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第7話 痛みいろいろ

 3 痛みいろいろ  家に帰る電車の中でお馴染みの生理痛がやって来た。  じくじくと下腹が痛み始めている。やがて身体を折り曲げて耐えるばかりの激痛に変わるだろう。その前に家に着いて鎮痛剤を飲みたい。  ドラッグストアで買うべきは妊娠検査薬ではなく鎮痛剤であるべきだった。今更思っても遅いけれど。  いや遅いのは、あの音楽教師に対する思いである。変えるにはあまりに遅すぎた。  音楽教務室でのセックスを目撃して以来、安土音也の姿を見かけなくなっていた。 「休職するらしい」「何か不祥事があったみたいよ」「違うよ。ヨーロッパに留学するんだって」などと様々な噂が囁かれていた。  そしてとある昼休み、香乃子は一人で音楽教務室を訪れたのだ。  陸上部の朝練で安土音也が校門から入って来るのを見たからである。二人組で準備運動をしていた菱木忍が「安土スケベ」と小声で囁いた。  いつの間にか音楽教師のあだ名は〝安土スケベ〟になっていたらしい。 「こんな早くに来るなんて。やっぱり休職の挨拶に来たのかな?」  などと言っている部員もいた。  四時間目の授業が終わるなり教室を飛び出して、音楽教務室を覗いた。  あの腰高窓のガラスからまた何やら猥褻な景色が見えるのではないかと固唾を呑んだが、ただ一人音楽教師が机に向かって書き物をしているだけだった。あの女生徒が腰を下ろして喘いでいた机で。  ノックして室内に入った香乃子は、何故か頬が変な具合に歪んでいた。笑顔というには奇妙なにやにや笑いを浮かべていたに違いない。  そして言ったものだった。 「先生、こないだここで変なことしてましたよね。お昼休みに生徒と二人っきりで……」  音楽教師が書類を広げたスチール机を指差しさえした。  安土音也はペンを置いて書類を片付けながら、 「見たんだ?」  と尋ねた。ごく平静な言い方だった。  香乃子はこくりと頷いた。その時もにやにやしていたように思う。  またキスをして欲しいと思っていたのは事実だし、何ならあの生徒のようなことをしてもいいと思っていた。  だから教師が立ち上がって扉の鍵を掛けるのを黙って見ていた。  安土音也は席に戻りながら香乃子の腰に手をかけた。これまでの肩に触れたり、鼻の頭を突いたり、そして軽いキスをした時のような優しい触れ方ではなかった。  強引に腰を掴んで香乃子の身体を机に向けると、自分はその背後に立った。 「君もやって欲しい?」  と片手を香乃子の胴に回して、もう一方の手はスカートの上から太腿を撫で回していた。 「え?」と驚きの声が出たのは、想像とは全く違う触れ方だったからである。  ひどく強引で猥雑な手は、たちまちスカートの中に侵入して股間に差し込まれる。  電車内の痴漢でも紳士的に思えるような動きだった。  それでも香乃子は教師の手を拒まなかった。あんな女生徒より自分こそ先に先生とセックスすべき立場なのだと一人で奇妙なマウントをとっていた。  正直に言えば好奇心もあった。兄や父が言うには〝今時の女子高生で処女なんかいない〟そうである。自分は遅れているとの焦りもあった。  憧れの音楽教師が相手なら拒む必要などないはずなのだ。  けれど、初めてのセックスは想像とはあまりにも違っていた。  香乃子の背後に立っていた安土音也は唐突にスカートを捲り上げ、強引に下着をずり下ろしたのだ。 「えっ? やっ……!」  声というより悲鳴に近かった。  構わず男は香乃子の股の間に手を差し込んで来る。男の手は香乃子自身もタンポンを(陸上部員だから仕方なく使っている)入れる時ぐらいしか触ったことのない部分を強引にまさぐっている。  困惑のあまり、しまいには声も出なくなっていた。金魚のようにぱくぱくと口を動かすばかりである。  乱暴に机にうつ伏せに押し付けられ、教諭が背後から股間に何かを押し付けて来る。  めりめりと裂けるような疼痛が走り、明らかにタンポンより大き過ぎるものが押し入って来る。 「えええ⁉」という驚愕の声は痛みに飲み込まれた。  胴を押さえつけられたままひどく揺すられる。  机の角が腹や腰骨に当たる。  打ち身や痣が出来んばかりの打撃である。  身体の内も外も痛むばかりである。  ちゃりちゃりと一定のリズムで変な音がする。外したベルトのバックルが机に当たって鳴っているらしい。  あの時は窓から見えなかったが、おそらく男性教諭はベルトを緩めてズボンも下着も半分ずらした滑稽な姿で腰を振っているのだろう。  安土教諭は薄気味悪い息を吐いては香乃子の身体を揺すっていた。 「何でそんな口が軽いかな。女子高生なんて奴は……」  と何度も繰り返しながら、 「ふつう言わないだろう? 恥ずかしくないのか? セントテレジア女学館のお嬢様がこんなことして……人に言うことじゃないのに……」  はあはあと野卑な息の合間にそう呪文のように呟く男性教諭である。  香乃子はいつどうやって音楽教員室を後にしたのか覚えていない。  ただひたすらに、これは愛なのだ、情熱なのだと自分に言い聞かせていた。  下着をずり上げ、たくし上げられたスカートを直している間も、じんじん痛むあそこから何かがぬるりと流れ出る不快感があった。  けれど全てが熱烈なる愛の証なのだと必死に思い込もうとしていた。  なのに中園龍平はそれをあっさり否定した。  愛がなくともセックスなど出来る。  スポーツに等しい行為って……あれは、香乃子が陸上競技をするようなものなのか?  揚句の果てにあのサラリーマンは言ったものである。 「どっちにしても、脅迫されてやる側は優しくしてる余裕はないだろうな」  香乃子は脅迫などしなかった。  けれど安土音也はそう受け取ったのか。  考えても見れば、安土音也はキスさえしなかった。香乃子の下半身にしか触れなかった。  有体に言えば性器に性器を出し入れしただけなのだ。  あの女生徒にはブラウスの下をまさぐったり舌を絡め合っていたくせに。  と、この期に及んで思ったりする。自分は一体何を考えているのか?  あれ以降また音楽教師は学校に姿を見せなくなっていた。やがて全校集会で、 「音楽の安土音也先生は一身上の都合で退職しました」 と告げられた。  代わりにやって来た太った女教師が挨拶をするのを呆然と眺める香乃子であった。  LINE交換もしていたが安土音也からは一切の音信がなくなった。香乃子自身ももう連絡をする気になれなかった。 「三年生を妊娠させたんだって」 「大物政治家の孫娘よ」 「うそ、メガバンクの取締役だって」 「親が怒って乗り込んで」 「学校に巨額の寄付をしてたのに」 「産むらしいよ」 「クリスチャンだから」 等等々、どれが本当でどれが嘘かはわからない。  ただわかるのは二度と音楽教師に会えないということだった。  そして生理が一向に訪れない。  まさか妊娠?  どうすればいいのか?  そうなった時に何故か香乃子の脳裏に浮かんだのが、あの天然パーマの美青年だった。  これまでに香乃子が会ったことのない種類の男性である中園龍平。  音楽教師が「こっち」と嘲笑する種類の人間。だからこそ話してしまいたかった。  まして行きずりの他人なのだ。秘密を打ち明けても一向に構わない。そんな気がした。  あの青年ならこの際何をどう言うのだろうか。  よもやあんな率直極まりない意見を言われるとは思わなかったけれど。  家に戻って部屋に入るなり箪笥の一番上の引き出しを開けた。生理用品と共に初音製薬の鎮痛剤が入っている。  錠剤を取り出して口に放り込む。ついでに買ったまま開封しなかった妊娠検査薬を隠すように奥に入れて引き出しを閉めた。  生理痛は既に下腹をずきずきと攻撃していた。呼応するように頭の芯まで痛む。  制服をジャージのパジャマに着替えるなりベッドに寝転がった。 「香乃子さん。手紙が来てたわよ」  母が階段を上がって来た。  玄関からまっすぐ部屋に上がってしまったが、台所から料理の音がしていたのは母だったらしい。今日は祖父の家ではなくこちらに泊まるのか。 「下に入れといて」  ベッドに寝転がったまま言った。母はドアの下から封筒を差し入れて、 「明日、学校の帰りにおじいちゃんちに寄ってね。三琳デパートが着物を持って来るから。岡山で着る振袖が仕立て上がったそうよ」  それを言うために帰って来たのか。  月に何度かデパートの外商が祖父の家にやって来る。反物やら宝飾品やらを持参して店開きするのだ。  香乃子はまるで興味がないから見に行かないが、母は勝手に娘の着物を頼んでいたらしい。香乃子は返事の代わりに唸り声を出しただけだった。  母がドアの隙間から差し入れた封筒を思い出したのは翌朝だった。エアメールだったが開封することもなく机の上に置いて、そして忘れた。  幼い頃は祖父や叔父が海外出張のたびに珍しい絵葉書をエアメールで送ってくれた。  今も従兄弟が海外で働いているからこの郵便もその類かと思ったのである。  よく考えれば今は海外からの連絡もスマートフォンである。  エアメールなど久しぶりだと気がついたのは、ずいぶんと後になってからだった。

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