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 夏向(かなた)と話す約束をした月曜日、守羽(しゅう)は第2校舎の裏のフェンス前に座って2階の窓を見上げた。今日は窓が閉まっている。 (そう言えば、夏向、(かがり)先生と何か話をしたのかな)  先週、言い争いをした後、夏向は篝に呼び止められていたはずだ。 「あ、守羽。悪い、待った?」 「いや、大丈夫」  はい、といつものように渡してくれるオレンジジュースを受け取る。 「今日は描かないの?」  自分は牛乳パックにストローを刺しながら隣に座った。 「あ、うん。もうここではいいんだ」  篝の顔を描いたスケッチブックは先週、全部破いて捨ててしまった。 「あのさ、先週、篝先生に言ったの?」 「え?何を?」 「だから、僕が先生のこと・・、先生のことをいっぱい描いてたこと」 「言う訳ないだろ」  夏向が少し怒ったように答える。 「そっか。ありがとう、黙っててくれたんだ」 (先生のことを、好きってこと) 「別に、お礼とか。あの、守羽はさ」 「あのさ、応援旗のことなんだけど」  守羽は夏向の言葉を遮って話し始めた。 「ああ、はい」 「どういうのがいいとか、ある?」 「どういう・・。ええと・・、あー、いや、守羽に任せる」 「そっか、わかった。じゃあ大井戸(おおいど)、じゃない、夏向の写真をいくつか見せてもらいたいんだけど。棒高跳び、跳んでるところとか、走ってるところとか」 「ん、わかった」  うん、と頷いて守羽は立ち上がった。 「じゃあ、よろしく」 「え?もう帰んの?」  夏向も慌てて立ち上がる。 「いや、今日は部活行く。夏向も練習あるでしょ」 「うん。じゃあ、また明日ここで」 「え?明日も?」  うん、と頷いて夏向が笑った。 「言ったじゃん、俺、守羽と友達になりたいんだって。じゃあ明日な」  そう言うと夏向はグラウンドに駆けて行った。 「友達って、小学生か」  瞬く間に小さくなる夏向の背中を見送りながら呟いた。その日、守羽はすっかり2階の窓の事を忘れてしまっていた。   「守羽」  名前を呼ぶ声がして、ホームルームの終わった2組に入って来る夏向の姿が見えた。 「うわ、夏向っ。何っ」  帰る準備をしていた守羽はビクリとして思わず声を上げた。まだ居残っている女子生徒たちがチラチラと夏向を見ている。 「何って、今日、雨だからいつものとこ行けないし。写真持ってきたから見せようと思って」  嬉しそうに守羽の机の前の席に座る。立ち上がっていた夏向も仕方なくまた椅子に腰をおろした。 「どういうのがいいのかよくわかんなくて。中学ん時のもあるけど」 「へえ、中学からやってるんだ。見ていい?」  夏向が差し出してきたタブレットと薄いアルバムを受け取りページを開いていると 「ナツ、久しぶりぃ」 と、チラチラと夏向を見ていた1人の女子生徒が長く綺麗に巻いた髪をいじりながら声をかけてきた。 「おお、久しぶり」 「インハイ出場、おめでと」  すごいね、おめでとう、とその後ろにくっついている女子たちが口々に言う言葉に夏向はありがと、と機嫌よく返事をする。 「えー、ナツ、渡貫(わたぬき)と仲いいんだ?意外ー」  ほんと、ほんと、とさえずる女子たちと夏向との会話には耳を貸さず、守羽はアルバムをめくった。棒高跳びをしている姿だけではなく、はちまきをしてリレーで走っているところや、集合写真もある。クリクリとした坊主頭の中学生の夏向の姿が可愛らしい。  髪を巻いた生徒が夏向に肩を押し付けながら守羽が見ているアルバムを覗き込んだ。 「うわ、ナツの中学の時の写真?私も見たいー、見せて」  長く巻いた髪がバサリとアルバムにかかり守羽は思わず身を引いた。ムワッとする守羽の苦手な甘ったるい匂いがして一瞬、胸が詰まり息を止める。  その時、 「あのさ、悪いんだけどっ」 と夏向が大きな声を出してガバッと立ち上がり、その勢いに女子生徒がキャッと身を縮めた。 「2人で話、したいから」  夏向はタブレットと守羽のカバンを持つと 「向こうの教室行こ。アルバム持って来て」 とスタスタと歩き出した。 「あ?夏向?」  守羽は慌ててアルバムを手に夏向の後を追った。ガラガラと隣のクラスのドアを開けると、部屋の電気をつけ中に入る。雨の日の教室は湿った空気が満ちていて、電気をつけてもなんだか薄暗く、時折、パタパタと雨粒が窓に当たって音を立てた。 「ここ、俺の席」  真ん中の一番後ろの机の上に置いてあるスポーツバッグをドサリと床に降ろすと夏向は椅子に座った。夏向が座ると机も椅子も小さく見える。守羽はその前の席に笑いながら座った。 「何?」 「いや、夏向みたいにでかいのが前にいたら、嫌だなぁ、って思って」 「嫌って言うなよ。だから一番後ろにしてもらってんのに」 「病院の先生が、大きい体でびっくりしたって言ってたよ。高校生とは思えないって」  えー、と頭をゴシゴシと掻く。 「優しそうな先生だよな。守羽のことよく知ってるっぽかったけど」 「うん、小さい時から診てもらってるからね」  ふーん、と夏向が机の上に組んだ腕の上に顎をのせて守羽を見上げる。そのもの問いたげな瞳に 「何?」 と訊いた。 「守羽の心臓ってどんくらい悪いの?」 「今は普通に生活できるよ。心臓から肺に繋がってる血管が人よりちょっと狭いだけ。疲れやすかったり、体がだるかったりする時があるけど、それは心臓のせいかどうかわからないし」 「でも思いっきり走ったりできない?」 「できないっていうか、しないようにしてる。やっぱりちょっと怖いから。体力無くて体が弱いのは事実だし」 「思いっきり笑うのはできるよな?先週、一緒にめちゃくちゃ笑ったし」 「え?ああ、そうだね。何で?」 「あー、だってさ、思いっきり走ったり思いっきり笑ったりしたかったって、守羽、言っただろ?」 (ああ、怒ってそんなこと言ったっけ。そんな言葉、いちいち聞いてたのか) 「だから、走ったり笑ったりできないのかと思って驚いたからさ。俺、よくわかんないからちゃんと聞いときたい」 「それは・・、子供の頃はもっと症状が重くて、母親が心配して色々ダメだって言われた事が多かったから。走っちゃダメ、飛び跳ねちゃダメ、興奮してもダメ、泣いてもダメ、思い切り笑ってもダメ、怒って大声で叫んでもダメ、心臓に負担がかかることはとにかく全部ダメみたいな。それが癖になっちゃったっていうか。それだけだよ」 「ふーん。そっか」  廊下をゾロゾロと女子生徒たちが帰っていく。 「何、あれ。何様だっつーの」 「あの態度はないよねー」 「言い方もひどくない?」 「威圧感出し過ぎ」 とさきほどの夏向の態度をこちらに聞こえるようにわざと大きな声で噂しながら通り過ぎた。 「いいの?あれ」  その声を聞きながら守羽は尋ねた。 「何が?」 「いや、大袈裟に言われて夏向のイメージ、傷つけられるんじゃない?」 「イメージ?何それ」 「夏向は学校一の有名人じゃん。2年でインハイ出場のカッコよくて、誰とでも仲良くできる人気者」  あはは、と夏向は笑って腕に顔を伏せた。 「そんなイメージなの?俺」 「うん、まぁ」  守羽はアルバムの中の夏向を眺めた。  集合写真の中の夏向は飛び抜けて大きく、真ん中で皆に囲まれ笑っている。 (いつも人の真ん中で笑ってる感じするな) 「夏向は中学の時からすごく大きいね」  えー?と夏向が顔を上げる。 「中学ん時だけじゃなくて、俺、ずっとでかくてさ、力も強かったみたいでみんなから怖がられてたんだ」 「怖がられてた?夏向が?」 「うん。小さい頃、力の加減がよくわかんなくて、友達に怪我させちゃったりして。みんなが遠巻きに俺を見てたの覚えてる」  守羽はタブレットを手に取った。 「こっちも見て良い?」  夏向は頷くとまた腕に顔を埋めた。 「だから、なるべくニコニコして周りに合わせろって。ただ突っ立ってるだけで目立つんだからって、家族とか先生とかに散々言われて、なんかいっつも周り気にしてバカみたいに笑うようになっちゃって」  バカみたいにとは思わないが確かに誰といても笑っている印象が強い。タブレットの中の写真も誰かと写っているのはどれも笑顔だ。 「棒高跳びも、体格良いから向いてるって言われて始めただけでさ。最初は好きでもなんでもなかった」 「へえ。でも体格良いなら、格闘技とかでも良かったんじゃない?誘われなかったの?」 「うん、色々誘われたけど、格闘技は相手に怪我させたらって思うと怖くてできなくて」 「色々誘われたんだ」  自分の人生には決して起こらないことだよなぁ、とうらやましく思う。たくさんの選択肢が目の前にあり、選ぶことのできる人。 (選ぶ資格を産まれながらにして十分すぎるほど持っているというのは一体、どういう気持ちなのだろう) 「でも棒高跳びなら誰も怪我させることはなさそうだったし、良い記録出したらみんな喜んでくれて嬉しくて。ヘラヘラしてたら結構、周りに人が集まってきてくれて」 (ヘラヘラ?)  夏向には似つかわしくない言葉のように思える。 「周りに合わせてればそれなりにうまくいくようになってきて、そのうち何も考えなくても周りに合わせるようになった。みんなが楽しそうならそれでいいかな、って思ってたんだけど」  夏向がはぁ、と大きく息をつく。 「初めて守羽を見た時、教室で1人でノートに向かって一生懸命描いてた。周りの事なんか、全然気にしないで」 「え?僕?」  急に話が自分のことになり守羽は驚いてタブレットから顔を上げた。 「うん。守羽だけ、別の世界にいるみたいだった。静かで、でも楽しそうで。誰も手の届かない場所にいるみたいだと思った。周りに全然、合わせる気なんかない感じで、それがすげーカッコいいなって、うらやましくて。あんなに楽しそうに何描いてんだろうって、なんか気になって・・」 (うらやましい?僕の事が?)  守羽は手を伸ばして顔を伏せている夏向の髪にそっと触れてみた。チクチクと固く真っすぐな髪が指に触れ、こんなところまでもがなんだかすごく夏向らしい気がしてくる。   (何もかもに恵まれているように見える夏向でも不自由な思いをすることがあるのかな) 「そっか、人気者には人気者の悩みがあるんだね」  夏向が目だけを覗かせて守羽を見上げた。 「人気者とかじゃねーよ。ただの客寄せパンダ」  そんな風に自分のことを感じてたのか、と驚いた。しかも、いい意味で言っていないことは不安そうな表情からも明らかだ。   (それでもいつも笑って、周りの期待に応えて。すごいな、夏向って) 「夏向はパンダほどには可愛くないと思うけど?」 「・・守羽って大人しそうに見えて結構、キツいこと言うよな」  顔を見合わせて笑い合うと少し距離が縮まった気がしてくる。  その時、ドタドタと足音が聞こえてガラリと教室のドアが開いた。 「あ、てめー、ナツッ。雨だからって練習さぼってんじゃねーよ」  陸上部のジャージを着たスラリとした生徒がドカドカと教室に入って来た。夏向がガバッと体を起こす。 「あー、うっせえ。やっと守羽とゆっくり話せたのにっ。もう、邪魔すんなよっ」 「あ、悪ぃ。ドンちゃんが早く呼んで来いってしつっこいからぁ」  そう言いながらドサリと近くの席に座る。 「何かテキトーに言っとけよー。気が利かないなぁ」  夏向が不貞腐れる。 「あは、やっと話しできたんだ、渡貫と」  守羽に向かってニカッと笑う。 「こいつ、中学ん時から一緒に陸上やってる、木下」 「木下君」 「ども、キノッピーでっす」  木下が開いたアルバムを引き寄せ覗く。 「お、中学の県大会のだ。なつかしー。これ、俺」  集合写真を見てふざけたポーズをしている人物を指さす。 「中学の時から仲いいんだ」  木下の明るくオープンな雰囲気に守羽も笑って覗き込む。 「木下君は結構、細いんだね」  しっかりと筋肉がついているものの細身で夏向とはずいぶんと体つきが違う。 「俺はロング・・長距離だから、ナツみたいにゴリラになんないの」 「ゴリラッ」  木下の言葉に守羽は吹き出す。 「誰がゴリラだよっ」  夏向がバシッと木下の頭をはたいた。 「いて。もー、ひどいー。シュウちゃんが怖がってんじゃん」 「なっ、守羽にはしないよっ。怖がらせるつもりはっ」  夏向が赤い顔をする。 「でも、応援旗引き受けてもらえたんだろ?良かったなー。ナツ、ずっとシュウちゃんのこと追っか・・」 「キノッ!お前は練習戻れよ。俺もすぐ行くからっ」  夏向が慌てて木下の腕を掴む。 「あ、ああ、そうだね、夏向も練習あるよね。ごめん、話し込んじゃって」  2人のやりとりに守羽は笑いながら立ち上がった。 「じゃあ、少しデザイン考えてくるね。タブレットも借りて行っちゃっていいの?」 「行っちゃって、行っちゃって。じっくり見ちゃってっ」  赤い顔で立ち尽くしている夏向に代わって木下が笑顔で答える。 「僕も部室行かなくちゃ。じゃあまた明日。練習、頑張って」 「あ、うん、あの、また明日なっ」 「ありがとーう、シュウちゃん。うちのゴリラをよろしくお願いしまーす」  モゴモゴと答える夏向と明るく笑う木下を残し、守羽はカバンを手に教室を出た。しばらくしてぎゃはは、楽しそうな笑い声が教室から聞こえてくる。その夏向の明るい笑い声に少しほっとしながら守羽は階段を降りた。

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