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「やっぱり人体、ちゃんとやらなきゃな・・」  夏向(かなた)に応援旗を頼まれて1週間、描いては捨て、描いては捨て、を繰り返している。旗に夏向本人を描き入れようとすると、どうしても人体をしっかり描かなくては薄っぺらいものになってしまうような気がするのだ。 「守羽(しゅう)?どした?」  ため息をつきながら帰り支度をする守羽の前に夏向が座った。今は校舎裏ではなくホームルーム終わりで守羽のクラスに夏向がやって来るようになりその光景にもだいぶん慣れてきた。 「夏向」  ん?と言うように守羽を見る。 「あのさ、夏向を描きたいんだけど」 「うん。どんな?写真、もっといる?」 「じゃなくて、実物の夏向」 「うん」 「の体を」 「体・・」  夏向の顔が真っ赤になる。 「え?ハダカッ?!」 (ん?ハダカ?)  守羽は一瞬、首を傾げてから吹き出した。腹を抱えて笑う。 「違うって。なんで裸なの?」 「あ?え?いや、だってっ。体の絵っていうからっ。なんか、ほらっ、美術で裸の絵とか、描いてるやつ、あるからっ」 「ああ、ヌードデッサンね」  守羽は笑いながら言った。 「じゃなくて、競技会で着るユニフォームを着たところ描かせて欲しいんだけど」  守羽の言葉に夏向がゴツッと音を立てて机に顔を伏せる。 「ああ、そういうこと。恥ず」 「ごめん、ごめん。やっぱり人体、目の前で見ながら描きたくて。だったら本人を描くのが一番だからさ」 「んー、分かった」  まだ顔を赤くしたまま夏向は顔を上げた。 「ユニフォーム、持ってくる」 「うん、お願いします。それで、あの、少しだけデッサンする時間をもらえたりするかな?」 「うん、ドンちゃんに言っとく。じゃあ練習行ってくる」  机に打ち付けた額を押さえながら夏向が立ち上がる。 「ん、頑張って」  うん、と頷いてチラリと守羽を見るとそそくさと出て行った。 (なにあれ)  守羽は照れた様子のまま出て行った夏向を見送って少し笑った。  学校一の人気者とこうして毎日言葉を交わしている自分が不思議だ。夏向といると最近は楽しいと感じるし、話しているとつい笑ってしまうことが増えた。 (夏向はどう感じているんだろう)  窓からグラウンドを見下ろすと、夏向がマネージャーの彼女と笑いながら歩いているのが見えた。肩を並べて話している二人の姿を目で追う。  話をするようになったとはいえ、夏向が人気者であることや、守羽が影の薄い存在であることに何ら変わりはない。 「どうせ応援旗ができあがればまた元通りになるだけだし」  そう呟いてグラウンドから目を逸らし、部室へと向かった。 「ええと、じゃあ、普通に真っすぐ立ってもらって、そのまま」  守羽は競技用のユニフォームに着替えた夏向を前にイーゼルに立てかけたスケッチブックに向かった。時間がないのでグラウンド脇の陸上部の部室で急いで描き始める。ここまで本格的に人体デッサンをするのは初めてで、気ばかり焦ってうまく鉛筆が走らない。 (ああ、こんなことなら予備校で美術解剖学の授業受けとくんだった)  体にぴったりとしたユニフォームを着た夏向の体は見れば見るほど素晴らしいことがわかるがそれをうまく捉えることができず、守羽は泣きたくなった。こんなにも自分に絵を描く技術が無かったのか、ということを思い知らされて、汗がダラダラと頭から流れてくる。 「守羽?」  夏向に呼びかけられて、ハッと顔を上げた。 「平気?すげー汗だけど。部屋、暑い?」 「あ?ううん、平気」  守羽はいつの間にか詰めていた息をはぁ、と吐いてしゃがみ込んだ。 「ごめん、うまく描けなくて。せっかく時間もらったのに」 「大丈夫だよ。ちょっと休憩しよ」  夏向が近寄ってきてしゃがむと、目に入りそうなほど垂れた守羽の額の汗を手の平で拭った。 「あ、待って、夏向。汗で手が汚れる」  守羽は慌てて夏向の手を掴んで開くとポケットからハンカチを取り出し、手の平を拭った。固くゴツゴツとした感触が伝わって来る。 「あ、ごめん。ボロボロで汚いだろ、俺の手」  夏向がそう言って引っ込めようとする手を守羽はギュッと握って引き寄せた。 「ううん、そんなことない。もっとよく見せて」  夏向の手の平を指先で撫でる。大きくて分厚い手には豆が潰れては塞がった痕が残っていた。   (夏向はこの手で高く空を跳ぶんだ。すごいな)    何度も失敗して、それでも何度でも挑戦する夏向の姿が見えるような気がする。 「そのまま、手、開いててね」  スケッチブックと鉛筆を掴むと夏向の手の平を見つめて急いで描き始めた。夏向の存在も自分の存在すらも忘れたように夢中になって描く。動かす鉛筆のシャッ、シャッ、という音だけが耳に響いて他は何も聞こえなくなった。あっという間にページには今にも動き出しそうな夏向の右手が浮き上がってきた。  守羽の茶色いくせ毛が鉛筆の動きに合わせて揺れる。その柔らかそうな髪に夏向が左手を伸ばした。前髪に触れた手が次に頬に触れるのを感じて守羽は鉛筆を動かす手を止め、顔を上げた。手が触れた頬が熱くなって急に心臓の音がドクドクと耳の奥で聞こえ始める。 「守羽は本当に綺麗だな」 「は?僕?」 「守羽も、守羽の描く絵も、守羽の世界も全部綺麗だ。本当は俺、守羽の絵だけじゃなくて、守羽にも一目ぼれしたんだ。守羽のことが好きだ」 「え?それって・・」 「ごめん。守羽が(かがり)のこと好きなのわかってるけど」  守羽はペタリと尻もちをついた。 (夏向が僕を好き?)  赤く染まった目元を夏向は伏せた。 「引くよな、こんなこと言われて。キモいって思われるのわかってるけど、初めて話をした時、俺の名前をなつむきって言った守羽が可愛くて気持ち止まんなくなった。篝のこと、好きなんだってわかっててもどうしようもなくて。かなたって呼んでいいかって訊かれた時、マジで嬉しくて叫びそうになって・・」 「夏向・・。待って。あの、ちょっと待ってっ」  思考がグルグルと回って訳がわからなくなってくる。 (夏向が?こんな僕を?いや、違う、今はそこじゃない)  守羽は必死で言葉を探した。 (キモいのは僕のほうじゃなかったっけ?だって篝先生のスケッチを見た時、夏向は軽蔑した目で・・。いや、ちゃんと訊かなきゃ。今度は勘違いしたくない) 「か、夏向は僕が篝先生の事好きだってわかった時、キモいって思わなかったの?」 「キモい?思う訳ないだろ」 「何で?」 「何でって、俺、告白する前に振られたようなもんなんだぞ?めちゃくちゃショックで泣きそうだったわ」 (ショック?じゃあ、あの時の目は軽蔑じゃなかった?でも、夏向はマネージャーの女の子とつき合っていて・・) 「でもっ、夏向は彼女がいるじゃんか」 「彼女?いないよ。誰だよ」 「あの、陸上部のマネージャーの子」 「はぁ?違うし」 「だって、みんなそう噂してっ」 「マネには大学生の彼氏いるって」 「でも、あんなに仲良さそうで・・」 「そんなことないってっ」  夏向がムキになって否定する。 「あの、でも、ちょっと、待って・・」 (ああ、頭が混乱する) 「守羽は、あの・・、どう思ってんの?俺の事」 「どう・・?」   (夏向を?どう?あれ?どう思ってるんだろう?こないだ、夏向は僕の事どう思ってるんだろうって、考えてた気が・・) 「楽しい。夏向といると、楽しいと思ってる」 「あの、それって」 「夏向ともっと一緒にいたい。今はそれだけしか言えないけど、ダメかな、それじゃあ」  守羽はぐちゃぐちゃの気持ちのままで、それでも必死で答えた。  夏向が、はぁ、と大きく息を吐くと、赤くなった顔を両手で覆って座り込んだ。強張っていた体から力が抜けるのが伝わってくる。 「ああ、良かった。俺、またやらかしたと思ってビビった」  そう言って顔を上げ守羽を見つめた。 「いい、全然いい。俺も守羽といると楽しい。今は毎日話ができて楽しくてたまんない」 「うん、僕も」  夏向が守羽の手を取った。 「守羽の手、ちっさいな。この手があんなすごい絵描くなんて、ほんと不思議」  それを聞いて守羽は笑い出した。 「え?何?」 「さっき僕も同じこと考えてた。夏向はこのおっきな手で高く跳ぶんだって思ったら、すごいなって」  夏向も笑い出す。 「そっか。なんか、すげー嬉しい」  遠い距離にいる決して自分とは交わることのない人だと思っていた夏向が、今はこんなに近くに感じる。そのことがたまらなく嬉しくて守羽は夏向の手をギュッと握り返した。

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