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三十五 可愛い表情

 私服に着替えて清の元へと戻ると、彼は不機嫌そうにむすーっと頬を膨らませていた。その様子が可愛らしくて、思わず頬を手でつぶすように掴む。 「なにその顔」 「むぅっ。あに、すんだよっ」  清はムッとした顔でカノの手を引き剥がすと、プイとそっぽを向いてしまう。カノはその様子に、つい可愛いとからかいたくなるのを堪えて、ご機嫌取りに終始する。  店を出てからずっと、こんな調子だ。せっかくのデートなのに、これじゃつまらない。  週末の短い時間のデートは、貴重な時間だ。大抵はまだ開いている店を冷やかして、そのままホテルかカノの家に連れてく。時間は全然、足りていない。 「なんだよ。拗ねてんの?」 「そっ、そんなんじゃないし」 「ごめんて、いつも一人にしちゃって」 「……」  清がチラリと見上げてくる。 「そういう訳じゃないけど……」 「じゃ、どういうわけ? オレがモテるのが嫌?」 「それはっ……! 良いんだよ、カノくんカッコいいし。モテんのはさ」 「……」  清にこういう反応をされると、カノは微妙な気持ちになる。自分を好きだと、カッコいいと言うくせに。セックスまでするくせに。清は何故か、カノがホストであることも、女の子と喋ることも、嫉妬はするが責めたりしない。 (もっと、独占欲出してくれても良いんだけど……)  自分だけを見てくれとか、ホストなん辞めてくれとか、女の子と喋るなとか、そういうことを言ってくれても構わないのに。 「さっきの、女の人」 「ん? さっき?」  路地を歩きながら、店でのことを思い返す。 「俺、あれやったことないっ。ほっぺくっつけるヤツ!」 「ほっぺ――? ああ、女王か」  どうやら清は、カノが女王蜂に別れ際にしたチークキスが、羨ましくて拗ねていたらしい。可愛らしい嫉妬に、思わず口許が緩む。 「なんだ、チークキスが羨ましかったの? 普段もっと濃厚なキスしてるのに」 「のっ……! そ、それは、そうだけどっ」  親しそうに見えて、羨ましかったのだと、清が俯く。その表情に、複雑な感情が湧き出る。  清には、もっと特別な感情を向けているのに、ちっとも解ろうとしない。他人から、自分と清がどんな風に見えているのか、気付いてもいない。 (常連客の中には、清がオレのメンタルエースだって、知ってる子もいるのに)  さすがに肉体関係まで持っているとは思っていないだろうが、清が毎週末店に来るのを、常連客のほとんどはもう気にしていない。カノにとって必要だから、いるのだと、多くの客は解っている。 (本当は、チークキスくらいいくらでもするけどさ)  別に、減るものじゃないし、嫌なわけがないので、いくらだってやったって良い。だが、清が満足するかはわからない。  恐らくだが、清が羨んでいるのは、女王との関係性であって、行為そのものではない。それが、清には解らなくとも、カノには解る。 「やっても良いけどね」 「ホントっ?」  パッと瞳を輝かせる清に、意地悪な気持ちが湧いてくる。可愛いと思うと同時に、憎らしい気持ちになる。それが苛立ちになって、意地悪な感情になる。 「でも、清には難しいかも」 「え」  どういうことだと、清がカノの袖を掴む。 「あの人は女王様なんだよ。知ってる?」 「……聞いたことは」  どうやら、噂ぐらいは聞いたことがあるらしい。 「一晩で数百万、店に使うんだよ。特定のホストをつけない、唯一のひと。まあ、昔、一人だけお眼鏡に適ったんだけど」 「え。マジで? スゲーじゃん」 「今は女神グループっていう、クラブとかキャバとかたくさん抱えてるグループのオーナーしてるよ」 「ぱねえ!」  しかも、『ブラックバード』に在籍していたのはほんの一瞬だ。同じ萬葉町に暮らす人間同士なので、今でも多少の親交はあるが、凡庸そうに見えてなかなか優秀な人である。 「とまあ、そういう伝説みたいな人の一人だから。オレも尊敬してる人たちだし」 「あー、うん。まあ、そう言われると……」 「それにオレ、清相手じゃ女王と同じ感情にならねえよ」 「え?」  ぐい、腕を引き、抱き締めると、頬を寄せる。ふわり、柔らかい頬の感触と、石鹸の香り。 「ほっぺじゃ、我慢できねえよ。唇にキスしたい」 「っ――、そ、そのっ、……俺、もっ」  真っ赤になって、清がそう言って目を逸らす。 「じゃあ、早いとこホテル行こう。――ところで、この前あげた香水、着けてないじゃん」 「ああ、あれはセクシーな感じだし、俺には似合わないじゃん」 「……解らないだろ」  清の言うことには概ね同意したが、やってみなけりゃ解らないだろうとも思う。確かに、カノが選ぶならもっと違う香りを選ぶだろう。清には甘い香りはあまり似合わない気がする。 (いつも石鹸だしな……)  清の身体から香るのは、寮の備え付けだという石鹸の香りだ。いわゆる業務用石鹸の匂いである。あまり香水に興味がないのに、どうしてなのかと思っていたのだが、まさか使っていないとは思わなかった。 「なんだよ。インテリアにでもしてんの?」 「違うよ。枕にシュッシュと掛けて――」  言いながら、清がジワリと顔を赤くする。 (枕に香水を吹き掛けて――?)  そこから思い当たった行動に、カノはフッと笑う。 「へえ。それで? オレのこと思い出して?」 「っ! い、良いじゃんっ! 添い寝してる気分になりたかったのっ!」  週末は一緒に過ごしているのに、そんなふうにしてくれるのなんて、可愛らしい。ニヤニヤしながら清を見る。思いのほか、真っ赤だ。 「それで、安眠出来たわけ?」 「……出来なかった」  ポツリ、呟いた言葉に、思わず「あ?」と声をあげる。安眠できなかっただと? 「だっ……! って、……エッチな気分に、なっちゃって……」  最後の頃は、もう聴こえないくらい、声が小さかった。

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