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第10話 脅迫は成り立たない

4 脅迫は成り立たない  龍平が指定した場所は、ただの大規模マンションだった。落語会というのでホールを想像していたのだが、何棟も建ち並ぶマンションの管理棟にある集会室だった。  入り口の看板に〝第七回 英語de落語会〟と印刷されたA4用紙が貼られている。手作り感満載である。  そして一台の会議テーブルを前にして、華やかな振袖姿の女性が座っていた。 「いらっしゃいませ。龍平さんのお友だちの方ですね。芦田香乃子さんでしたわね」 「え? はい」 「談話室瀧川でお会いしたでしょう。音丸ファンサイトの管理人、菅谷百合絵です」 「ああ……」  龍平とハグしていた女性である。 「どうぞ。お入りください。ちょうど始まるところですわ」  財布を出したが、龍平の招待客だからと無料で室内に誘われる。  集会室の正面には緋毛氈を掛けた高座があり紫色の座布団が一枚置かれている。  それに向かって並べられたパイプ椅子には白人、黒人、黄色人種と様々な客が座っていた。実にダイバーシティな落語会である。  香乃子は後ろの方のパイプ椅子に遠慮がちに座った。  先日の国立演芸場に比べると随分と素人臭い運営である。  落語家の登場の前に、羽織袴の龍平と振袖の百合絵が登場するところからして学芸会じみている。  だが龍平の英語はまるでDJであるかのように堂に入っていた。 「Hi! everybody Let,s begin 英語de落語show!」  と落語会の開始を告げれば、百合絵が遅れて日本語で解説する。 「英語de落語会、通訳のリリー&リューです。では落語家、柏家音丸の登場です」 「Call him Otto!」  龍平の煽る声で客席は「オットー!」「オットー!」と拳を振り上げている。  落ち込んでいる身に、このノリはつらい。落語というのはジジババ向けのもっと落ち着いた娯楽ではなかったのか。  来なければよかった……。  そんな香乃子の感情を体現したかのように思い切り仏頂面をした柏家音丸が現れた。  扉の前にあるパーテーションからの登場である。  龍平に近づくとやにわに腕を掴んで拳を下ろさせた。 「what is it?」  龍平が大袈裟に音丸を見上げる。  観客はわっと爆笑し、ここまでがお約束の挨拶らしかった。  打って変わって音丸は、 「英語de落語会においでいただき、ありがとうございます」  と丁寧に頭を下げる。  銀鼠色の長着に墨色の羽織。落ち着いた色合いの着物である。会場が狭いせいか和服に焚き込まれた香の雅な香りがほのかに漂って来る。  頭を上げてゆったりと会場を見渡す目は一重瞼である。まるで名人の人形師が一息で描いたかのような鋭い切れ長の瞳だった。  これがあのチンピラに足蹴りを加えていた黒服の男かと、香乃子は目を疑う思いだった。  本日の落語について音丸が日本語で解説する後から龍平が英語通訳をしている。見事に息が合っているからどちらの言語でも聞き取りやすい。時々、百合絵も日本語と英語の両方で質問を挟む。  それが終わると一旦三人ともパーテーションの陰に退席した。  そして、ようやく落語会らしく出囃子が鳴り、音丸一人が高座に上がるのだった。  日本語で落語が始められて香乃子はようやく人心地ついた。パイプ椅子にだらしなく座り、音丸の低い声を聞いているうちに瞼が重くなって来る。  耳に入るのは言葉というより、心地よく安らぎを覚える音声だった。周囲の客が笑っているのも、さわさわと押し寄せる波の音のようである。  やがて香乃子は熟睡していた。 「芦田さん。芦田香乃子さん」  と身体を揺すられて目が覚めた。  振り袖の菅谷百合絵が香乃子の肩を叩いている。  がたがたと聞こえるのは、パイプ椅子やパーテーションを片付ける音だった。  落語会は終わっていた。 「大丈夫ですか? ロビーのソファでもう少し休んで行かれますか?」 「あ……いえ、大丈夫です」  頭が痺れるような眠気に囚われながら香乃子はパイプ椅子に縋って立ち上がった。 「すみません。すっかり寝ちゃって……」  昨夜はずっとベッドに入っていたが、殆ど眠っていなかった。 「音丸さんの落語で眠るのは至福でしょう」  百合絵はロビーに香乃子を案内しながら自慢そうににっこり笑う。 「あの方の声にはエフ分の一の揺らぎがあるそうですわ。リラックス効果があるんですって」 「そうなんですか」  羽織袴から洋服に着替えた龍平がやって来た。キャスターケースを引いているのは着物が入っているのだろう。  明るい色のトレーナーにスタジャンを重ねデニムを履いた姿はまるで高校生のようだった。   スーツ姿しか見たことのない香乃子には目新しい。 「じゃあ、行こうか」  龍平は以前したように背中にそっと手をかけて促す。香乃子は立ち尽くしたまま龍平を眺めた。 「お茶して行こう。昨日何度も電話くれたでしょう。ごめんね、出られなくて。この会の打ち合わせをしてたんだ」 「お茶……」  阿呆のようにオウム返しをする。あまりに深く眠ったので頭がまだ起きていないようだった。 「龍平さん、打ち上げは行かれないんですの?」  と百合絵。 「ごめん。言っといて」  龍平はぺこりと頭を下げると、また香乃子の背を押した。 「あの。打ち上げがあるなら、私、別にいいです。帰ります」  龍平はひどく可笑しそうに笑った。 「いや。あれだけ着信履歴があって、よくはないでしょう。何か話あったんじゃないの?」 「話……」  またオウム返しである。  目の前のガラス扉に香乃子と龍平の姿が映っている。その背後には黒服の男が映っている。  まっすぐ立ってこちらを見ているのは柏家音丸である。思わず振り向いた香乃子に音丸は、にっこり笑って会釈をした。やや能面に近い笑顔ではあった。  龍平は背後を振り向くこともなく、 「行こ行こ行こ。はい。どうぞ」  とガラス扉を開けて香乃子に先に出るよう促す。  大規模マンションの中に走る石畳の道を歩きながら、香乃子は自宅近くで安土音也に再会したことを話した。 「へえ。君のおじいさんが興行会社の会長で、あの教師のコンサートを主催してる会社なんだ? しかもお兄さんの大学の先輩か」  と要領よくまとめた上で、 「嫌な偶然だね」  と感想を述べる龍平である。  香乃子は思わずこくこく頷いてしまう。と同時に龍平がわざわざ香乃子に会うために時間を割いてくれたことに驚いている。  確かに何度も電話はしたが、偶然知り合った女子高生のためにここまでする義理はないだろう。今回は特に脅迫もしていないのに。  広いマンションの敷地をようやく抜けて、駅に向かうところである。香乃子は立ち止まって今来た道を示した。 「あの……やっぱり打ち上げに行ってください。柏家さんも待ってたみたいだし」 「いいの、いいの。お腹空いたし。ファミレスで何か食べて行かない?」 「そんなに気を使ってくれなくても。私もうお二人が同性愛者とか言いふらしませんから」  あえて固有名詞を省いて話す香乃子の顔を龍平は愉快そうに見やった。 「いや。もうその脅迫は成り立たないよ」 「え、成り立たないって?」 「こっちにもネタはあるから」 「ネタ?」 「SNSで拡散できる。セントテレジア女学館高等部二年生の生徒が音楽教師と昼休みに校内で初エッチをした。その生徒の名前は……」  香乃子は全身に冷水を浴びせかけられた気分だった。  自分は一体誰に何を話したのだろう。と今更蒼白になっていると、その顔色に気づいた龍平が、 「うそうそうそ。誰にも言わない。ごめん。冗談だから」  慌てて両手を合わせて謝った。  けれど瞬間的に爆発していた。 「そんなの全然冗談にならない!!」  金切り声を上げた。目から涙が迸り全身がぶるぶる震えている。 「中園さんがそんなこと言う人だと思わなかった! 中園さんだけは、違うと思って、だから、だから……」  香乃子はぽろぽろ涙を流しながら吠えるように言っていた。 「中園さんだって男なんだ! どうせ男なんか! 男なんかね! 人の身体を勝手に……自分がいい気分になるための道具だと思って! 何してもいいと思って!」  震える身体の脇で両手を握り締めて直立不動で喚いている。けれど頭の片隅で本当に怒鳴りつけたいのはこの男ではないと知っていた。 「ごめん。悪かった。泣かないで」  龍平は手拭いを差し出した。  香乃子は怒りのあまり息が荒くなっている。ただ、ふーふーと怒気を吐いて龍平を睨み付けている。  龍平は困り顔で身を寄せると、耳元で囁いた。 「いいよ。マジで打ち明ける。僕はゲイだよ。君の目は正しかった」  香乃子は横にいる龍平を睨んだ。そして手拭いをひったくって顔を拭いた。 「君は僕の秘密を守ってくれるね?」  と念を押す龍平に香乃子はもう一度手拭いで顔を拭いてから、こくりと頷いて見せた。 「OK。僕も君の秘密は守る。拡散なんかしないよ。これでお相子」  龍平はにっこりと頷いた。

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