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◆好きになった人は◆◇2◇ トリガー
◆◇◆
「ん……」
直人 が目覚めると、下腹の奥の方に鈍い痛みのような欲求が渦巻いていた。うっすらと感じる怠さもあり、自分に起きている変化に気がつく。
しかし彼は少しも慌てる様子を見せず、枕元に用意しておいた抑制剤と水を手に取った。手慣れた様子でそれを飲み下すと、効果が出るまでの時間をチェックしながら、ゆっくりと出勤の準備を始めた。
「今回も周期バッチリだな。仕事への支障なし。他はダメだけど、ヒートだけは優秀で助かる」
『俺のオメガ!!!』
信司 がそう叫んだあの夏から、驚くことに今年でもう十五年が経つ。あの後、運命のアルファに触れてしまったことで初めてのヒートを迎えた直人は、そのまま親に見捨てられてしまった。理由は単純だ。彼の優秀な兄を守るために他ならない。
ヒートを起こした弟のそばにいると、兄がラットに巻き込まれる危険性があるのだ。兄弟を天秤にかけた両親は、少しも迷う事なく弟を見捨てる選択肢をとったのだった。
哀れな直人がそのままその部屋に倒れて苦しんでいると、清掃業者のオメガの女性が彼を発見し、ホテルが所有する保護施設へと入所させてくれた。そこで緊急用の抑制剤を打ってもらったところ、驚くほどに効いたため、事なきを得た。
それ以来、直人は国の保護施設に入り、たくさんの愛と支援を受けながら、オメガであっても独り立ちできるようにと必死に生きてきた。世話になった人たちがいずれも優しく、愛情深いタイプばかりだったことが幸いして、直人は明るく素直な青年へと成長した。
そして、今も相変わらず抑制剤の効きが良く、それを服用してさえいればベータと変わらない日常を送ることができた。体力面では劣るものの、業績という面では社内でも優秀な部類に入る。今日は一つの案件の区切りを迎え、仲間内で打ち上げをする予定だ。
「でももう明日には完全なヒートだからな。一次会だけで帰ろう」
ネクタイを締め、鏡を覗く。その隣には、あの日行ったリゾートでの写真が一枚だけ貼ってあった。到着直後にとった写真。それは、家族で撮った最後の写真でもある。
その後方に、小さく映る明るい髪色の少年がいた。それが、あの運命のアルファである信司だと気がついたのは、それから一月後のヒートの時だった。
「信司、行ってくるよ」
直人はそう言って、写真の信司を指で撫でた。
◆◇◆
「中山 さーん、次、行きますよー!」
「あ、ごめんね。俺はもう帰らないといけないから……」
少人数で通常より短い締め切りの中、大量のデータ作成を頼まれたのが、僅か一月前。本来ならば倍の日数はかけなければ難しいそれを、直人へ指示した上司がオメガ嫌いだったため、周囲はパワハラだと判断した。
それでも嫌な顔一つせずにそれを引き受けた直人に、周囲からは羨望の眼差しが注がれた。
「中山さん、えらいですね。こんなに大変な条件なのに引き受けるなんて……」
「ん? いや、余裕だよ。だって、みんなみたいな優秀なメンバーがいるからね。残業しなくて良いように計画は立てるから、ローンチまで頑張ろうな」
そう言って微笑みさえすれば、人がついてくる。その人たらし具合が、直人の武器でもあった。
その納品が終了し、今は打ち上げも終わった。あとは無事家に辿り着くことが出来れば、ヒート休暇でしばらく休める。一般的なオメガほどヒートに苦しむことはないが、それなりに処理しないといけないことはある。それは他の人とそう変わらない。
今は恋人もいないため、一人で全てをこなさなくてはならない。家に篭ってからの生活のことを思うと、すでに頭がいっぱいだった。
「もうヒートが来るからね。早めに帰らないといけないんだ。みんなは楽しんで。会費は白井くんに渡してあるから、思い切り楽しんでおいで」
直人がそういうと、他のメンバーが路上で大騒ぎを始めたため、幹事をしていた子も直人に挨拶をすると、急いでそちらへと戻っていった。
「よし、帰るか」
フェロモンが僅かに漏れ始めていることを、時計のアプリが警告し始めた。それを見ても慌てず、「始まったのか」と呟くと、ポケットからヒート時に使用する抑制剤のタブレットを取り出す。
それをガリガリと噛み砕きながら、念の為に移動手段を電車ではなくオメガ用のタクシーへ変更することにして、大通りへと向かい始めた。
「あれ? この香り……」
その直人の鼻先を、ある香りが掠めていった。記憶の隅に引っかかっている香りと似ていたそれは、目の前にあるバーの扉から香っている。
直人はドアノブの方へと顔を近づけ、そこに残っている香りを嗅いだ。
「なんだろう。なんか懐かしい感じがするし、それに……」
何かを思い出しそうな気がして、それを吸い込んで肺の奥まで回す。体の隅々に、その香りを行き渡らせようとした。
「何があったんだっけ……」
そうしてもう一度香りを嗅いだ。それを勢いよく吸い込んだ途端に、勢いよく直人の記憶の扉が開き始めた。
——ソバニイタイ。ハナレタクナイ。フレテイタイ。
あのビーチで経験した、頭の中で誰かが話しているような感覚が戻ってきた。それと同時に、胸が潰れそうになる。息が苦しくて胸を掴み、その場に滑り落ちるようにしゃがみ込んた。どうにか保とうとしていたバランスも崩れ、ドンっと大きな音を立ててドアに体をぶつけ、倒れ込む。
——ココニキテ。モウマテナイ。モウマテナイ。
「っぐ……苦しっ……」
ドアノブから香っていたフェロモンが、だんだん濃くなっていくのを感じた。それと同時に、肌がビリビリと震える。体の内側から、嬉しいのか寂しいのか、それとも不快なのかもわからないような、卑しい刺激が次々と湧き上がって来た。
「った、すけ……て」
踠きながらも、どうにかしてドアノブへ手を伸ばそうとする。ちょうどその時、ノブが動いてドアが開けられた。勢いよく開けられたドアは、店内へと引き込まれ、同時に直人も店内へと倒れ込んだ。
「うわっ! え、なに、お兄さん……あれ? この人ヒート起こしてない? すっごい匂い薄いけど。これヒートだよね?」
薄暗い店内はダークブラウンの木目調で、そこに数人の客がいた。その全ての視線が入り口に倒れる男に集まる。直人は朦朧とする意識の中で、一箇所だけキラキラと輝いている場所があることに気がついた。
カウンターの真ん中、たくさんの人に囲まれて楽しそうに談笑していた男。その男は、あの夏に見たキラキラした光を纏っていたのだった。
「……信司?」
直人が名を呼ぶと、信司はパッと顔をこちらへと向けた。そして、訝しげに直人を見ている。
「信司……だよね。ねえ、俺の事忘れたの? 忘れたりしないでしょ……だって……俺たち……運命……」
カウンターの男は、僅かに香っているオメガのフェロモンを察知したらしく、鼻を覆って顔を顰めた。ただ、直人の様子を心配してくれてはいるようだった。
「ママ、緊急抑制剤。それと、病院の手配よろしく。お兄さん、ここそういうの慣れてる人ばっかりだから、心配しないでいいよ」
優しく声をかけながら、直人の方へと近づいて来る。コツコツと音を立てるブーツの音が耳に心地よく、直人はそれをじっと聞いていた。
「ちょっとごめんね。はい、打ちまーす」
そう言って、男は直人に緊急抑制剤を打った。
「うっ……」
息苦しさが和らいでいく。少しずつ吸い込めるようになった息が、安心感をもたらしてくれた。それと同時に、強い眠気が襲ってくる。頭の中に響いていた声はなりを顰め、直人はゆっくりと眠りに落ちていった。
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