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第11話 脅迫は成り立たない

「おまえは何を女の子を泣かせているんだ」  エフ分の一の揺らぎがある声だった。  音丸がのっそりと龍平の背後に立っている。その横には振袖の百合絵や会場を片付けていた数人の男女がいた。 「何で今来るんだ! 帰れよ。こっちの話だ」  途端に龍平は顔色を変えて音丸を怒鳴りつけた。音丸はほんの一瞬言葉に詰まり、傷ついたような顔をする。無表情のようで意外に感情がわかりやすい落語家である。 「これが何か失礼なことをしましたか?」  音丸は龍平の頭越しに香乃子を見た。  何故だかそれがとてつもなく可笑しく思えて、香乃子は笑い出した。くすくす笑っていたのが勢いを増して、げらげら大笑いになっっている。完全に感情機能が壊れている。  思わず龍平の身体をばんばん叩いて、 「大丈夫です。私が聞いたのは中園さんの秘密だけです。音丸さんのことは聞いてません」 「言ってない! 柏家音丸については何も言ってない!」  龍平は完全に取り乱していた。 「私が何か?」  と見下ろす音丸を龍平は叩かんばかりに両手で突いた。 「いいから、行けってば! 打ち上げだろ!」  龍平と音丸の間に入ったのは百合絵だった。 「とりあえず二人にしてあげた方がよろしいんじゃありませんこと?」  古風な話し方をするファンサイト管理人は音丸の腕を掴んで先に歩き出した。  香乃子が笑って龍平が怒って、音丸と百合絵はこちらを見ながら会場係の人々と共に駅に向かって立ち去った。  その後、香乃子と龍平はファミリーレストランに行った。龍平がすっかり元気をなくしているので香乃子は、 「大丈夫。私が訊いたのは中園さんの秘密だけです。それに誰にも言わないし」  励ますつもりで繰り返したが、龍平を更にうな垂れさせただけだった。  夕べから何も食べていなかった香乃子はにわかに空腹を覚え、カツカレーなどという男子高校生のような食物を摂取するのだった。龍平はぼそぼそとサンドイッチを摘んでいる。  一度涙を流してしまうと、屈託はかなり薄まっていた。一晩寝床で悶々としていた憂鬱さの色はかなり薄くなっている。わざわざ龍平に母親のことなど話す気にはなれなかった。  夕べリダイヤルを繰り返していた時には、香乃子の中で中園龍平はスーパーマンと化していた。心の中の葛藤をたちまちのうちに解きほぐしてくれると思い込んでいた。  けれど今すっかりしおれている様子を見れば、この男性もただの悩み多き人間なのだとわかる。  今更自分の捉えどころのない悩みを打ち明けてどうする。  というか、母親に関する屈託は自分で解決すべき問題だという気がして来たのだ。  結局のところその日は、むしろ香乃子が龍平を励ます形で話を聞き出していた。ただひどくナーバスになっているようなので、柏家音丸については触れなかった。 〝英語de落語会〟が日本の伝統芸能を知りたいという在日外国人の要望に応えて龍平や百合絵の主導で始まった音丸の勉強会であることや、龍平が高校卒業までをアメリカで過ごしたこと、そして帰国して日本の大学に入ったが、当時の先輩が近々結婚するので披露宴の演し物に悩んでいる等々。 「披露宴で中園さんも落語をやれば?」  との香乃子の発言はまた龍平をうなだれさせたのだった。  当分は落語や音丸については話題にしない方がよさそうである。  家に帰ると玄関からまっすぐ自室に入り鍵を掛けた。もう子供ではないのだから、これからは在室時にはきちんと部屋に鍵をかけようと思うのだった。  そして改めて室内に変わったことがないか、じろじろ見まわしているうちに気がついた。  机の上のトレイに学校のプリントやチラシなどが重ねてある。その中に未開封のエアメールがあった。  三琳デパートで買った京友禅の振袖はもうとっくに和室の箪笥にしまったのに、それ以前に届いた封書をまだ開封していなかった。  封筒には、見たことのない国の切手が貼ってある。封書の〝Madagasikara〟という文字に〝マダガスカル〟と思いついた。  夏休み前に転校して行ったクラスメイトである。父親がマダガスカルに転勤になったため家族で引っ越して行ったのだ。  同じ陸上部のスター選手だったから、辞められて香乃子が退部しにくくなった原因でもある。 「マダガスカルってどこ?」 「オーストラリアあたりでしょ」 「それはタスマニア。タスマニアデビルのいる島」 「マダガスカルはアフリカ大陸の横にある島だよ」  などというクラスメイトのお喋りを聞きながら香乃子も検索したものである。  高校生が親の転勤についてアフリカの隣の島なんぞに行かなくてもいいのに。下宿して一人暮らしを始めるなり、父親が単身赴任するなり、転校しない方法はあるのにと皆口々に言っていた。  本人もそう言われて、 「だって面白いじゃん。アフリカ大陸の隣なんてめったに住めないよ」  と答えていた。 「でも、アフリカの隣で原始的な生活しなくても……」  というクラスメイトの認識と香乃子も大差なかったのだが、きちんとエアメールが届く文明国だったらしい(マダガスカル人に申し訳ない)。  そして、転校して行った彼女はなかなか変わった娘だったらしいとまた再認識するのだった。  封筒に入っていたのは、別れにクラス全員で寄せ書きした色紙や記念品に対するお礼や、新しい場所での生活について書かれた手紙だった。  何も香乃子一人にお礼を寄越さなくとも、クラス宛に送ればいいのにと思いながら読み進むと、 〈芦田さんとはいつかお話してみたいと思っていました。 父の転勤が急に決まって引っ越してしまったのがとても残念です。クラスも部活も同じだったのに。 もっと早く話しかけていればよかったと後悔しています。〉  などと書いてある。  香乃子にはよくわからない。ならばさっさと話しかければいいではないか。マダガスカルなんて遠くに離れてから手紙なんかで告白されても仕方がない。  そう思う自分はきっと情緒に欠ける女子高生なのだろう。  ふしだらではしたなく親に恥をかかせるだけの娘。だから母親は兄が下宿している祖父の家からめったに帰らなのだろう。

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