4 / 6

第4話

 これまで、近しい人間を作ったことはなかった。ハンスと親しくしているのも、留学には期限があって、あと二カ月で帰国することがわかっているからだ。  日本に帰ればハンスは自分のことなど忘れてしまうだろう。多分このまま自分は、誰かと親密な関係を築くことも、誰かを愛することもないのだろう。  そう考えると、寂しい気持ちがないわけではないが、それでよかった。今度こそ、自分のために生きると決めたのだ。大切な人間なんて、作りたくなかった。       ◇◇◇  ……まずいな、この雨。  鈍色の空から、ぽつりぽつりと雨粒が降ってくる。  春から夏にかけて、ドイツでは多くの雨が降るが、春先の今は雨の日は少ない。  一年間の総まとめとなる実地での視察訓練も、天候が安定しているこの時期だから計画されたのだろう。けれど、訓練の場所が比較的高地の森の中ということもあり、予報は外れ、雨雲があたり一面を覆っていた。  スコールのような大雨になることはないが、降り続く雨は心も身体も地味にダメージを受ける。戦闘訓練ではないため、着ているのも戦闘服ではなく軍服だ。雨に濡れた場合、身体が重たくなる。  ちらりと横に視線を向ければ、ハンスが短い呼吸を繰り返している。もうこれ以上歩くのは難しいだろう。 「ハンス」  声をかけると、ゆっくりと視線をこちらに向けた。 「少し休もう。この雨の中歩いても体力が削られるだけだ」 「だけど、記録が……」 「気にしなくていいよ。時間までに戻れればベストだけど、遅くなったら遅くなったで探しに来てくれるだろうし」  そう言うと、ちょうど雨避けになりそうな木の幹へハンスを座らせた。  視察訓練は、地方にある森の中で行われ、指定されたポイントを通過して時間までに戻ってくるというものだ。二人一組のペアとなっているため、自然と櫂斗はハンスと組むことになった。  やっぱり、朝の時点で止めるべきだったのかな。朝からハンスの調子はよくなそうだったが、本人が参加を希望したため櫂斗も強く止めなかった。  訓練は午前中のうちに終わるはずだったし、荷物もそれほど多くない。少しの風邪なら大丈夫だと思ったが、認識が甘かったようだ。  一時間ほど歩いたところで、ハンスの熱はどんどん上がってきた。さらに、この雨だ。 「GPSも無線もダメになってるってのは痛いよな……腕時計のGPSも反応しないから、故障じゃないと思うんだけど。周りに他の学生がいるかもしれないから、少し見てくるよ」  着ていたジャケットを脱ぎ、座ったハンスの膝にかける。 「とりあえず、GPSと無線はハンスが持ってて」  訓練中はスマートフォンの持ち込みが禁止されているため、位置情報はGPSで、連絡は無線機を使用していた。無線機は各自に一つずつしか用意されていないし、ハンスは運悪く寮に忘れてきてしまったという。 「ごめん……俺のせいで……」  項垂れてハンスが謝った。 「だから気にしなくていいって、風邪ひいたのだって試験のために夜遅くまで頑張ってたからだろ。それより、教官に早く連絡して迎えに来てもらおう」  雨は相変わらず降り続いているが、雨足は強くはない。周辺を歩くくらいなら問題ないだろう。  時計を確認し、立ち上がろうとする。その時、隣にいるハンスから小さな笑い声が聞こえてきた。 「ハンス? どうかした?」  熱が上がって、混乱しているのだろうか。 「いや、かわいそうだな~って思って。今までずっとトップを取り続けてたのに、最後の最後で全部努力が水の泡。俺みたいな落ちこぼれの世話をしたせいで。……本当、いい気味」 「……ハンス?」 「優秀で能力も高くて、いつも涼しい顔でなんでもこなして。どうせ俺のことだって見下してたんだろ? 二人一組なんだ、俺がダメになったことでお前も今回の訓練はリタイア。あ~せいせいした」  熱が高くなっているため、気持ちが高ぶっているのだろうか。  いつも以上に饒舌なハンスに戸惑う。さらに、その内容だ。こんなふうに、ハンスは自分のことを思っていたのだろうか。 「……なーんてね」 「え?」 「今さ、カイトは驚いてはいたけど、あんまりショックは受けてなかったよね。なんかこう、どこかで『ああ、やっぱり』ってそんな顔してた」 「そんなことは、ないけど……」 「そんなことあるよ。多分カイトは、どこかで予防線を張っちゃってるんだよ。俺のことも信頼しているようで、もしかしたら裏切るんじゃないかって、そう思ってる。それで、裏切られた時にショックを受けないようにしてる。カイトの気持ちはわかるけど、ちょっと寂しかったな」 「気を悪くさせたなら、ごめん」 「カイトの元々の性格なのか、それとも過去に何があったのかは知らないけど。もうちょっと、人を信じてみてよ。カイトが信じないと、相手も信じてくれないよ。まあそれでも俺は、カイトのこと、大切な友達だと思ってるけど」  ぐったりとした様子でハンスが力なく笑う。 「ごめん、話しすぎて疲れちゃった。少し横になるね」 「ああ、少し周辺を見てきたら、すぐに戻ってくる」  頷いたハンスの横に、自分の水筒も置いていく。  容態は先ほどより落ち着いているようだが、早く暖かくして薬を飲ませてやりたい。  そう思い、立ち上がった櫂斗はゆっくりと足を踏み出した。  今回の視察訓練には広大な森が使われているが、軍の敷地は一部に過ぎない。そのため、少し歩けば他の学生が見つかるはずだと思ったのだが、残念ながら今のところ人っ子一人見当たらなかった。  幸い、長く降るかと思われた雨は歩いて十分ほど経ったところで止んだ。雨が止んだということは、出発地点まで戻った方が早いだろうか。ハンスは細身ではあるが、身長差があるため背に乗せるのは難しい。ただ、肩なら貸せるはずだ。  そこでふと、先ほどハンスから言われた言葉を思い出した。一年近く一緒にいたが、ハンスがあんなふうに考えているとは思いもしなかった。  人を信じてみて、か……。  何も知らないくせに、簡単に言ってくれると思う。でも、悪い気はしなかった。  とりあえず、ハンスを待たせている場所に戻ろう。そう思い、ゆっくりと振り返る。 「霧……?」  振り返った先にある、これまで歩いてきた道には霧がかかっていた。  慌てて前を向けば、霧はどんどん広がっているようで、先も見えなくなってしまっていた。  雨が降ったのだ。ある程度の霧は出てくるだろうが、こんなに前後が見えなくなるほど深いとは思わなかった。  まずい、とにかく戻らないと……。  闇雲に歩くのもよくないとは思ったが、ハンスのことも心配だ。ゆっくりと、木々を除けながら櫂斗は足を進める。

ともだちにシェアしよう!