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第39話

 波風が長い耳を揺らす。寄せては返す波が砂を攫い、海へと帰っていくのをじっと見つめた。  陽の光が反射し、水面がきらきらと輝き、空にはかもめが飛び交い、海中の魚を狙っている。  その一瞬を頭に焼きつけ筆を動かした。  潮の匂いや水気を含んだ風、ざざんと響く波の音を絵に閉じ込めるように気持ちを入れる。  まばたきもせずに描いていると段々目が乾いていくが、その時間すら惜しい。  ほんのコンマ一秒の場面を永遠に残すために目を血走らせて両手を動かした。  右手は訓練したお陰で絵を描けるまでに回復した。その間左手で描いていたので、いまでは両手を使って別々のものを描けるまでに成長した。  そうしているとなぜか人だかりができて、描き終わるとお布施をもらえることが多く、断っても、いいものを見せてくれたからと笑顔で言われてしまうと受け取るしかない。  少しずつ人との交流も慣れてきたが、まだまだ失敗も多く落ち込む日もある。  けれどそういうときはウォルフが慰めてくれ、また立ち上がる力をくれた。  「そろそろ限界みたいだ」  ウォルフの声と赤ん坊の泣き声に振り返る。  泣いているルッツは母恋しくなってしまったのか、抱っこされている腕から逃げようとしていた。  爪が鋭く生えているのでウォルフの顔には真新しい切り傷が増えている。  「おいで、ルッツ」  名前を呼んでやるときゃあと感嘆の声をあげて、小さな手をめいいっぱい伸ばしてくれた。その温かさに触れると不思議な気分になる。  十月十日お腹のなかにてへその緒で繋がっていた子どもがいまは抱っこしている。日増しにできることが増え、目まぐるしく成長する姿は速すぎて描ききれない。  グレーの瞳をくりくりとさせて見上げてくる顔はウォルフにそっくりだ。小さな三角耳と尻尾もそのうち立派になり、いつの日か自分より背の高い勇ましい男になるのだろう。

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