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02 はじまり
春の穏やかな風がビル群の間を吹き抜けた。その間に一人の青年が建物の間を通り過ぎた。青年はすたすたと脇目もふらずに歩いており、硬い表情をしていた。それもそのはず。青年にとっては人生で初めての会社員生活の幕明けだからである。その青年は名を深山翡翠 と言い、今年大学を卒業したばかりの新卒社会人だ。彼は大学時代、とあることがきっかけで今の会社に勤めることを決意したのだ。
「えっと……ここ、どこだ?」
しかしそんな彼は迷っている。
地元よりも横幅が広い歩道の真ん中でポツン、と一人佇んでいた。隣の大きな道路にたくさんの車が走っている。道のほとりには銀杏の街路樹が立ち並んでおり、その景色を囲うように大きなビルがそびえたっている。そんな都会の雰囲気に圧倒されていくうちに翡翠は道に迷ってしまったのだ。
「早く向こうについて準備したかったのに……!」
翡翠は軽く自分の唇を噛んだ。初めての事をする際の、不安や緊張を焦りがしのいでいるからだ。そんな彼は出勤の前日にネットで軽く下調べをしておいた。初日で失敗して即、クビなどと言われたら門出を祝ってくれた両親に面目ない。下調べを行ううちに、『始業の30分前について準備をするとよい』と書いてあるサイトが多かった。ネットの情報をすべて信用しているわけではないが、翡翠はできるだけリスクを避けようとしていた。
一人で悩んでいても埒が明かない。少しでも現状を改善したい。翡翠は焦る心を悟られないように道端を歩く人に聞いてみることにした。偶然近くを通った犬を散歩させている中年男性に声をかけた。
「あのーすみません。『縁』って会社を探しているんですけど……」
「あぁ、それならすぐそこの建物だよ。ほら。」
そういって男性は指を差した。差した先には周りのビル群よりひと際大きいビルが建っていた。これから自分が勤める会社の大きさを知らなかったわけではないが、実物を見るとやはり威圧感があった。
「ありがとうございます。」
翡翠は礼を言った瞬間、足に何か毛のついた生き物の気配を感じた。その部分を中心にぞわっと鳥肌が立つ。下を見ると小さなチワワが必死に頭をこすりつけていた。卸したてなんだけどな、などと思っていると、男性が声を上げた。
「あ、こらチロ!お兄さんのズボンに頭をこすりつけるんじゃない!」
「いえいえ。大丈夫ですよ。では、教えてくださりありがとうございました。」
く~ん、と犬はさみしそうな顔をして翡翠を見送った。チロ、と呼ばれた犬には申し訳ないが、翡翠は急ぎ足で指を差された方に向かう。ちらりと時計を見ると、迷い始めてから十分ほど経っていた。
「やっべぇ……急がねぇと!」
具体的な時間を知ったおかげで翡翠は先ほどよりも早く現地に向かおう、という気になった。
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