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◆好きになった人は◆◇3◇ シン

「シン、タクシー来たよ。あんた一緒に乗ってくの? 知り合いなんでしょ?」  このバーのママであるミアが、ドアを開け放ちながらそう問いかけた。店の前には、ベータの運転手が車を停めて控えている。シンと呼ばれた男は、直人(なおと)の額の髪を手でかきあげると、その顔をじっと見つめた。  シンは記憶の中でこのキレイな顔の男を必死になって探しているようで、何度も眉間に皺を寄せては小さく唸っている。そして、しばらくそれを続けていたが、諦めたのか眉を顰めて大きく被りを振った。 「いやぜんっぜん思い出せないんだけど。会ったことあるのかな……ただ、俺、今日は店に出るからと思って、いつもより少しだけ強めの抑制剤飲んでるんだよね。だけど、そうじゃなかったら間違いなく襲いかかってたと思う。それくらいい匂いがするんだよ、この人。なんだかちょっと懐かしいっていうか。でもさあ、俺が行っても病院の中には入れないでしょ? 誰かベータの人に付き添い……」  シンがグダグダと言い訳をしている間、腕を組んで足を鳴らしていたミアママは、痺れを切らしたのか真の胸ぐらを掴んでいかつく低い声で吠えるように怒鳴り上げた。 「いいから! 行って来なさい! あんたの実家の病院に行くようにって運転手さんには伝えてあるから! それなら大丈夫でしょ? ほら、早く!」 「ええ、それなら余計に行きたく無いんだけど……」  狭い戸口で大柄な男二人が揉み合っているためか、通りすがる人々がわらわらと集まり始めた。そして、倒れている直人に声をかけようとする男たちの中に、アルファらしき人物がちらほら現れ始めた。 「あー、寄って来始めたな……ミア! この人の荷物持ってきて!」  シンは慌てて直人を抱え上げると、タクシーへと飛び乗った。直人のフェロモンは、生まれつきかなり香りが薄い。その上今は緊急抑制剤を打たれてほぼ数値はゼロになっているはずだ。  それでもオメガのフェロモンは、微量であってもアルファを惹きつけてやまない。店に残っている香りのせいで通行人を引き寄せいているのであれば、この場にいるオメガは全員いずれ危険な目に遭うだろう。シンはそれを回避するために、直人に同行することにした。 「あんた、その子さっき運命だどうのって言ってたけど、それってもしかして……」  荷物を渡しながらミアがシンにそう問いかけると、シンはミアの口を手で塞いだ。直人はシートベルトをしたままぐったりと眠っている。それを横目でチラリと確認すると、懇願するような目をミアに向けた。 「俺が言うから、今は何も言わないでくれ」  切羽詰まったような顔でそうお願いするシンの頬が、ほんのりと紅潮していく。それはだんだん耳まで届き、それが何を意味するのかミアにはわかったようだった。 「あんた……、もしかして一目惚れしたの?」  ミアの問いかけに、シンは小さく顎を引いた。大柄で横柄な男が、小さく恥ずかしがっている姿を見て、ミアの胸の中で庇護欲が刺激された。可愛いシンのお願いを聞き入れてやろうと思い、その頬に大きな音を立てて口をつける。 「やだ! あんたも可愛いところあるんじゃないの。わかったわよ。ちゃんとその口から話しなさいよ! いいわね?」 「わかったよ。ありがとうな」  ミアは嬉しそうに微笑みながら、力任せにタクシーのドアを閉めた。さすが毎日大量の酒瓶を抱えているだけあって、かなりの強さでドアは閉まった。車が壊れるんじゃ無いかとヒヤヒヤしている運転手に向かって、シンは告げた。 「じゃあ、小川信章(おがわのぶあき)クリニックまでお願いします。その裏手の実家の方へお願いします」  運転手は、「わかりました」と答えると、ゆっくりと車を走らせた。シンはぐったりと辛そうにしながらも、ぐっすり眠っている直人を見て、不思議な気持ちを抱いていた。 ——俺の記憶にはいない。だったら……。  直人とシンは、これまでに出会ったことは無い。それにも関わらず、直人はシンを運命だと言った。匂いの薄さからして、抑制剤でコントロールの効くタイプのオメガなのだろう。それなのに、俺の匂いを辿って店に入ってきた。 「もし俺がいつも通り抑制剤を飲んで無い状態で出会ってたら……間違いなく番ってるだろうな」  そう思いながら、直人の首筋に指を這わせた。 「ん……」  夢現な状態なのだろうか、肌を刺激すれば直人は反応するようだ。シンは、その美しい顔を見ていると、そのまま直人を手に入れたくなってしまった。思わず首筋に手のひらを当て、顔をこちらへと向けてしまう。 「本当にキレイな顔をしているな」  両手で包み込むように直人の顔を支え、親指で頬をなぞっていく。顎のラインをそっと擦ると、直人はぴくりと反応して薄く目を開けた。そして、譫言のように「信司……しん……じ」と言う。シンはいたたまれない気持ちになった。  それでも、ミアの言う通りにシンは直人に一目惚れをしてしまったようで、どうしても引く気になれないらしく、直人の方へと擦り寄って行く。 「ねえ、シンって呼んでよ」  そう言って、軽く唇を触れた。ふわ、と軽く触れると、小さくピリピリと電流が流れるような、甘い痛みが生まれた。 「なんだこれ……」  その刺激は。シンをさらに惹きつけた。もっとそれを味わいたいと思い、思わずもう一度唇を合わせる。そして、もう一度甘えるようにお願いした。 「ねえ、お願い。シンって呼んでよ。なんか、あんたにそう呼ばれてみたいんだ。信司じゃなくて、シンって言ってみてよ」  直人はシンのキスで半分覚醒したのか、頬が紅潮していた。そして、目の前で懇願を続ける男の願いを叶えてあげたくなったようで、柔らかく溶けるような笑顔を見せると、少し大きめに声を出して彼をよんだ。 「シン」  その声は、シンの耳から身体中へと響き渡り、身体中をくまなく喜びで満たしていった。シンの中から、アルファのフェロモンを一気に引き摺り出してしまう。 「あ……やばいな、これ。運転手さん、ごめんなさい。急いでもらってもいいですか? 俺ラット起こしかけてる……」 「ええっ!? あなたアルファなんですか? 困りますよ、番でもないのに隣同士で乗っちゃ……。わかりました、急ぎますからとにかく我慢してくださいよ!」  必死になって運転する姿を見て、シンは思わず「ありがとう。あなたいい人ですね」と笑った。  しかし、シンのフェロモンを嗅いだ直人は、完全に覚醒してしまった。車内に二人の濃いフェロモンが蔓延し始めてしまい、運転手は顔を顰めるとさらにスピードを上げて行った。 「シン……して、お願い。ずっと待ってた。モウマテナイ」  それを聞いた運転手は、たまらずに二人の会話に口を挟んだ。 「お客さん! 車内では我慢してくださいね! もう着きますから!」  『小川信章クリニック』のすぐ裏にあるシンの実家のガレージが近づく。シンは電子ロックをリモート解除して、タクシーをその中までつけさせた。そして、事前にミアが支払いを済ませていることを知らされると、「ありがとうございました」と叫びながら、直人と直人のバッグを抱き抱えて飛び降りた。

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