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第9話 痛みいろいろ
足音がみしみしと階下に遠ざかって行く。
香乃子はもう何をするのも億劫になり、部屋のドアに鍵をかけて(初めてかも知れない)ベッドにもぐり込んだ。
けれど眠れはしなかった。よりにもよって何故自分は母親に話してしまったのか。性に関することなど一人の心にしまっておくべきだ。少なくとも性交渉ができる程度の大人なら親を煩わせ悲しませるものではない。
そう思いつつ香乃子は何かがどこかで間違っているような気がしてならなかった。心にしっくり寄り添わない。謎にもやもやする不快感は何なのだ。
「生理が来ないならお母さんに相談して病院に行くべきだね」
と言ったのは中園龍平だった。
「お母さんは私に興味ないから」
そう答えたのは自分である。
あの美青年はそれに対して異を唱えなかった。
「いいや。君が気がつかないだけで、母親というのはいつも子供のことを考えてるものだよ」
などと諭されると思っていたのに。
そうして確かに香乃子の母親は娘のことを考えていたのだろう。箪笥の引き出しをこっそり探る程度には。
布団の中で輾転反側してから、鞄の中に入れっぱなしだったスマートフォンを取り出してまたベッドにもぐり込んだ。
そして中園龍平に電話をかけた。香乃子が知っているのは仕事用の番号だったから、
「はい。初音製薬営業本部の中園です。ただいま電話に出ることができません。ご用件のある方は発信音の後に……」
という留守番電話の応答が聞こえるだけだった。
留守電に伝言を吹き込む気にはなれなかった。かといって何故かLINEでは間に合わない気がした。
直接話してまたあの辛辣な(と香乃子には思える)意見を聞きたい。もやもやして眠れないこの気持ちをすっきりさせる何かしらのヒントをくれるに違いない。
そう期待して、何度も何度もリダイヤルした。そうしているうちに窓の外は白んでいた。小鳥のさえずりが聞こえる頃、ようやく香乃子は眠りに落ちたのだった。
翌朝、目が覚めたのは階下で人の気配がしたからだった。食器が触れ合う朝食の音に父母がぼそぼそ話す声が聞こえる。
さぞや香乃子のはしたなくもふしだらな行為について糾弾しあっているのだろう。
いらいらとスマホを見れば中園龍平からLINEメッセージが届いていた。
〈昨日は電話に出られず申し訳ありませんでした。本日午後より下記の場所で柏家音丸出演の〝英語de落語会〟があります。ご都合がよろしければぜひおいでください。〉
落語など聞きたくなかった。けれど家の中にはもっと居たくない。
そのまま二度寝して香乃子は昼過ぎまでベッドに籠った。そっと二階から伺えば家の中には誰もいなくなっていた。これ幸いと一人で家を出た。
地下鉄を乗り継いで、案内された初めての駅で降りる。
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