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第35話 5章 爽やかな風

 目的地の高原に着いて、二人は車を降りる。 「うわーっ、気持ちいい。そして、結構冷たい」 「そうだなあ、やっぱり街中とは違うな。羽織もの持ってきて正解だったな」  尚久は尚希の背中に手をやり、抱き寄せるように歩く。  尚希はドキッとした。こんなふうにされたことは初めて。頭を撫でられるのは、いつもの事。時折、背中に手をやるのも、何度かあった。けれど、こんな……。ひんやりとした中、尚久の手の感触を感じる。尚希の動悸は収まらない。 「寒くないか」  そう言って、尚久は更に尚希の華奢な体を抱き寄せる。尚希の動悸は、収まらないどころか、増している。  先生……僕、どうしよう……。  すーっと、風が吹いた。 「気持ちのいい風だなあ。街中とは違う、いい風だ」  うん、そうだと思う。そうだけど、ドキドキが止まらない。無言の尚希に、尚久は続ける。 「街中は漸く秋の気配を感じる頃だけど、ここはもう秋だなあ」 「そうだね。高原は秋の訪れが早いんだね」 「ああ、秋は早くて、春は遅い。お前は秋と春、どっちが好きだ?」 「……特別思った事はないけど、秋かな。一応秋産まれだから」 「来月誕生日だったな。お祝いしてやるよ」 「ありがとう。先生はどっちが好きなの?」 「私も、どっちかっていうと秋かな。気分が落ち着くし、食いものが美味い」 「あはっ、そっちなんだ。先生結構グルメだから。でも誕生日は春だったよね」 「ああ、誕生日はな」  そこへ、また優しい風が吹く。爽やかで、心地よい。  尚希は、目をつぶって大きく吸い込む。風で、全身が満たされていく。目を開いた。すると、尚久が正面に立ち、見下ろされていた。ドキッとして、思わず尚久の胸に顔を傾けた。  尚久は、いきなりの大胆な尚希の仕種に驚く。だが、無意識なんだろうと、すぐに思う。証拠に、我に返った尚希が、すぐに顔を上げる。  ほんのり染まった頬。慌てた仕種。全てが可愛い。  その尚希の額に、尚久はチュッと口付ける。途端に、尚希の顔が真っ赤に染まる。 「せっ、先生!」  ふふっ、と尚久は笑う。何を慌てているんだ。初心だなあ。今時の学生は、キスどころか、体の関係だって普通にあるだろう。それが、おでこに口付けただけでこの反応か。  やっぱり、春久とそう変わらんなと、尚希が知ったら、さすがに怒り出しそうなことを思う。  兄は、自身が子供で、大人の蒼に恋して、並び立つため、懸命に大人になった。  自分は……この子供が大人になるのを待つのか? それも悪くない。  じっくり大人になるのを、傍らで見守る。尚希の個性を消そうとは思わない。尚希の個性は残したまま、自分の好みの色に染めたい。そんな、欲望が身の内から湧いてくるのを感じる。  邪な愛だろうか? 待つことが、深い愛だと思いたい。何より、大人になった尚希に興味がある。この子はどんな大人になるのだろう。そして……そこから先は、今は、考えることではない。    草原をゆっくり散策する。尚希は、尚久の上着をぎゅっと握ったまま、歩いている。  全く、手を握ればいいのに、それは恥ずかしいのか? そういうところも可愛いし、手を繋いで歩けるようになるまで、待ってやろうか。それも楽しいような気がする。    優しい秋の風に包まれて、加えてここには知っている人もいない。それでも、尚希には、隣を歩く尚久の上着を握るのが、出来ることの精一杯。  精一杯だけど、このままこうしていたい。尚久の隣。それは、とても心地の良い居場所。

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