8 / 30

第8話 痛みいろいろ

 健やかに生理が終われば、いつになく熱心に陸上部の朝練に出かける香乃子である。  自分で弁当を詰めるが、もうちくわの磯部揚げは入れない。田端さんの唐揚げやシュウマイで充分である。  菱木忍はストレッチをしながら、 「スケベ之助、ヨーロッパ遠征に行くらしいよ。有名なピアノカルテットに参加したから行けるんだって」  などと情報を告げる。 〝安土スケベ〟はいつの間にか〝スケベ之助〟に進化しているのだった。  やがて中間テストの時期になり、何も考えたくない香乃子はいつになく熱心に試験勉強に励んだ。お陰でこれまでで最高の成績を修めた。 「これでもう大学進学には何の心配もないな。陸上部の活動も頑張ってるからスポーツ奨学生にもなれるぞ。もっともお宅はラポール・ファミリオ・グループだから、その必要はないだろうがね」  などと進路相談で初老の担任教師に太鼓判を押される。  秋も深まり陸上部ではハーフマラソンの練習を始めていた。毎日のように走り込んで身体を鍛え上げている香乃子は、部活もそれなりに楽しいと思い始めている。  練習が終われば空腹も極まっているから、菱木忍ら部員達とコンビニパンやおにぎりなど買い食いして帰る。 「ジューシーハムサンドが一番おいしいと思う」  と言って菱木忍は毎日同じ物を食べている。  香乃子は一切れ分けてもらって食べたけれど「ふうん?」と言っただけだった。  田端さんのサンドイッチの方が美味しい気がする。  地下鉄を乗り継いで自宅の最寄り駅に着く頃にはすっかり夜になっている。  駅から家に向かって歩いていると、向こうから来た男に声をかけられた。 「芦田さん?」  その声だけで香乃子は足が止まって動かなくなった。  スケベ之助いや安土音也だった。    サラリーマンと見るには難のある派手なスーツを着て、片手には学校でも見かけたブリーフケースを下げている。 「偶然だね」  と男は香乃子に近づいて来る。  ただの元教師である。今更もう会う必要のない男である。  自分に言い聞かせるが、心臓はにわかに鼓動を早めている。以前の嬉しくも楽しいどきどきとは異なる不穏極まりないばくばくである。  とうとう香乃子に近づいて男は肩に手をかけた。 「今、真垣宗太郎さんに会って来たんだよ」 「…………」  香乃子はきょときょと目であたりを見回すばかりである。  同じ電車で帰って来た人々が、住宅地目指して足早に通り過ぎて行く。  安土音也が路上で不埒な行為に及ぶ心配はない。わかっているのに蛇に見込まれた蛙のように硬直して動けない。 「何で早く言わないかなあ。どうでもいいことは言いふらすくせに」 「言、言う……何を?」 「君、ラポール・ファミリオ・グループの真垣宗太郎会長の孫なんだって?」 「そ、何で? 別に……」  これまでになくおどおどしている香乃子の様子に気づかばこそ、安土音也は上機嫌で話している。  斯界ではそれなりに注目されているピアノカルテットに入り、国内公演の後、来年にはヨーロッパ公演に出かけるという。  それを主催しているのがラポール・ファミリオ・グループらしい。  そんなことよりも、香乃子が知りたいのは女生徒を妊娠させた噂は真実なのかということだが、もちろん強張った口は動かなかった。 「何で僕なんかが会長に呼ばれるのかと思ったら。お孫さんが僕の大学の後輩で。会いたいと言ってくれたらしくて……あれ? 芦田聖都くんて君の……」 「兄です」 「ああ、やっぱりそうなのか。君はもう。大事なことを何も言わないんだから」  にわかに親し気にぽんぽんと肩を叩くスケベ之助である。  香乃子には自分が真垣宗太郎の孫娘であることが、それほど重要とは思えない。  それで硬直の呪縛が解けたようだった。香乃子は殊更に丁寧に会釈をすると、 「早く帰らないと叱られるから……」  などと大ウソをついて(誰も香乃子の不在を気にしない家である)その場を駆け出した。  つい先ほどまでハーフマラソンの練習をしていた脚である。安土スケベがあっけにとられている間に、その場を離れた。  長い塀が続く道をひた走る。塀の内側には竹林に囲まれた祖父の家がある。制服のスカートがばさばさ鳴るのが鬱陶しい。けれど足取りは緩めなかった。  ラポール・ファミリオ・グループ会長の豪邸を通り過ぎて、ちまちました建売住宅の並ぶ街に入れば香乃子の家に着く。  玄関を入ると台所から両親がぼそぼそ話す声が聞こえていた。今日は金曜日だから母が帰っている。週末は自宅泊まりが多いのだ。  祖父に「週末ぐらい家に帰りなさい」とでも命じられたのだろう。  木曜日がノー残業デーで、金曜日から土日は自宅に帰る日?  美味しそうな香りが漂って来るのは田端さんのビーフシチューが夕食のようだった。 「ただいま」と声だけかけて、走って来た勢いのまま二階の自室に駆け上がった。 「香乃子さん。もっと静かに歩きなさいな」  と母の声が追いかけて来た。  机に鞄を投げ出しながら見回した部屋は何かが違っている。  何が違うのかわからないまま制服を部屋着に着替えていると、母がやって来た。 「香乃子さん」とノックもせずにドアを開けると、 「香乃子さん。それは、何なの?」  とドレッサーの上を示すのだった。  そこには未開封の妊娠検査薬があった。  箪笥の小引き出しの生理用品や鎮痛剤などの奥に隠すようにして入れておいたのに、何故外に出ているのか。  訳がわからず母親とドレッサーの上とを見比べる香乃子である。 「そういう物を使うような、ふしだらな真似でもしたの?」 【ふしだら・名詞・形動詞 けじめがなくだらしないこと。品行が悪いこと。男女関係のけじめに関しだらしないさま】  香乃子はすっかり挙動不審である。  つい先ほどスケベ之助の前でしたように目をきょときょとさせてしまう。  あの男に会わなければ「保健体育の授業で貰ったサンプル」とか何とか適当に誤魔化せたものを。  何かに導かれるかのように香乃子は全てを告白していた。  セントテレジア女学館高校の音楽教務室で憧れの音楽教師と何をしたか。  やがて生理が来ない事に怯えて、妊娠検査薬を買ってしまったことを。  この際、中園龍平については一言も触れなかった。後になってみれば心のどこかで最後の砦と認識していたのかも知れない。  母親は話が進むにつれ、顔に汚物を塗りたくられたような歪んだ表情になって行った。 「情けない……高校生なのに。先生を誘惑してそんなふしだらな真似を……」 「ゆ、誘惑なんて……そんな」 「信じられない。香乃子さんがそんな娘だったなんて……お母さん、本当に情けないわ」 と嘆いた揚句、 「タンポンなんか使っているから」  と意味不明なことまで言い出す。 「タンポンは……だって、長距離とか走ってるとナプキンはずれちゃうから。顧問の先生がタンポンにするようにって……みんなに使い方も教えてくれて……」 「嫁入り前の娘に何を教えてるの⁉ 顧問の先生だってどうせ男なんでしょう。どういう関係なの?」 「か、関係って……顧問の先生は女だよ?」 「タンポンを勧めるなんていやらしい。大体、陸上なんて女の子がやる部活じゃないでしょう」 「えっ? でも陸上にはちゃんと女子部があるし……」 「どうして香乃子はお兄ちゃんみたいにピアノとか文科系の部活に入らないの?」 「だ、だって、顧問の先生やみんなが……成績のいい選手が転校しちゃって部員が足りないって……辞めさせてくれないし」 「毎日走り回って脚は太くなるし、真っ黒に日焼けして……恥ずかしい。三琳デパートの振袖だって色が黒いから全然映えなかったじゃない」  三琳デパートの外商が持って来たのは鮮やかな紅色の振袖だった。  女性社員は香乃子の肌は健康的だから赤や黄色などメリハリのある色がとても似あうと言っていたが、単なるお世辞だったらしい。 「別に振袖とか欲しくないし……」  ぼやいた途端に母は険のある目つきで香乃子を睨みつけた。その視線を受け止めて、 「だって、何で私の引き出しを勝手に見るの?」  ようやく出来たまともな反論である。 「親が子供の持ち物を見るのは当たり前でしょう」  母は言葉通り当然至極な顔で言うと踵を返した。  部屋を出て行こうとした足をふと止めてドレッサーの上にある妊娠検査薬を鷲掴みにすると、 「お兄ちゃんの言うとおりね。今時の高校生に処女なんていなかったのね」  言い捨てるなりゴミ箱に投げ捨てて、今度こそ出て行った。  

ともだちにシェアしよう!