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第6話 お礼と脅迫

 仕事用スマホにもLINEが届いた。 〈先日助けていただいたお礼をさせてください。今日の夕方お会いできますか?〉  例の女子高生からだった。日にちを変えて欲しい旨伝えると、 〈今日がいいです〉 〈そこを何とか。今日はどうしても無理なんです〉  と乞い願う龍平に返って来たのは、 〈柏家音丸師匠は同性愛者だとSNSで公表してもいいですか?〉  ただの脅迫だった。  お礼と脅迫とでは天と地ほども違う。    腹立たしさを堪えて、 〈本日お会いします。ご指定の時間に下記の店で待っていてください〉  と返した。そして少々苛つきながら、 〈ちなみに師匠と呼んでいい落語家は真打だけです。柏家音丸はまだ二つ目なので師匠と呼ぶのは逆に失礼に当たります〉  と付け加えた。  音丸に、今夜は残業につき合鍵で勝手に部屋に入っていてくれと返信したのは断腸の思いであった。  自分で出迎えてドアを開けるなり抱き着いて思い切りキスしてやりたかったのに。  定時退社して指定の場所で女子高生と再会する。  香乃子がお礼と差し出したのは歌舞伎座の招待券二枚組だった。〝森伊蔵〟を傍らに置いた喫茶店のソファで龍平はそれを押し戴いた。  今度二人で出かけよう。  今夜帰れば音丸が待っている。  そう心弾むあまりに発想がお花畑の龍平だが、女子高生は聞いたものだった。 「男同士のセックスってどうやるんですか?」 「…………」  とりあえず場所を都心にある談話室瀧川に指定した自分の判断を褒め称えたい。  広々とした空間にボックス席が離れてある喫茶店である。他の客に会話が聞こえる心配はない。  黙ってブラックコーヒーを啜る龍平である。  香乃子は手元のカフェラテを見つめて言った。 「男と女のセックスって、ただ痛いだけです」  コーヒーカップを持ったまま対面の女の子を見る。 「痛かった?」  と尋ねると、こくんと頷いた。 「それで生理が来ないんです」  Oh my God!!  初音製薬では妊娠検査薬も売っている。産婦人科向けピルから避妊具まで取り扱っている。と言いかけて思い留まる。これはそういう話ではないな。  芦田香乃子の初体験は高校の音楽教師だったそうである。他の生徒とその教師がセックスしているところを見たので、自分もと迫ったらしい。 「君、脅迫するのが好きだね」 「脅迫?」 「こないだ学校で目撃したセックスでしょう。それをばらすぞって教師を脅したわけだ?」 「そんな……そういうんじゃなく。先生が好きで……でもまさか、いきなりあんな風に……」 「どんな風に?」 「音楽教務室で。昼休みに……」 「へえ。セントテレジア女学館ってそういう教師がいるんだ?」 「せ、先生は情熱的なの。ピアニストだし……ちょっと強引? かも知れないけど。私はすごく痛くて……」 「男同士でも優しくない奴は痛くする……らしいよ。単に聞いた話だけど」  何を言っているのだ自分は。焦ってコーヒーをがぶ飲みする。 「じゃあ先生は……優しくなかったの?」  と尋ねる女子高生である。 「いや。僕に訊かれても。君は優しくないと思って嫌になったわけ?」 「わかんない……初めてだし。でも、先生は私が好きだから……でなきゃ出来ないでしょう? あんなこと」 「好きじゃなくても出来るよ。あれは一種のスポーツみたいなものだから」 「中園さんて全然ロマンチックじゃない……」  言われてみれば案外自分はロマンチストではないと納得する龍平である。落語家よりも、よほど現実的なサラリーマンである。 「どっちにしても、脅迫されてやる側は優しくしてる余裕はないだろうな」 「だから脅迫じゃないってば! だってキスとか……もっとして欲しかっただけだもん!」  言い張って香乃子は唇を噛みしめている。目に涙を浮かべてはいるが、まだ泣き出してはいない。  泣いてくれるなと思いつつ龍平は残り少ないコーヒーをちまちま啜る。 「中園さんは柏家音丸さんとキスするんでしょう?」  人物を特定して訊かないでくれ。 「ノーコメント」 「じゃあ、女の人とはセックスしないんですか?」 「ノーコメント」 「私とは?」  女子高生の発言は龍平には意味不明である。  さっさと帰りたい。音丸がアパートで待っているはずなのだ。 「というか」  と最後の一滴までコーヒーを飲み干すと、かちゃりと音をたててカップをソーサーに置いた。 「生理が来ないならお母さんに相談して病院に行くべきだね」 「お母さんは私に興味ないから」  否定はしなかった。でなければこんな見知らぬ男に打ち明けているはずもない。 「じゃあ。妊娠検査薬を買って確かめるのが先決かな。このビルの一階にドラッグストアがあるよ」 「一緒に買いに行ってください」 「何で僕が?」 「だって……一人じゃ恥ずかしいし」 「いや。あのね。それって普通セックスした相手と買いに行く物でしょう」 「だって……」 「頼めないような相手としたのは君の責任だと思う」 「……中園さんて意外と冷たい」  恨めしそうな顔で見る香乃子。  そこにソプラノの明るい声をかけられた。 「あら、龍平さん。こんな所でお珍しい」 「あっ、百合絵(ゆりえ)さん」  思わず立ち上がった龍平は、 「久しぶりですね」  などと言いながらハグしてしまう。  特に驚くこともなく抱き返す菅谷百合絵は堂々とした押し出しのマダムに見える。  だが実は単なるOLで柏家音丸のコアなファンなのだ。  独自に立ち上げたファンサイトが公認となり、今や殆ど音丸のマネージャー的存在になっている。 「百合絵さん、こちら芦田香乃子さん。セントテレジア女学館高等部の二年生。この前、初めて音丸さんの落語を聞いたんですよ」  言われて女子高生はきちんと立ち上がってお辞儀をする。さすがにお嬢様学校の生徒だけはある。 「芦田さん、こちらは音丸さんのファンサイトを運営している菅谷百合絵(すがやゆりえ)さんです」  龍平から離れた百合絵は柔らかく微笑んで、 「初めまして、芦田香乃子さん。よろしかったら音丸サイトを覗いてみてくださいね」  と常に持ち歩いている音丸ファンサイトのアドレスカードを香乃子に差し出すのだった。  香乃子は黙ってそれを受け取っている。  龍平も百合絵も帰国子女だから挨拶のハグには慣れている。  けれどとっさに抱き締めてしてしまったのは、香乃子に見せつけたかったからである。うまくすれば百合絵が龍平の恋人だと思い込んでくれるかも知れない。  そうすれば音丸や自分の同性愛者疑惑(真実ではあるのだが)も解消できる。我ながら小賢しい行動ではある。百合絵が動じない性格でよかった。  ちなみに百合絵は音丸と同年の二十九才である。そして龍平は二十四才。十代の香乃子が思う程、自分は大人ではないと思ったりする。  百合絵が立ち去ってから、 「僕たち外人さん相手の落語会で通訳をしてるんだ」  とアドレスカードを弄んでいる香乃子に説明した。 「僕はアメリカから、百合絵さんはイギリスからの帰国子女なんだよ。米語と英語はかなり違うけど、逆にいろんな国のお客さんがいるから便利で……」 「……妊娠検査薬」  言いかけた言葉を遮られて、思わずため息をつく。  この件は百合絵に任せればよかったと今更思いつく。  女子高生の相手は元女子高生に限る。などと後悔しつつ談話室瀧川を出て二人でビルの一階に降りる。  夜のオフィス街でそこだけがやたらに明るいドラッグストアの前で龍平は香乃子の背中を押した。香乃子は恨みがましく龍平を睨んだまま店内に入って行った。  もし傍からこの様子を見ている者が居れば、妊娠させた女子高生に一人で妊娠検査薬を買いに行かせるサラリーマンと見えるだろうな。  と思いつくやダッシュで逃げ出したくなった。やはり百合絵について来てもらえばよかった。  今回の帰路は同じ地下鉄の駅だった。退勤のサラリーマンやOLで混雑する駅の中、改札口を入るなり香乃子は、 「待ってて」  とトイレに駆け込んで行った。  えっ! 今、検査するつもりか?  人混みに流されないように隅に佇みながら龍平はあの時、音丸が口出しするなと言ったのはとても正しかったと心の底から思うのだった。  女子トイレから出て来た香乃子は強張った顔をしていた。  思わず肩に手をかけそうになって辛うじて思い留まった。 「どうだった?」 「生理が始まった」 「…………」  掌で顔を覆った。あの時殴られた鼻柱は完治しており触っても痛くない。ごしごしこすってため息をついた。 「帰ろう」  龍平は香乃子の肩を軽く押した。しばらくそのまま歩を進めて、香乃子は手から逃れるためだろう足取りを早めた。  龍平は気づかないふりで手を外した。  ワンルームアパートに帰り着いた龍平はドアの前でポケットからキーホルダーを出しかけた手を止めた。  ドアノブを回してみると鍵は掛かっていなかった。途端に笑みが浮かんでしまう。  ドアを開けると室内には明りが点いていた。  玄関の隅には黒いスニーカーがきちんと並べてある。  玄関先には風呂敷を敷いて大きなザックやスーツケースが置いてある。キャスターで地面を引いて来た荷物で床を汚さないためである(龍平は音丸と知り合うまで〝風呂敷(ふろしき)〟という布の存在すら知らなかった)。  いろいろと杜撰なくせに、こういう細かい事に気が回るのは前座修行の賜物らしい。  期待満々で室内に目をやって笑みはたちまち消えた。  音丸は座卓の奥、ベッドの下の床に長い身体を横たえて手枕で眠っていた。  龍平が部屋に上がってその姿を見回るように歩いても深い寝息は乱れることもない。おそろしく眠りが深い男なのだ。一度寝入れば少々のことでは目を覚まさない。  座卓の上には旅先の土産だろう〝世界の山ちゃん〟だの〝南部せんべい〟だのが散らかっている。  グラスが二つ並んでいるのは、やはり土産の芋焼酎を二人で吞むつもりだったのが、一人で先に始めて結局寝入ってしまったらしい。  ため息をついてベッドから掛布団を取ると音丸の身体に掛けた。頭の下に枕を差し入れる。傍らに座ってしみじみと寝顔を眺める。そしてそっと唇にキスをした。  音丸は虫に刺されたとばかりに顔の前で邪険に手を振る。もちろん眠ったままである。 「俺は蚊か?」  言った途端に思い出した。 〝森伊蔵〟を談話室瀧川に忘れて来た。  龍平はまた長い長い溜息をついた。

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