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何故、発情期(ヒート)時のことは憶えていられないのかと自身のことを恥じた姫宮は、もらった絵を置いた後、顔を覆った。 「二人で何をでよろしくしていたかさっぱり分かりませんけど、それにしても大河さま。また先を越されましたね、──痛っ!」 小口の不要な一言に大河が鉄槌を下したようだった。 しかし、それを窘める余裕は今の姫宮にはなかった。 『まま』 身体全体が過剰に反応した。 あの時のようにまた呼んでくれるなんて。 驚きと嬉しい気持ちになった姫宮は顔を上げた。 「大──」 『まま』 主張するようにボードでそう呼んでくる大河が、その後に続く言葉はなく、『ま』を押し続けてくる。 あの時のように、自分に向けて欲しいがためにそのボタンを押しているのだろうか。けれども、今の頭には響く。 「⋯⋯大河、分かったから、押さないで」 「そうですよ。ずっとそんなことをしていてもママさまに嫌われるだけですよ」 加勢した小口がそう言った途端、ぴたっと止まった。 「全く⋯⋯」とため息混じりに言った。 「御月堂さまがいた時にも言いましたが、その後のことを言わないといくらなんでも伝わらないでしょ」 「⋯⋯」 ボードをぎゅっと握りしめては、小さな口もぎゅっと引き結んで、黙ってしまった。 「⋯⋯えと、大河。ゆっくりでもいいから、それで話してみて」 「⋯⋯」 ボードに目線を落としていた大河は、やがてボタンに指を滑らせる。 どんな言葉を伝えたいのか。 我が子の様子を緊張気味で見守っていたが、指を滑らせているだけで一向に押す様子がなかった。 迷っているような手つきに、しかし、大河が言いたいことがこれっぽちも分からなく、ただ待っていることしかできなかった。

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