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第9話 恋のつごもり
「鳥羽、ちょっといい?」
と声をかけられたのは8月25日の登校日のことだった。1時間だけの怠いHRを終わらせて、俺は早足で駅に向かっている途中のことだった。
肩を叩かれ振り向くと、高校2年まで仲の良かった友人がなんとも気まずそうな顔で立っていた。
「最近どう?」
友人の佐伯は俺に並ぶとおずおずといった様子で会話を切り出した。
「え…普通に元気だけど…どした?」
こいつは俺が男が好きだと唯一カミングアウトした友人で、学年中に知れ渡った原因を作った奴だ。挨拶以外の会話をしたのは学年が変わって初めてだった。
佐伯は、少しだけ周りを見回した後こそっと俺の聞いてきた。
「5組の和田って知ってる?」
ビリッと肌に痛みを感じるほど俺の神経はその名に反応した。
「最近、お前とつるんでない?」
「…なんで?」
できるだけ冷静に平静に俺は尋ねる。
「………」
佐伯は俺の反応を窺っているのがよく分かった。俺が動揺した事に気づいたかもしれない。少し間を空けて佐伯は話し始める。
「あいつってさ、同中だったんだけど……めっちゃ頭良いのと不良?っていうか色々やばくて有名だった奴で。今はかなり落ち着いたみたいけど、金取られたとか薬やってるとか女子妊娠させたとかそういう噂ばっかあったんだよ。あいつのせいで学校来なくなった奴とかいたし」
こいつは噂が好きな奴ではない。むしろそういう噂話とか嫌いな奴だった。悪口も陰口も苦手で、穏やかで良い奴なのだ。だからこそ、自分のせいで俺が噂の渦中に置かれたことが耐えられなかったのだろう。
「鳥羽大丈夫?」
本当に心配してくれているのがよく分かった。好奇心とか偽善じゃなくて。
俺はそれを嬉しくも思ったし疎ましくも思った。
「心配してくれてんの?」
つい棘のある言い方になる。
「ごめん、どの面下げてって感じだけど、困ってることない?」
「ないよ。大丈夫。予備校が偶然一緒だったんだよ。だからちょっと飯とか一緒に食ってただけ」
「そっか…安心した」
佐伯はまだ腑に落ちてはないようだったが、とりあえず表面上は納得してくれたらしい。
「鳥羽、最近は忙しい?」
「受験生って普通忙しいよな」
「それはそうだけど。今日ちょっと時間ない?息抜きに遊びに行かない?」
「あー、ごめん。予備校あるし家のことにしなきゃなんないから」
「そっか、そうだよな……」
「ありがと」
ごめん、急ぐから。と言って俺は早足でそいつを置いて駆け出してしまった。
佐伯は俺のことが気持ち悪いとかそういう感情を持ってるわけじゃないのだ。
アウティングしてしまった罪悪感とその罪悪感で俺から距離を置いた罪悪感に苦しんでいる。
俺はこいつが友達として本当に好きだった。俺はアウティングされたことはまあどうでも良かった。俺も悪いと思っているし。
それよりも見放された事のが辛かった。
でももういいよ。お前がいなかったら多分俺は和田に出会えてないし、和田が俺に話しかけてくる事もなかっただろう。
だからあとは1人で勝手に苦しんでてくれ。
俺は和田のマンションのある駅に降りていた。佐伯含めてこの駅は同じ高校の奴も何人かいるからよく周りを見て誰にも見つからないように改札を出た。
目的はもちろん和田だった。約束は何もしていない。
歩きながら先ほどの会話を思い返す。なんで和田とつるんでいた事がバレたんだろう。
誰かに見られていた?一体どこで?何をしている時に?まさか和田がバラしたんだろうか?まさか俺との変な動画でも撮ってたんじゃないだろうな。
もやもやした気持ちを抱えながら俺は和田のマンションの前で和田が帰ってくるのを待っていた。学校で話しかけて無視されたり周りに何か思われるのが嫌でわざわざ家まで来たのだ。
日陰にはいたが、暑くて喉が渇いて持っていたお茶のペットボトルはすぐに空になった。頭が痛くなってくる。
「え?待ち伏せ?」
20分ほど経ってから和田は姿を現した。汗が玉のように首や額に張り付いている。
今日、登校していたのはこっそり見ていたし、GPSをつけられたと言っていたし、真っ直ぐ帰ってくるんじゃないかと思ったのだ。
和田の表情からは何の感情も読み取れなかった。怒ってもいないし笑ってもいない。ただ強い残暑の光が和田の顔に陰影を作っていた。
「うん、光と話がしたい」
俺もそうだった。怒りも嬉しさも悲しみも苦さも何も顔には出さなかった。
「……」
和田は俺の顔をじっと見ると
「まあ、いいや入れば」
と言ってくれた。
「午後からカテキョ来ちゃうから、用事があるなら早く言って」
と言うと、和田はカバンを床に放り投げて肌着と下着だけになってソファにどさっと寝転んだ。
「久しぶりに外出てだるいわ。麦茶いれてくんね?」
「いいよ」
俺は勝手知ったるで冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出した。冷蔵庫には絹代が用意したのか、冷やし中華と何かの煮物や副菜などがラップをしていくつも入っていた。結局、和田に作ってあげたのはお好み焼きだけで、俺の腕を見せられる機会はなかったなと少しだけ残念な気持ちになる。
そっと麦茶を和田の近くに置くと、俺も向かいのソファに座った。
「光」
「んー?」
「夏休みが終わったら、……いや。学校が始まったら俺って和田に学校で話しかけてもいいの?」
「えー?別にいいんでない?つか、なんでダメなの?」
「だって…」
「別に普通に話せばいいじゃん」
「……」
違う。こんな事を聞きたかったんじゃない。そうじゃない。違う。違う。俺は和田と友達でいたいんじゃない。そもそも俺たちは友達じゃない。
俺たちは、俺は……。
「違う」
「え?」
「好きです。俺と付き合ってください」
「……」
わずかに和田が息をのんだ様子が、空調の音に紛れながら伝わってきた。この俺でも和田を少しばかり動揺させる事はできたらしい。それならちょっと小気味良い。
結果なんて聞かなくても分かっている。分かっているけど、俺はもう和田に切られたかった。自分からはどうしたって切れなかったから。すがる手をどうか切り落として欲しい。
「付き合ってんじゃん?」
和田はこの期に及んでのらりくらりと俺の気持ちをはぐらかそうとしていた。でも、もう俺は逃げないし、逃がしたくなかった。
「じゃなくて、ちゃんと。俺だけを好きでいてほしい」
俺は和田の特別になりたい。
一番になりたい。
俺はこんな関係を続けたいんじゃない。
一番になれなくても。
「……そうかー。あーあ、そっかー」
和田は少しだけ残念そうな声を出した。買おうと思っていたジュースが売り切れだった時のような。予報では晴れだったのに雨になった帰り道のような。どうでもいいことが期待外れだった時の声。
「お前もか……」
最後にぼそっとそう呟いて黙ってしまった。俺はこの瞬間に彼を取り巻く数多の人間の1人に堕ちたのだろう。今まで和田に言われた言葉でこれ以上傷ついた言葉はなかった。
俺は和田に従順ではいられなかった。
「なんで俺に声かけたんだよ。なんで俺とこんな事したんだよ。最初からこんな事しないで欲しかった!」
できるだけ冷静に話すつもりだったけど、言いながら俺は震えるほど怒りを感じてきた。今まで抑え込んでいたものが、どこか穴があいてどろどろと出てきてしまうように。暑いのに手が冷えていた。心臓の音が自分でも聞こえそうなほどにうるさい。奥歯を噛み締めすぎて砕いてしまいそうだった。
「ほんとだね。ごめん」
和田はむくりと体を起こすとソファに深く座った。それからしばらくして口を開いた。
「最初は…あ、噂の人がいるって思っただけだった。顔と名前は知ってたから。どんな奴かなって。好奇心で話しかけた。あ、筆箱忘れたのはマジ」
「……」
「それから男が俺に落ちるとこ見てみたかった。だってお前、見るからにチョロかったし」
「……」
「でもだんだん光輝が可愛く見えてきた」
「……」
「それはほんとだよ」
「……」
「でも、まさか光輝がここまで俺に沼るって思わなかったわ。お前頭良さそうだったし。それは俺の誤算だった。マジでごめん」
和田は最後まで軽薄な口調ではあったが、今までで一番嘘偽りない誠実な話だったと思う。
「お前はいつか刺される」
言いたいことはたくさんあった。怒ろうと思っていた。人の気持ちを弄んでただで済むと思わない欲しかった。
「はは、それよく言われる」
でもなんだか気が抜けてしまった。こんな場面で正直にならないで欲しかった。謝らないで欲しかった。
「俺……お前と離れるしかないの?」
「ないと思う」
「本当に俺のこと1ミリも好きじゃなかった?本当は」
和田は俺の声に被せるように言い放った。
「あんね、俺絶対結婚すんだわ。子供も作ると思う。で、医者になって普通に暮らすんだよ。だから光輝とはずっと付き合えないよ」
和田は結局、最初から最後まで俺がいる未来なんて想像したこともないのだ。
「じゃあ、2番でも3番でもいい。愛人でもいいからそばにいたいって言ったら?」
「弁護士になるんでしょ?不倫推奨しちゃだめじゃね?」
「じゃあ俺が光を養ってあげる。医者になんかなるのやめて俺と一緒にいてよ。光が何してても文句言わない。最後に俺のところに帰ってきてくれたらそれでいい。って言ったら?」
「あー、それはちょっといいかも」
と笑うと、「でも」と話を切った。
「光輝の事はかわいいから、ちゃんと振ってあげるね。ごめんね、光輝とはもう付き合えない。これで終わりにしよ」
和田は麦茶を一口飲むと、再びごろっとソファに転がった。もう申し開きは終わったらしい。
俺は何が言いたかったんだっけ。もう言い終わったんだっけ。と思っていると和田は再度口を開いた。
「なんかさー、うちの親父もドクズなんだけど。普通に愛人さん何人もいてね。そのうちの1人が自殺しちゃってんだよね」
「え……」
「まあ詳細は長くなるしつまんないから省くけど。金目当てとかで不倫するならまだしも、愛情目当てで不倫するのはほんとやめた方がいいよ。特に光輝には無理だよ。2番とか3番とか。耐えられないと思う」
それから和田はひどく優しげに言った。
「光輝には生きてちゃんと幸せになって欲しいなあ」
ほんとかよ。と心の中で悪態をつく。俺の事なんてどうでもいいくせに。
「夢叶えなよ。応援してるから」
「夢?」
「弁護士だかなんだかになって普通に彼氏作って普通に暮らしたいとか言ってなかった?」
「……」
「あれ?ごめん光輝の話じゃなかったっけ」
そんな話をした事を覚えてるとは思わなかった。俺だって忘れてた。全然俺の話なんか聞いてないと思ってた。本当になんなんだろう。こいつは。
例えば俺が男じゃなくて普通に女でしかも容姿が整っていれば和田ともっといられただろうか?和田は俺だけを好きになってくれただろうか。
いやそれはない。
それはないだろう。むしろ俺が男で、男が好きじゃなかったら和田は近づいてこなかったと思う。数あるイフの世界線のうち、もしかしたらどこかに和田とこうならなかった世界があるだろう。どっちが良かったかなんて俺には分からない。
なんでこんな奴を好きになってしまったんだろう。未だに何がどこが好きなのか分からない。
それでも俺は和田が好きだったよ。俺に不躾に話しかけてくるところとか、時々子供っぽい顔するところとか。俺の事をからかっていただけだっただろうけど、そうやって振り回されるのが少しだけ楽しかったのだ。もっと色んな和田を知りたかったよ。
「じゃあ最後に抱いてって言ったら…?」
「ダメだよ」
和田は寝転がったまま、いつものようにスマホを見ていた。もう俺に関心などないように。いや、最初からこいつは俺に関心などなかったのだろうけど。
「なんで」
「もう光輝ボロボロじゃん。これ以上したら立ち直れなくなるよ」
「いいよ、もう。もう取り返しつかないよ」
俺はそっと立ち上がると和田のそばまで寄って和田を見下ろした。浮き出る首筋や鎖骨、手の甲から腕に繋がる血管、ふくらはぎやアキレス腱、和田のパーツで好きなところはいっぱいあった。いつか好きなように触れられたら、と思っていた。
「まだ大丈夫だって」
「もう無理だよ」
「大丈夫」
「いやだ」
俺は和田を押し倒すように上から覆いかぶさった。手首を掴むとスマホがぽろっと床に落ちた。
「無理矢理ヤッたら通報するよ?」
「……」
「ごめんね。もっと前に別れればよかったなあ」
もう。いいか。
もう。いい。
もうここまでだ。
最後に切ってもらえて良かったじゃないか。
やっと、離れられる。
百害あって一利なしの男だ。
こいつといると自分まで嫌いになる。
嫌な思いしか、しないじゃないか。
でもじゃあ、なんで、こんなに涙が出てくるんだ。
俺は涙を袖でぬぐうと鞄を持ってリビングを出た。俺も和田も何も言わなかった。帰りがけに和田と色濃く過ごした寝室の方を見た。寝室はわずかに開いていて、ベッドとその上の窓が見えた。
あの月を映す窓を見ることはもうないだろう。
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