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第58話 9章 母との別れ

 尚久は医局に戻った後、私用スマホの確認をして、尚希からのメールに気付く。すぐに開くと、みるみるうちに顔色が変わる。幸い今日は定時で上がれる。すぐに着替えて院長室へ行き、蒼にその旨伝えてから病院へ向かった。  尚希の母が搬送された病院は、救急に定評のある病院だとの認識はある。向かいながら、とにかく尚希の母が無事であることを願った。  病院へ着き、受付で尋ねるとすぐに手術室へ案内される。手術室の前のソファーに尚希が俯いて座っている。全身に不安が現れている。 「尚希!」 「尚さん!」  呼ぶと、走り寄って抱きついてきた。こんなふうに抱きつくのは初めて、よほど不安だったのだろう。尚久も抱きしめてやると、案内してくれた病院職員から「ご家族ですか?」と聞かれた。 「彼が患者の息子で、私は婚約者です。患者の身内は息子の彼一人になりますし、彼は学生の身ですので、諸々の手続きは、婚約者の私がします。よろしくお願いします。あっ、私はこういう者です」  尚久は職員に名刺を差し出す。職員は尚久が医師であることに、安心感を持ったようだ。搬送後、手術に入った経緯を簡単に説明してくれた。  説明を受けて、尚久の顔は曇った。手術が長いのだ。かなりの難手術になっている。正直助かるのだろうかと思った。  不安は大きいが、この病院の医師を信じるしかない。尚久は、尚希の肩を抱き寄せ、ソファーに座る。  尚希の心が少しでも落ち着くように、背中を撫でてやる。  まだかまだかと、心はじりじりとする。尚久は、自分が落ち着かねばと、自分に言い聞かせる。  手術中の明かりが消える。二人は緊張の面持ちで立ち上がる。  医師が一人で姿を現す。尚久は嫌な予感がした。  医師が告げた事実は、尚久の予感通りだった。尚希が崩れ落ちるようにへたり込む。それを抱き上げて、手術室へ入った。 「母さんっ! うそだーっ! ああーっ」  尚希が動かぬ母に縋り付いて泣き声を上げる。尚久も涙がこみ上げ、こぼれそうになるのを、上を向いて必死に堪える。  余りにも理不尽だ! いくつだ、まだ若い、死ぬような年じゃない。  何度も会った人ではないが、最初に会った時は無表情だった人が、会うたびに笑顔を向けてくれるようになっていた。自分たちのことも、とても喜んで許してくれた。それなのに――早すぎる。  看護師から遠慮がちに遺体の移動を告げられる。尚久は尚希を抱え起こす。  ここは自分が落ち着かねばと、気持ちを奮い立たせる。  先ずは、うちの者に知らせねばと、蒼に電話をする。電話口の向こうで、蒼も絶句しているのが分かる。『直ぐに行くから』と言われ電話を切る。

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