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第57話 9章 母との別れ

 尚希は大学四年生になった。最終学年、就活をしながら、卒業試験の準備に忙しい日々を送っていた。  一方の尚久も、蒼を院長とする新体制の発足に伴い、副院長に就任した兄の彰久共々、忙しい日々の毎日だった。  将来を約束した二人、互いに忙しい日々の合間に会うことが、お互いにとっての安息であり、癒しでもあった。  二人だけで会うこともあれば、尚希が北畠家を訪れることも頻繁にあった。  二人が将来を約束したことは、北畠家の人には公表している。皆、その事実を歓び、尚希は尚久の婚約者の扱いというか、最早家族の一員のような扱いでもあった。  尚希も、それ以前から頻繁に出入りしていたため、その扱いに違和感なく溶け込んでいた。  また、尚久は尚希の母に婚約の事実を伝え、親としての理解と承諾を願い出た。  尚希の母は、尚久の申し出を喜んだ。母としては願ってもない事であった。  尚希が卒業したら結婚することを許して欲しいと願う尚久に、母はこちらの方こそ、尚希をよろしくお願いしますと頭を下げた。  尚希は、母のその姿に胸が熱くなるのを感じた。  大学生になった頃から、母への思いに変化はしていた。しかし、こうして尚久に頭を下げる母を見ると、自分のことを思ってくれていたんだと、改めて思ったのだ。  その気持ちを尚久に伝えると、尚希を抱きしめ「良かったな」と言ってくれた。それがまた尚希には、とても嬉しく感じたのだった。  尚久は、尚希に優しいだけでなく、尚希のことを一番分かってくれている。一番の理解者だった。  尚久の大いなる愛の、安心感に包まれ、尚希は忙しい中にも充実した学生生活を送ることができた。  人見知りの性格は相変わらずであったが、同じ研究室の学生とは話が出来るようになっていた。  例の女学生には、その後はっきりと断ることが出来た。最初の時はそうではなかったが、その後婚約したからと伝えた。女学生からは、驚かれ嫌味を言われたが、それで動じることはなかった。尚久との結婚の約束は、尚希にとって自信につながっていた。自分を強く持つことが出来るようになったのだ。  周囲にも、尚希には婚約者のいる学生――段々とそんな認識が広まっていった。  好奇の目もあれば、羨望の目もあったが、当の尚希はあまり知らずにいた。そういう鈍さは、蒼に似ているのかもしれない。尚久はそう感じていた。  蒼と尚希は、外見も内面的にも似たところは無かったが、人の噂に鷹揚なところは似ている。それが、尚久には面白く感じられた。  二人の共通した長所だと思うのだ。人の噂に聡いのも長所かもしれないが、鈍いのも長所と言えると、二人を見ていると思えるのだった。  尚希の携帯に登録の無い着信。どこから? 不審に思いながら出ると、知らない病院からだった。母が交通事故にあい搬送されたとの知らせ。  驚き動揺しながら、何とか病院の場所を聞き、直ぐにタクシーで向かった。そしてタクシーから尚久にメールした。尚久の勤務中に電話をすることは、したことがない。今日は緊急な要件だが、電話をすることは思い浮かばなかった。  交通事故……どれくらいの事故なんだろう? 尚希は不安に押しつぶされそうになりながら、病院へ向かった。  タクシーが病院の前に停車すると、逸る気持ちで料金を払い、飛び出るように降りて、病院へ入る。  受付で、事情を話すと、手術室へ案内された。搬送後、すぐに緊急手術に入ったとのことだった。不安を胸に尚希は手術室の前のソファーに座る。  手術……だったら大丈夫だろうか……。尚久は何人もの人を、手術で助けている。母さんも助かる、絶対に助かる、そう祈りながら一人で待った。

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