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梅雨が明けて、一気に夏らしい空気が漂い始めた。
いつもは夏を前に暑さにうんざりする守羽 だが、今年はなんとなく浮かれている。
「なー、練習付き合ってくんね?」
帰る準備をしていたら、夏向 が教室にやって来た。今や夏向が守羽の所に来ることにクラスメイトたちも慣れっこになってしまったようで、誰も気にしなくなった。
そんなクラスメイトたちとは逆に、守羽は夏向の気持ちを知ってから、どこにいてもやたらと耳が夏向の声を捉え、目が夏向の姿を追ってしまう。守羽はその度に1人でドキドキとして顔が赤くなっていないかと気が気でない。
「え?無理だよ」
「なんで?なんか用事?」
「そうじゃなくて。僕に夏向の練習に付き合えるわけないじゃん」
「だいじょーぶ。守羽は座ってるだけでいいから」
「それ、ただの見学だろ。やだよ」
「見学じゃねーよ。ちゃんとしたお手伝い。な?ちょっとだけ」
そう言って守羽のカバンを持ち歩き出す。
「ちょっと待って。夏向っ」
慌てて後を追い、陸上部の部室に入って行く夏向についてしぶしぶ守羽も部室に入る。
「これに着替えて」
夏向がTシャツとジャージを放ってくるのをバサバサとほとんど顔で受け取る。あはは、と夏向がそれを見て笑うとカッターシャツを脱いだ。引き締まったウエストと筋肉の盛り上がった美しい背中が露わになって今度は本当に顔が赤くなる。動く度に、その中にしまわれている羽が今にも飛び出てくるのではないかと思えてくる綺麗な肩甲骨に見惚れた。
守羽は恥ずかしくてなかなかカッターシャツが脱げず、グズグズとしていたが
「はーやーくー」
と夏向に急かされ、慌ててシャツを脱ぎTシャツとジャージに着替えた。
「あ?これでもまだちょっとでかかった?俺の中学の時のなんだけど。ま、いっか。行こ」
守羽はグラウンドの端っこの木陰になった石垣に座らされた。
「あれー、シュウちゃんっ。なに、ついにナツの専属マネになった?」
木下がふざけて後ろからじゃれついてきた。
「わっ、木下君」
「キノッ、気安く守羽に触るなよっ」
「うわ、出た、ゴリラ。いいだろナツッ、俺にもちょっとぐらいシュウちゃんの匂い嗅がせてっ」
「誰がゴリラだ。匂いも嗅ぐなっ」
抵抗する木下を夏向がグイグイと半ば引きずるようにしてトラックに向かって行くのを守羽は笑って見送る。
「ちょっとの間そこで座ってて。日に焼けないように上のジャージ、ちゃんと羽織ってろよ」
夏向は首を捻ってそう言うと、トラックを木下と笑いながらゆっくりと走り始めた。
(あんなに体大きいのに、まるで重力を感じてないみたいに軽い)
そう思って夏向の走る姿を眺めていると、いきなり近くでパアーン、というピストルの音がして守羽の体がビクリと飛び上がった。ザクザクザクザク、とスパイクが地面を蹴る音がしてすごいスピードで数人の生徒が目の前を走り抜けて行く。
(こわ・・)
初めて間近で陸上の練習を見た守羽は恐怖で体を縮めた。
「守羽?大丈夫か?」
軽く汗をかいた夏向が戻って来る。
「うん、大丈夫。初めてこんなに近くでみたからびっくりして」
「よし、じゃあ、そろそろ守羽にも、手伝ってもらおっかな。来いよ」
「え?何?なにするの」
(ほんとに羽、生えそう)
シャツに浮き出た肩甲骨の形を眺めながらその背中をビクビクと追いかけると、夏向がゴムのチューブが括り付けられている古い車のタイヤを引っ張ってきた。
「はい、これに乗って」
「え?これに?ど、どうやって」
守羽はモジモジと躊躇 う。
「はーやーくー。せっかく体あっためたのに、冷えちゃうじゃん」
そう言われて慌てて守羽はタイヤに乗った。
「ここに座って、足をここにかける。で、これをしっかり持つ」
と言われるるがままタイヤに括り付けられたロープを握る。
「絶対に手、離すなよ。離したら後ろに転げ落ちて大怪我するからな」
「わ・・、わかった」
夏向はタイヤに括り付けられたチューブを逞しい肩にタスキがけにかけた。
「いくぞ、いいか」
夏向が前を向いたまま声をかける。
「OKっ」
精一杯の声で答えた。
夏向の背中にグッと力が入ると背中の筋肉が盛り上がり、ゆっくりと足踏み出す。たるんだチューブがピンと張ったその瞬間、ザッという音と共に、タイヤが前に進んだ。グン、と衝撃がかかり守羽は一瞬後ろに倒れそうになって、慌ててロープを握る手に力を入れ体を前に引き寄せた。
夏向の長いふくらはぎの筋肉がギュッと引き締まり盛り上がると跳ねるように走り出し、ザスザスとスパイクが地面を捉え蹴る。
「わあああ」
守羽は大声を上げた。
タイヤが跳ね、振り落とされないように必死でロープを握った。風が耳元でビュンビュンと音を立て、顔に砂粒が当たって痛い。綺麗なフォームで走る夏向の背中の向こうに夏の気配の青空がぐんぐんと近づいてくるようだ。
「夏向っ、怖いっ!」
「離すなよっ!」
夏向が走りながら叫ぶ。怖くて心臓がバクバクと音を立てているのに守羽の腹の中は熱くなって笑いが込み上げてきた。
(怖いっ。でも、楽しいっ)
「夏向っ!もっとっ!もっと早くっ!!」
いつの間にか守羽はそう叫んでいた。
「オラアッ!!」
グンッとさらにスピードが増し風の音が強くなる。
「うわああ」
守羽は大声を上げて腹の底から思いっきり笑った。
グラウンドを横切るようにして端まで走り抜けるとスピードが徐々に緩み、タイヤが止まった。夏向が地面にドサリと寝転び、ハァハァと大きく胸を上下しながら肺一杯に酸素を送る。
守羽はタイヤから降りて、恐る恐る目を閉じて息を切らしている夏向に近づいた。夏向は体中から熱を発していて、守羽の皮膚をチリチリと刺激する。吸い込んだ酸素をすぐさまエネルギーに変えて放出しているかのようだ。
守羽は、手を伸ばして夏向の激しく上下している胸の上に手の平を当てた。夏向がチラリと片目を開けて守羽を見る。ん?と笑いながら目で問いかけられて顔がかっと熱くなった。
「汗でビショビショだから、キモいだろ」
「全然」
夏向は、はは、と声を出して笑うと守羽の手に大きな手を重ねた。ドクドクと飛び出そうな程、強く打つ夏向の心臓に守羽の血も騒ぐ。
「ね、夏向の心臓の音、聞いていい?」
「え?心臓の音?いいけど?」
守羽は寝転んでいる夏向の胸に頭を寄せて、胸にぴったりと自分の耳を押し付けた。夏向がビクリと体を震わせたが構わず強く押し付けると、まるで別の生き物が体の中に住んでいるかのように心臓が強く激しく鼓動を打っているのが感じ取れる。
「すごい音」
「思いっきり走った気分になれた?」
夏向が訊いた。
「うん、なれたよ。風がビュンビュン鳴って、顔に当たって痛かった。思いっきり走ると息ができなくなるんだね」
最初の頃は夏向の健やかな肉体に激しく嫉妬して、人懐こい性格にイラついていたのに、今は夏向の全てにドキドキとして、何もかもが楽しい。
「夏向のこと、好きだよ」
守羽は思わず口に出した。
「え?」
ドクリとひときわ大きく心臓が震えて夏向の驚いた声が胸から響いてくる。
「夏向、大好き」
「・・・」
「夏向?」
無言になった夏向が心配になって守羽は体を起こした。
「あー、ちょっと待って。嬉しくて泣きそう」
夏向が片腕で顔を隠しながら言った。あはは、と守羽は笑ってまた夏向の胸に耳を当てた。ドクドクと夏向の鼓動が変わらず激しく打っている。
「うん。僕も嬉しい」
夏向の指が髪を撫でるのを感じながら守羽はうっとりと目を閉じた。
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