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第5話

 戸棚から野菜を取り出してシンク横に並べた。片手しか使えないと滑って食材が落ちたりずれたりするので、切るのにはコツがいる。  濡れ布巾の上に食材を置くと転がらないので片手でも切りやすい。  だが買ったばかりの野菜はところどころ腐っている部分があり取り除くのに時間がかかった。特にじゃがいもは芽が伸びてしまい食べたらお腹を壊すので気を使う。  片手での調理は最初こそ苦労したが、慣れてくればどうってことない。  てきぱきと調理しているのをウォルフはじっと観察しながら「おっ」とか「あっ」とか小さな悲鳴をあげていた。  そんなに危なっかしい手つきをしているわけではないが、初めて見る人は不安になるかもしれない。ウォルフの人の良さが透けて見えて可笑しかった。  鍋を暖炉にかけて火が通るまで少し時間がかかる。椅子に腰かけるとやっとウォルフもソファに座った。  「ずっと見てられるとやりづらい」  「すまない。手を切るんじゃないかと」  「この腕になってもう四年になるか……大概なことは一人でできるぜ」  「病気か?」  ちらりと右腕を見られた。やはり気になるよな。  「虎に襲われた」  ウォルフは何度か目を瞬いて、しばらく思案顔で天井の四隅を見上げた。同情めいた表情にやはりいい奴だなと確信を得る。  「騎士団には報告は?」  「どうだったかな。襲われたときはショックで覚えてない。友だちがいろいろ世話してくれたから任せっぱなしにしてた」  なにか困ったことや犯罪に巻き込まれたときは騎士団に通報すると、どんなに遠い小さな村でも早馬を飛ばして駆けつけてくれ国民の暮らしを守ってくれている。  肉食動物も草食動物も表向きは平等に暮らしているが、根っこの部分考え方が違う。  肉食動物は草食動物を餌として見ているし、草食動物は肉食動物が怖い。  もちろん全員がそうではなく、肉食動物と草食動物が結婚することがあるが、それは極稀だ。  差別とも区別ともつかない境界線は遺伝子に組み込まれた考え方なので、人型に進化しても歩み寄るのにはまだまだ時間がかかるだろう。  「そうか」  ウォルフは持ったスプーンを皿に置いて、三角耳を折り曲げた。  草食動物のなかでも特に小動物は狙われやすい。リスやうさぎ、ネズミなど体躯が小さいこともあり、か弱そうに見えるのだろう。そして変質な愛好家からの人気が高く、闇オークションで人身売買されていると噂もある。  だから小さい頃から裏道を歩くな、暗くなる前には帰ってくるように、襲われたら全力で逃げろと教育されてきた。草食動物は襲われるリスクを抱えているから大概の種は逃げ足が速い。  もう傷は治ったはずなのに右肩に深く残った傷がずきずきと痛む。あの夜を思い出すたびに痛みの波がきて、犯されたことまで鮮明に蘇ってくる。  両手を縛られ口輪をつけられ、逃げることも助けを求めることもできずにただ泣いてされるがままだった。手の感触やなかに何度も出されたことまで思い出し、吐き気をもよおし迫り上がってくる胃液を抑え込むように口元を押さえる。  「どうした? 顔色が悪い」  「なんでもない。ちょっと嫌なこと思いだしただけ」  「……すまない辛い話をさせたな」  さらにしょんぼりと耳を垂れさせてしまい、頭を振って気持ちを切り替えた。  「ウォルフはハスキーだからいいよな。襲われることはないだろ?」  「どうかな」  そう言って眉根を寄せたウォルフは折れた左腕を見下ろした。  草食動物を助けようとしたら逆に怖がらせてしまい、襲われた経緯のある彼は困ったように笑う。  「オレも似たような状況だな」  「お互い苦労するね」  「そうだな」  鍋からいい匂いがしてきて、どうやらシチューが できたらしい。ぱさついたパンと一緒に並べるとウォルフはまた頭を下げた。  「怪我の手当てから食事に寝床……なにからなにまでありがとう」  「おまえも育ちがいいな」  揶揄ってやるとウォルフは笑ってくれた。沈んでしまったふわりと空気が軽くなる。  「いまは手持ちがないが、きちんと礼はする」  また頭を下げるので可笑しくなった。相当生真面目な性格なのだろう。  最初は怖かったがウォルフの人柄や仕草、言葉遣いから危害をくわえないだろうと信頼できる。  和やかな食卓を囲っていると小さなノック音がした。  トントンのあとは三秒あいてまたノック。客だ。時計を見ると夜の八時を回っている。  「こんな時間に誰か来たのか?」  ウォルフが耳をぴくぴくとさせ玄関の方を見て様子を探っているようだが、外には誰もいない。裏口だ。  「悪い。用事あるから部屋に戻るな。食べ終わったら食器はそのままでいいから」  「……わかった」  食べ残しは流しに捨て、仕事部屋に入った。  もちろん鍵をかける。  部屋のなかにはもう一つ扉があり、そこは外に繋がっている裏口だ。  トントンとまた響く。三秒あいてまたノック音。  施錠された鍵を開けるとふさふさの髪をした馬型の男が指を弄びながら立っている。そういえば今夜は初めての客だとジープが言っていたな。  「ようこそ、楽園へ」  男は黒目を大きく広げ、足取り軽くなかに入って来た。

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