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退院した次の日も学校を休むとそのまま週末になってしまい、週明けの月曜日に学校に行ってみるとクラスは特に何も変わりはなかった。
誰も気にも留めておらず、守羽 が休んでいたことも知らないかのようだ。
(まぁ、当たり前なんだけど、僕がいなくても世界は回っているんだな)
そのことに寂しさよりも少し感動のような、畏怖のようなものを感じる。
いつものように1人静かに教室で無事に1日を過ごすと、急いで教室を出た。
(今日は絶対、顔、見たい)
守羽は真っすぐ第2校舎裏へと向かう。校舎の角を曲がるといつもの自分の座っている場所にジャージ姿の夏向 がいるのが目に入り、ギクリと足を止めた。
(しまった)
お礼を言いに行くのを今まですっかり忘れていた。
(どうしよう)
一瞬迷って、引き返そうとした守羽の足音に顔を上げた夏向と目が合ってしまい、
「シュウッ」
と大声を出してこちらに駆け寄って来た。
「ああ、大井戸 君」
夏向の体から発せられる力強い生命力のようなものに気圧されて思わず身を竦 めた。
同じ高校生、いや、同じ人間とは思えない程の違いに守羽は憎しみと言っていいほどの強烈な嫉妬が沸きあがる。
「守羽、大丈夫だった?」
逃がすもんか、というように大きな手でがっしりと腕を掴まれその手の平の熱さに慄 いた。
「あ、うん。大丈夫。あの、もしかして、大井戸君が病院まで付き添ってくれたのかな」
夏向の手から逃れようともがきなから守羽は訊いた。
「付き添いっていうか。カバン持って先生と一緒に行っただけだよ」
「あ、どうもありがとう。すみません、迷惑をおかけして」
そう言って頭を下げた守羽の腕を夏向がようやく離した。
「すみませんって。迷惑とか別にそんなこと思ってねえよ。守羽、顔色おかしくなって、息止まったみたいに見えてちょっと驚いたから。あの後、学校休んじゃうし心配で」
「え?心配?」
(何で?クラスの誰も心配なんてしてなかった。なんなら、ボールをぶつけた本人ですら、きっともう忘れている。なのに大井戸君が心配?)
「え?そりゃあ、だって。あんな・・」
驚いた顔で夏向も守羽を見る。
「ああ、そうだよね。ごめんね、びっくりさせて。僕の母親のことも、びっくりしたでしょ」
「あ、いや、別に。その、でも守羽どっか悪いんかなって。いっつも体育見学してるしさ。なんか普通じゃない感じだったから」
夏向が言い淀む。
(普通じゃない感じって?)
と嫌な気持ちになる。
「ああ、うん。小さい頃からちょっと心臓が弱くて」
守羽の言葉に夏向がえっ、と小さく声をあげた。
「あ、でも、全然、今は普通に生活できる。激しい運動とかはしないようにしてるけど、大丈夫。こないだはボールが胸に強く当たったからあんなことになっちゃったけど、ほんとに、平気」
守羽は慌てて言った。
「母親が心配性で、いつも過剰に反応しちゃうんだよ。もしかしてめちゃくちゃ泣いてた?普通じゃないよね。でも気にしないで」
早口で話す言い訳めいた言葉に
「いや、気にするだろ。あんな守羽の姿、見たら。お母さん、泣くの当たり前だと思う」
と夏向が強い口調で答え守羽は黙り込んだ。
「だって、怖かったよ、俺。だから守羽のお母さんも、めちゃめちゃ怖くて泣いちゃうの当たり前だと思うけど」
真っすぐに守羽を見ながら夏向が言った。
「そんな」
(僕のせいで怖い思いをしたって言いたいの?)
胸がチリチリと不快感でいっぱいになって思わず自分のシャツの首元を掴んだ。
「あ、大丈夫?痛むんか?」
その言葉に守羽は無性に腹が立った。
「大丈夫だって言ってんじゃん。普通に生活してるし。ボールが胸に当たるなんて、たまたまの事故みたいなもんなんだから、しょうがないだろっ」
守羽は後ずさった。
「とにかく、付き添ってくれてありがとう。迷惑かけてごめんなさい。もう、心配ないから。僕に構わないでもらえるかな」
(なんなんだよ。誰も頼んでないのに、勝手に付き添って、勝手に怖がって、勝手に心配して。人の母親のことをわかったふうな口ぶりで、無神経な奴)
「別に、構うとかじゃないだろ。ただ、あの時、守羽が・・」
「僕が何?死にそうだった?」
「え?あ、いや、その・・」
「何だよ、言えば?」
夏向は困ったような顔で見つめ返してくる。
(なんだか、ものすごく・・イライラする。嫌だ、こんな気持ちになりたくないのに)
「言えよっ、僕が死にそうに見えたって」
「シュウッ」
「僕だって、こんな体になりたくなかったよっ。大井戸君みたいに丈夫で、強くなりたかった。思いっきり走って、思いっきり笑って。お母さんだって、あんなに泣かしたくなかったのにっ」
「守羽っ。どうした?お母さんと何かあったのか?」
守羽はハッと口を噤んだ。つい余計なことを口走ってしまった。
「何でもない。大井戸君と話してると、イライラするっ」
夏向の存在に激しく感情を揺さぶられ、言いたくない言葉が零れてしまう。半ば叫ぶように言うと守羽は夏向に背を向けた。こんな時に素早く走り去れないのが悔しい。
「シュウッ、待てっ」
夏向が追いかけてきて手首を掴むと、目の前に立ち塞がった。
「待ってって。俺、守羽に話したいことがっ」
夏向の分厚い胸板で視界がいっぱいになる。守羽はきつく目を閉じて喉の奥に込み上げる熱い塊をグッと飲み込むと、拳で口元を拭った。
「大井戸君みたいな人が話しするような奴じゃないから、僕。手、離して」
「え?それ、どういう・・?」
「大井戸君、練習、行けば?彼女が呼んでる」
グラウンドから夏向の彼女だと噂されている陸上部のマネージャーが長い髪を揺らしながらこちらに走ってくるのを視界の端に捉え、守羽は掴まれている手を引っ込めた。
「え?」
夏向がグラウンドを振り返った隙に脇をすり抜け歩き出した。
「ナツー?そろそろアップ、始めて下さーい」
「あー。今、行く」
2人の会話を背中で聞きながら守羽はできる限りの早足でその場から遠ざかった。
(結局、先週は1回も先生の顔、見られなかったな)
校舎裏のフェンスにもたれて見上げる2階の端、化学室の窓。窓を閉める時にチラリと覗かせる顔を守羽は思い浮かべた。
眼鏡をかけた白衣姿。形の良い後頭部ときちんと整えた襟足。いつも伏し目がちにして授業をしているのに時々、脱線して話すときの夢中になる顔。女子生徒に人気があるくせに彼女らの話をつまらなそうに聞いている姿。試験管を繊細に持ち上げる手つき。化学室の後片付けを手伝う守羽に、一口チョコをくれる時の笑顔。スケッチをしている守羽を見つけると目元を緩ませ白衣のポケットに突っ込んでいる手を出して小さく胸の前に挙げて見せる細い指。
何もかもをスケッチブックに描き写せるほど目に焼き付けてある。
(今日こそは絶対に篝 先生の顔が見たい)
恐る恐る校舎の陰から裏手を覗くと今日は誰もおらず、いつもの場所が空いていた。木陰に座り込んでフェンスにもたれかかり、ようやく、ふぅ、と息をつく。昨日もまた夏向がいて顔を見ることができなかったが、今日は大丈夫なようだ。
本校舎から吹奏楽部が音合わせをしている音が遠く聴こえてきて、守羽の静かな日常が戻ってくる気配に安心しスケッチブックと鉛筆を取り出したところで
「おっ、守羽。やっぱいた」
という夏向の声が聞こえ、守羽の体がビクリと震えた。
(なんだよ、コイツ。勘弁してよ)
強張った顔を上げると、ニコニコと人懐こい笑顔で夏向が近づいてくる。
「昨日、話があるって言ったのに1人でさっさと行っちゃうからさ。良かった、今日も来てみて。はい」
こちらの様子も気にせず、隣に座ってオレンジジュースを差し出してきた。
「・・どうも」
今さら逃げ出すこともできずに仕方なく、ジュースのパックを受け取る。
昨日、あれだけ言ったのにまるで何もなかったかのような顔だ。
(しかもいつのまにか下の名前、呼び捨てになってるし)
守羽は少し棘のある言い方で
「あのさ、大井戸君、練習行かなくていいんですか?」
と訊いた。
(どうして放っておいてくれないんだろう?)
おおかた心臓の話を聞いて可哀想に、とか思って同情しているのだろう、と守羽はうんざりとした気分になる。
「んー?行くけど。まだ平気です」
夏向は呑気に牛乳を飲んでいる。
「あのさ、昨日も言ったけど、もう、大丈夫だから」
「そっか。良かった」
全く伝わってない様子が守羽をイラつかせる。
「だからさ、あの」
(もう僕に構わないで下さい)
そう強く言おうとした瞬間
「なぁ、スケッチブック見せて」
と夏向が先に言葉を発した。
「え?」
「それ、見たい」
夏向がひざの上のスケッチブックを指さす。
「は?ダメだよ」
「え、なんで。守羽、すげぇ絵上手いのに。いいじゃん、見せてよ」
夏向が無邪気な笑顔で笑いかけてくる。
(何、勝手なこと言ってんの、コイツ。マジで無神経)
「嫌だっつってんじゃんっ」
隠そうとしたスケッチブックを一瞬早く、夏向の手が取りあげて立ち上がった。へへ、と楽しそうに笑うとパラリと表紙をめくる。
「ヤメてっ!」
守羽が飛びつくと夏向は長い手を上に伸ばしてスケッチブックをうんと高くまで上げた。パサパサとページが開く。
(お願い、見ないで)
守羽は夏向の大きな体にしがみついて必死に手を伸ばしたが、15センチ以上は高い夏向の手の先には全然届かない。パラパラとめくれたページにいくつもの篝の顔が揺れた。
「見るなっ」
守羽は湿った声で叫んだ。夏向がさっきまでの楽しそうな顔とは打って変わった真剣な顔でページをじっと食い入るように見ている。
「これ・・」
夏向の日に焼けて鍛えられた腕を思い切り引っ張ると、ようやく手を降ろした。その手からスケッチブックをもぎとる。
「守羽、篝のこと、好きなの?」
夏向が強く光る瞳で守羽を見た。
(今度は何?軽蔑?嫌悪?それとも気持ちが悪い?)
そう思うと守羽は猛烈に腹が立って叫んだ。
「何様なんだよ。何でも勝手にそうやってっ。大井戸君、人気者だから何やってもいいわけ?何やっても許されるのかよっ」
「え?ちがっ、そんな。そんなつもりっ」
「渡貫 君?どうした?平気か?大井戸君、何してるのっ」
その時、上の方から声が聞こえた。見上げると、篝が2階の窓から身を乗り出してこちらを見ている。
「篝せんせ・・」
守羽はカッと顔が熱くなって涙が零れそうになり、カバンをひっつかむと夏向に背を向け、早足で歩き出した。
「守羽、シュウッ」
「大井戸君、待ちなさい」
篝が夏向を呼び止める声を背中で聞きながら守羽は逃げるように遠ざかった。
(最悪、最悪、最悪。篝先生に大井戸君といるところを見られた。全部聞かれた?しかも大井戸君に篝先生への気持ちを知られてしまった。どうしよう。大井戸君が全部、篝先生に話したら?もう篝先生の顔、見られない。二度とあの場所に行けない。どうしよう)
スケッチブックを見たときの夏向の顔が頭にチラつき、篝の驚いた顔が心の中で歪む。
守羽はこの世の終わりのような絶望的な気分で家に帰り、ベッドにドサリと寝転んだ。
先週、夏向に遭遇してから、ひどい目にばかりあっている気がしてくる。
「何で放っておいてくれないんだよっ」
一人で静かに生きていたいだけなのに、と守羽は枕に顔を押し付けた。
どんなに静かに過ごしていても人に絡まれることは時々ある。それは同情だったり、親切心だったり、心配だったり、悪意だったり、軽蔑だったり、ただ、楽しいから・・だったり。
(そういうのもうまくやり過ごすことができるようになってきたと思ったのに。今日の大井戸君は楽しそうで・・)
「嫌だな」
夏向はノロノロと体を起こして、はぁ、とため息をついた。
(違う、大井戸君のせいじゃない、自分のせいだ。最近、調子が良かったから油断してた自分が悪い。あの時グラウンドを通ったから、誰も見ていないと思ってスケッチブックに好きな人の顔なんて描いたから。全部油断していた自分のせいだ)
守羽はカバンからスケッチブックを取り出すと、綴じてあるページを一枚ずつ引きちぎって細かく破りゴミ箱に投げ入れた。次のページも、その次も。
篝を描いたページを全て破いて捨てたゴミ箱の袋を取り出し、もう二度とほどけないようにギュッと固く口を縛った。
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