緊張しちゃって」 「ふーん」  和田はいつものどうでも良いというように返事をした。実際どうでもいいのだろう。和田はきっと何もかもがどうでもいいのだ。俺が男が好きなのも、俺が和田を好きなのも、和田が俺を好きじゃないのも、全部どうでもいいんだ。    観光地である観覧車から少し離れたここは人通りが少ない。車は行き交っているが、マンションや一般企業が入っているビルが立ち並んでいるだけであまり人が歩いていない。駅から遠いせいもあるだろう。  俺と和田は人目を気にすることなくしばらく手を繋いでいた。港町の風情を出しているためか街頭も少なく夜が俺たちを隠してくれた。時折港から生ぬるい風が吹いてくる。まだ暑いには暑いが、その湿った風の中には僅かに秋が含まれていた。  人が多くなると自然と手は離れた。  観覧車の周りには平日だというのに夏休みのせいなのかカップルやファミリー、友人同士と思しきグループがまだまだいた。 「やば、でか」  俺たちは観覧車のでかさに圧倒されて馬鹿みたいに見上げた。夜の観覧車は花火みたいに色を変えてギラギラ光っている。加えて遊園地特有のガチャガチャしたサウンド。小さなジェットコースターで馬鹿みたいに騒ぐ若い悲鳴。いろんな音と光で溢れていた。 「こんなでかかったっけ。これ」 「それな。近くで見ると違うな」  俺たちは乗り場を目指して階段を上がる。周りにはカップルばかりで俺たちは微妙に浮いていた気がしないでもないが、和田は何も気にしていないようで「めっちゃ綺麗じゃん」と騒いでいた。観覧車のチケットはまあまあ高額なので俺にはきつい料金だったが、仕方がない。  15分程度で俺たちの番になった。狭い箱の中で俺たちは向かい合って座った。和田はスマホを持ってこれなかったので純粋に周りを見回して楽しんでいるようだった。 「なんかさー子供の頃にも何回も乗ったけど印象違うな?すっげーそわそわする」 「だな。なんか思ったより怖いかも」 「しかも意外と回転早くね?」  俺たちを乗せた箱はぐんぐん地上から離されていく。俺たちの前後の人を見ると男女のカップルだった。向かい合ってじゃなくて並んで座っていた。 「すげー夜景やば」  見下ろすと小さな遊園地のイルミネーション、街の明かり、港に停滞する船の光、高速を走る車のテールランプ、あらゆる光が散りばめられていた。港の向こうの海だけが暗かった。 「俺んちどこだろ」 「あっちの方じゃね?」 「ビルが邪魔で見えねぇな」  そんな事を話しているうちにあっという間にゴンドラは一番高い場所に辿りついてしまった。 「天辺えぐ。綺麗っつーよりめっちゃこえーのな」 「光」 「ん?」 「キスしたい」  言ってみただけだった。和田もそれはわかっていたらしい。 「うーん、ごめんね。これで勘弁して」 と言って和田は俺の横に移動すると俺のことをギュッと抱きしめてくれた。ハグしてくれた事はあったけど、今までで1番力のこもったハグだった。俺は和田の肩口に頭をもたれさせて目をつぶった。和田の熱気が頬に伝わる。 「そんなにキスしたいの?」 「観覧車の天辺でキスとか誰だって憧れるだろ」 「光輝って乙女だね」 「悪いかよ。姉のせいで少女漫画で育ったからな」 「マジで?意外すぎるんですけど」  と和田は笑った。耳元で笑うから声がくすぐったかった。  俺は和田を抱き返せなかった。  和田を抱きしめてしまったらこの夢は覚めてしまう気がした。  この恋は俺が欲を出したら解ける魔法なのだ。  和田は王子様じゃないし俺はお姫様じゃない。  助けてくれる魔法使いはいない。  この狭い箱には性格が少し歪んだ男とそれを好きになった男がいるだけだ。  どこにも行けないしどこにも進めない。  童話とか少女漫画みたいに俺を素敵な世界へ連れ出してくれる男なんかいない。  でも多分大丈夫。  一人だとどこにも行けないなんて事もない。  一人でもどこだって行けるし、選べるし、進める。  俺はそうやって生きてきたんだから、大丈夫。  『あなたがいないと生きていけない』  なんてことはない。  ないのだ。  ましてや伴侶でもない片恋をしただけの相手だ。  街と遊園地の光の粒がぼやける。泣きそうだった。俺はただただ和田に体重を預けて脱力していた。本当にもう何も力が出なかった。天辺を過ぎてしばらくしてから和田は腕をほどいた。  もうすぐ地上に着いてしまう。和田との密室が終わってしまう。夏ももうすぐ終わる。和田との蜜月が終わる。和田は学校が始まったら俺なんかきっと忘れてしまうだろう。  怖い。  好きな人に忘れられてしまうのは、怖い。俺だけがこの密と蜜を覚えていなきゃいけないのが怖い。    もう、和田を嫌いになりたい。

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