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放課後、いつもの場所で守羽 はスケッチブックを開いて鉛筆を走らせていた。
高校2年になっても相変わらず誰ともつるまず第2校舎の裏側で1人、フェンスにもたれて絵を描いている。
この場所は滅多に人が通らず静かで、とても居心地が良い。守羽は放課後の部活動の時間にはほとんど毎日、ここに来ていた。
美術部に一応所属はしているが、部室にはたまに大きな作品を制作したりコンテストに応募する時に顔を出す程度だ。美術大学を目指している守羽は、美大受験のための予備校に週末通っていて専門的な指導はそこでしてもらっているし、適当な友達作りをする気もさらさらないのでそれで十分だと思っている。
生まれつき心臓が少し悪い守羽は小さい頃、激しい運動や遊びができず、あまり周りの友達と一緒に騒いだりすることができなかった。何事もゆっくりと行動しなくてはならず、周りの子供達と同じペースで活動することが難しかったのだ。皆に迷惑をかけるのが嫌で自然と1人で行動するようになり、今では1人でいるほうが気が楽になってしまった、というだけだ。
高校生ともなると、「絵の上手い静かな子」というキャラも周りに認知され、こうしてスケッチブックを開いていると誰も守羽の存在など認識しなくなる。
色素の薄いオレンジがかった茶色い癖のある髪で同じくオレンジがかった琥珀 色の瞳を隠し、顔を伏せてスケッチブックに向かっていれば守羽の世界は大抵、平和に保たれた。
15分ほどのデッサン練習をして、鉛筆を動かす手を止めスケッチブックを閉じる。
(今日は顔、見られるかな)
守羽はここに来る理由のもう1つである2階の端の開いている窓を見上げた。
(篝 先生、何してるんだろ。実験器具とか洗ってんのかな)
男性にしては細い指先を思い出して頬を緩ませたその時
「昨日はびっくりさせて悪かったな」
と妄想に浸っている守羽の目の前にオレンジジュースのパックが差し出された。
「えっ?僕?」
昨日、2メートルはありそうなフェンスを軽々と飛び越えて走り去って行った生徒が今日はジャージ姿で守羽を覗き込み、紙パックを差し出している。
(何?なんで?)
突然の視界への乱入者に頭の中まで覗かれたような気がして軽くパニックになりながら手を伸ばしジュースを受け取った。
「昨日、大丈夫だった?」
そう言いながら牛乳のパックを手にジャージ姿の生徒は守羽の隣に当然のように腰を下ろす。
「2組の渡貫 、だろ?」
守羽は驚いて隣の生徒の顔を見た。
「あ、え?僕の名前、知ってるの?」
(なんで?なんか怖い)
「うん、いっつもここで絵、描いてるよな。」
「あー、まぁ。」
警戒しながら紙パックにストローを差す。
(同じクラスでもなければ、1度も話したこともないのに)
「俺の名前は?知ってる?」
「・・大井戸 君」
「お?知ってた?」
「大井戸君は有名だから。みんな知ってます」
そう言って守羽は屋上から大きな懸垂幕がかかっている右手の本校舎を指差した。
インターハイ出場決定 棒高跳び 二年一組 大井戸 夏向
「ああ。そうそう、あれ、俺」
と守羽に人懐っこい笑顔を向ける。
「・・うん」
(だから、みんな知ってるってば)
わざわざそんなことを言いに来たのか、と守羽は少しイラついた。
「下の名前は?あれ、何て読むか分かる?」
「下の名前?あ、いや、えーと、なつ・・むき?」
夏向が飲んでいた牛乳をブフッと吹き出す。
「あ・・、ごめん、えっと、違う・・よね」
守羽が慌ててポケットから出したハンカチを夏向は首を振って断り、グイと手の平で口元を擦った。
「なつむきって。そう呼んだ奴、渡貫が初めて」
そう言うと夏向が肩を揺らして笑い始め、守羽は恥ずかしさに赤くなる顔を慌ててうつむいて前髪で隠した。
「かなた。おおいどかなた、です」
「あ、ああ、そっか、かなた・・。みんながナツって呼んでるから、ナツなんとか、かと思って」
ボソボソと言い訳のように小声で話す赤い顔の守羽を夏向は見た。
「渡貫はシュウだよな」
「え?あ、うん。知ってるの?」
「守る羽って書いてシュウだろ?すげーいい名前」
「そうかな。ってか、何で知ってるの?」
「うん?俺にも羽があったら、もっと高く跳べるかなーって思ってさ、いいなって思って覚えてた」
そう言いながら、うーんと背伸びをすると夏向は立ち上がった。
「悪い、また邪魔しちゃった。じゃ、俺、練習あるから、行くわ。またな」
そう言って、夏向はグラウンドに駆けて行く。
(何だ、今の?全然答えになってないし)
守羽はあっけに取られて、走り去って行く夏向の背中を見送った。
大井戸夏向は有名な生徒だ。
陸上部の棒高跳びの選手で、1年生の時から競技会の入賞常連者として目立っていた。2年生の今年はすでにインターハイに出場が決定し、地元新聞にも取り上げられたりしてますます注目を浴びている。
背が高く、がっちりとした肩と長い手足。綺麗に鍛えられた分厚い胸板と逞しい腕は高校生とは思えぬ体格だ。その恵まれた身体を生かして高く跳ぶ姿はまるで空を飛んでいるみたいに見える、と評判ですでに体育大学からスカウトがきていると噂されていた。
その上、人懐こく誰とでも気さくに話す性格で男女問わず人気があり、日に焼けた肌に、はっきりとした目鼻立ちと意思の強そうなまっすぐな眉、という顔の良さも相まってファンが大勢ついているらしい。
守羽とはこの学校では地球の反対側にいるよりも遠い距離にいる人物だ。
そんな夏向が、自分のことを知っていることに守羽は驚いた。しかも下の名前まで知っているのは驚きを通り越して少し気味が悪い。
(あいつ、牛乳飲んでた・・?)
あんなにでかいのにまだでかくなり足りないのかよ、と心の中で軽くディスっていると、オレンジジュースのパックからポタリと雫がスケッチブックの上に落ちた。慌ててハンカチで拭い、ハッと思い出して校舎を見上げると2階の窓はいつの間にか閉まっている。
(ああ、見逃した・・)
守羽はがっかりと肩を落としてスケッチブックをカバンに突っ込み、立ち上がった。
(明日は雨の予報なのに)
昨日も夏向の脱走騒ぎで見逃し、今日も夏向が話しかけてきたせいで見逃した。
(なんなんだよ)
2日続けて邪魔してきた夏向を恨めしく思いながら、仕方なくグラウンドの端を歩いて校門に向かう。梅雨空で湿気を含んだ不快な空気がどんよりと重く体にまとわりつき、息がしにくい気がして体がだるく、ますます気が滅入っしまう。
カキーン、カキーンと野球部の金属バットが球を打つ音をぼんやりと聞きながら守羽はうつむいてノロノロと歩いた。
(こんな日に運動とかバカじゃないのか。体にそんなに負荷かけて、何が楽しいんだ)
と心の中で毒づいたその時
「おいっ、よけろっ、危ないっ!」
という叫び声が聞こえた。
ビュンッという音がしてドッと守羽の体に重い衝撃が走る。
「っつ」
守羽は息が詰まって前のめりに倒れた。クッ、クッと喉が締まって息ができず、胸が苦しくなって体を丸めた。
「渡貫っ!」
名前を呼んで走ってくる足音がする。
うぅ、と守羽は小さく呻いた。体が冷たくなってくるのがわかる。
「おいっ、誰か先生呼べっ!」
誰かの大きくて温かい手が肩を包んだ。
「渡貫っ!シュウッ!しっかりっ、息しろっ」
その声を聞きながら守羽の意識は遠のいていった。
目が覚めると病院のベッドに寝ていた。
「シュウちゃん?」
ベッドの横で母親が泣いている。
(ああ、またか)
「お母さん?」
守羽は掠れた声で母親を呼ぶとその手を握った。
「ごめんね、びっくりさせて」
ゆっくりと起き上がると自分でベッドの脇のナースコールのボタンを押す。しばらくすると小さい頃からずっと主治医をしてくれている珠海 医師が顔を出した。
「お、守羽君、目が覚めたね」
ニッと歯を見せて大らかに笑う見慣れた顔にほっとして
「先生、ご無沙汰です」
と守羽も口に被せられている酸素マスクを外して笑い返した。
「うん、顔色、良くなった。久々の発作だったね」
「はい、ちょっと不測の事故で避けられませんでした」
「野球のボールが強く胸に当たっちゃったみたいだね。健康な人でも不整脈起こすことあるから結構怖いんだ。付き添ってきてくれたお友達が説明してくれて助かった。すいぶん心配してたけど、仲良いの?」
「友達?付き添いって?学校の先生じゃなくて?」
「うん。先生もいたけど、ジャージ着た生徒さんも一人。背が高くてがっしりした。でっかい体縮めて守羽君のカバン、抱きかかえてたけど」
その姿を思い出したのか少し笑いながら言う。
(背が高くてがっしり・・もしかして大井戸君?)
「友達ではない、です」
「え?そうなの?ずいぶん心配してたから仲良いのかと思った。すごい体格だね、彼。高校生とは思えない体つきで驚いた」
「ああ、棒高跳びの選手で学校の人気者です。2年でインハイ出場するようなすごい人」
へぇ、と言いながら珠海医師が聴診器で胸の音を聴き、うん、大丈夫だね、と頷く。
「ちょっと球が当たったところも見せて。」
珠海医師が胸に張り付けてある湿布薬を剥がした。
「うわ」
丸く紫色のあざになっていて、ぽっこりとふくらんでいる。
肌を軽く押されて
「いてっ」
と思わず体を引いた。母親がヒッと小さく声を上げる。
「ああ、ごめん、大丈夫だよ。心配しないで」
守羽は慌てて母親に言った。
「良かったねー、顔に当たらなくて。顔に当たってたら守羽君のお母さん譲りの美貌、台無しになるとこだった」
珠海医師も母親に笑顔を向けると新しい湿布薬を素早く張り直し、入院着の前を閉じた。
「よし、今日は少し検査して、何もなければ明日、退院できると思うよ」
「はい、ありがとうございます。お母さん、僕、喉渇いたな。何か買いに行こっか」
守羽はゆっくりとベッドから出ると、母親を連れて廊下に出た。
「守羽君、お母さん、こんにちは」
「こんにちは」
顔見知りの看護師と挨拶を交わす。
「お母さんは何にする?」
守羽は母親に訊いた。
「シュウちゃんと同じのでいい」
守羽はカフェオレを2つ買って1つを母親に手渡した。
「ごめんね、びっくりさせちゃって」
「ううん、お母さんこそ、ごめんなさい」
グズグズとハンカチで鼻を押さえながら母親が答える。
「お母さん、僕に付き添ってきてくれた友達、見た?覚えてる?」
「お友達?そんな人、いた?」
「覚えてないならいいよ」
きっと母親は泣きじゃくっていて、何も覚えていないのだろう。昨日から泣き続けてろくに眠ってもいないはずだ。
(今度会ったら大井戸君に付き添ってくれたお礼、言わなくちゃ)
いくつか説明もしなくては、と思うと少し憂鬱になる。
守羽の心臓は生まれつき肺に向かう血管が少し狭い。子供の頃は入院や運動制限もあって辛かった時もあったが、成長するにつれてずいぶんとましになった。今は無理さえしなければ日常生活は問題なく送れる。疲れやすかったり息苦しく感じることはあっても、昨日のような失神までしてしまうことは最近ではずいぶんまれだったからすっかり油断していた。
「守羽君、検査始めたいんだけどいいかな」
珠海医師に呼ばれて
「はい」
と守羽は立ち上がった。
「じゃあ行くね。お母さんはもう家に帰っていいよ。昨日あんまり寝てないでしょ?明日の朝、着替え持ってきてくれる?」
母親に話しかけると
「でも・・」
と不安げな顔で見上げてきた。
「大丈夫ですよ、守羽君、検査で今日は1日お部屋に戻ってきませんし」
母親の隣に座って話しかける顔見知りの看護士に少し頭を下げ、守羽は珠海医師の後ろについて行った。
「お母さんも久しぶりで驚いただけだよ」
珠海医師が明るく言う。
「そうですね。最近はあまり泣かせずに済んでたんでちょっと油断してました」
守羽も努めて明るくそう答えた。
守羽のイメージの中の母親はいつも泣いている。自分が泣かしているのだと思うと心が苦しい。母親は小さい頃から守羽の体の事を気にして泣いていた。
運動が皆と同じようにできないと言っては泣き、顔色が悪いと言っては泣き、呼吸困難などを起こそうものなら、自分が呼吸できなくなるほど泣き、最後に必ず
「ごめんね、シュウちゃん。シュウちゃんを丈夫に産んであげられなくて」
と言って泣いた。
そんな母親を見るのが守羽は自分の体のことよりも辛かった。
(もうなるべくグラウンドは通らないようにしよう)
自分で自分のことは気をつけなくちゃ、と思いながら守羽は検査台に上がった。
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