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四十二 カノの本心

「お久し振りです、月郞さん」  やって来た黒いジャージ姿の男に、カノは立ち上がって頭を下げる。月郞は笑いながら、「ヤクザのお迎えじゃあるまいに、普通にせぇ」と笑った。  土産です。と恭しく手渡した紙袋を、月郞なにか言いたげな顔で見ていたが、生憎、カノはこの作法しか知らない。 「今の時間は学校じゃないんですか」 「授業の空き時間ってヤツやな。暇というわけやないが、まァ、抜け出すぐらいは出来る」  平日の昼間だ。授業中だろうかと思ったが、そうではないらしい。ヨシトが先に手回ししていたようだ。 「お前は、相変わらずか」 「そうですね。いや」  肯定しようとして、否定する。  相変わらずホスト稼業であるのは変わりない。だが、心持ちは変わった。変わってしまった。 「あん? なんや」  月郞がニヤニヤと笑う。こんな笑いをする人だったな、と漠然と思い出す。  仲間内で、一番歳上なのに、一番子供みたいだった。笑うと細い瞳が、さらに細くなる。若く見えるので同年代に見えるが、実際には十以上も歳上だ。 「最近、ホスト辞めようか悩んで」 「あァ? どうした」 「でも、オレなんかホスト以外で食えますかね」  カノの悩みを、月郞が鼻で笑う。 「オレも、ヤクザ辞めて教師になるたァ、思わなんだわ」 「……」  確かに。その通りだ。  月郞はジャージのポケットからたばこを取り出し、火をつけた。 「で、なにがどうした」  カノの変化を、月郞も感じているのだろう。煙を吐き出し、「話せ」と眼が語る。  カノは今まで、ホストを辞めようと思ったことはない。あそこはカノの居場所で、家だった。月郞が居なくなったあとも、変わらない。古参のメンバーで消えた人間も居るけれど、ヨシトやユウヤ、アキラが居なくなっても、自分はずっと、そこに居るのだと思っていた。 「普通になりたい」  ポツリ、呟いた言葉は、カノの本心だった。 『ブラックバード』を疎ましく思っている訳じゃない。けど、ホストが普通の職業でないのは知っている。昼の世界の仕事ではなく、夜の世界の仕事。普通のはずがなかった。  カノは、まともな会社で働いたことがなく、暴力と酒と、女ばかりが周りにあった。それが、カノという人間だったと思う。  月郞は「普通になりたい」というカノの言葉を、笑わなかった。背中に|昇鯉《しょうり》を背負う元ヤクザは、『普通』という言葉の重みをなによりも知っている。 「……難しい話やな」 「……はい」  たばこを揉み消し、月郞がカノを見つめる。 「でも、無理やない」 「――そう、でしょうか」 「お前が本気ならな」  話しはそれでおしまいだと言うように、月郞が手を叩いた。 「まァ、本気なら、道はある。ナァ、カノ。いや、|夏音《カノン》」 「はい」  夏音。久し振りに聞く、自分の名前は、なんだかむず痒い。この名前が、カノは嫌いだった。女の子が良かったと、母親が着けた名前。今では唯一、母から貰ったものになった。 「お前がなにをしようと、どこへ行こうと、オレらはお前の兄貴で、『ブラックバード』はお前の家や」 「……はい」  月郞の言葉に、声が詰まる。 「いつまで経ったって、夏音が末っ子なのは、変わらねェからな」  そう言って、月郞は目を細めた。 「ありがとう、ございます」 「それにしても、エェ酒や。気ぃ遣わせたなァ」 「ヨシトさんが、堤さんと一緒にって言ってました」 「アイツ、余計なことを……」  堤というのは、月郞の恋人である警察官である。『ブラックバード』も何度かトラブルで警察の厄介になったことがあり、カノも面識があった。 「で、お前はこの後は? 店に行くのか?」 「いえ、今日は休みで」 「ほんなら、授業終わったら飲みにでも行くか? この辺り、時間潰す場所もあらんのやけど――」 「あ――すみません、月郞さん」 「あん?」 「……この後、人と逢うので……」  気まずそうにそう言ったカノに、月郞は大きく肩を竦めた。 「なんや。残念やなぁ」 「すみません」  こうなることを予想できたはずなのに、それをしなかった自分に驚く。カノの中で既に、なにが優先になっているのか、あらためて思い知る。 「まァ、なんや。あんまり思い詰めても、仕方ないで。お前はあんまり欲しいもんを主張せんかったけど、ユウヤくらい図々しい方が、上手く行くこともある」 「……はい」  月郞が立ち上がる。もう時間らしい。カノも立ち上がった。  別れ際、月郞はカノに「今度紹介せぇよ」と、笑って肩を叩いた。

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