12 / 30
第12話 脅迫は成り立たない
キスしたかっただけとは言わない。他にもいろいろしたいではないか。
中園龍平は健全なる二十四才男子なのだ。
久しぶりに音丸が旅の仕事から帰って来たのに、あの女子高生のお陰で寝顔を拝んだだけだった。こっそりキスしたけれど、蚊の扱いを受けただけだし。
翌朝、龍平がベッドで目を覚ますと音丸の姿はどこにもなかった。昨夜ベッドの下に音丸の寝姿を見たのは夢か幻かとうろたえた。よく見れば玄関先の荷物も消えている。
そして座卓の土産物を開いた包装紙の裏に、走り書きが残っていた。
〈始発で奥多摩に行く。仕事だ〉
って、それだけかよ!?
そんなのは百合絵がファンサイトにアップしているスケジュール表を見ればすぐわかる。午前中に奥多摩の寺で落語会をやるのだろう。
だからってこんなに早く黙って帰ることはないだろう。
何なら龍平を叩き起こして、やるべきことをやってから出立すればいいものを。
そもそも音丸の住んでいるアパートはとてつもなく古いのだ。風呂なしで、玄関トイレ台所共同の木造建築に六畳一間が何部屋も並ぶ。世界遺産になろうかという(ならない)昭和初期の建物である。
どこかの部屋で男女の営みがあれば各部屋が万遍なく揺れ、住人達の顰蹙を買う。男同士でも大差ない。従って音丸が龍平のワンルームアパートに来るのは、つまりそういうことなのに。
一人で芋焼酎を呑んで眠って出て行く奴があるか!
龍平は欲求不満をこじらせたまま仕事に出かけたわけである。
だが〝英語de落語会〟がある。
この会では打ち上げ終了後に別々に帰ったふりで龍平の部屋で落ち合うのが常だった。
芦田香乃子を誘ったのも昼間はその話し相手になって、夜には部屋に音丸を迎えて楽しもうと思ったからである。
だがその思惑を実行するには香乃子との会話が微妙に過ぎた。
香乃子に自分がゲイだとカミングアウトすることは、つまり音丸もそうだと明かしたも同然なのに。
何故あの時気づかなかったのか。我ながらぞっとする。
国立演芸場近くのカフェで散々香乃子に煙幕を張って音丸を庇ったつもりがこの体たらく。
香乃子と別れてアパートに帰っても、音丸と枕を交す(念のために言えばセックスである。頭の下に枕を入れることではない)気にはなれなかったのだ。
「これから行く」と電話を寄越した音丸に、龍平は言ったものだった。
「悪いけど今日は来ないで」
「え、何で?」
しばし黙り込んでから、龍平は突っかかるように言っていた。
「音丸さんね。ああいうタイミングで女子高生に声をかけるのやめて欲しい」
「どういうタイミング?」
「僕は、これでもわりと柏家音丸の評判に気を配ってるんだよ。台無しじゃないか」
「だから、台無しって何なんだ?」
「いいから。今日はもう会いたくない」
つれなく電話を切ってしまった。何とも言えない憤懣に捕われていた。
そもそも(こればっかりだ)音丸に魅入られて積極的に近づいたのは龍平からである。
好かれたくてひたすら音丸の機嫌をとっていた。こんな風にろくな説明もなしに自分の感情ばかりをぶつけたのは初めてだった。
実は自分の迂闊さに対する苛立ちを、八つ当たりで解消したに過ぎない。そう気づくのは後日だが、その夜は心も千々乱れてベッドの中で眠れずにいた。
こんな風に冷たく断ってしまえば、プライドの高い音丸はもう二度と近づいて来ないかもし知れない。
いや、そんなはずはないだろう。向こうだってこちらが気に入っているからこそ、半年近くもつきあいが続いて来たのだ。
そんなこんなで布団にくるまり悶々としているうちに、あまり人には言えない行為に耽っているのだった。ならば音丸を呼べばよかったのにとも思うのだが、それとこれとはまた別なのだ。龍平は一人で欲求不満を解消したのだった。
そして翌朝、謝罪のLINEを送った。
〈ごめんね〉の言葉に既読がつくことはなかった。
ああ、やっぱりとうとう嫌われてしまった……いや、音丸はまめにLINEを見る習慣がないだけだ。などとまた思い悩んでいるうちに、再び音丸は旅の仕事である。
落語家の仕事は高座に一人座って話すことだが、その高座はどこにでもある。日本全国津々浦々お呼びがかかればどこへでも出かけるのだ。
しかも仕事は入った順番に受けるから、旅の順路は滅茶苦茶である。
前回の旅仕事のお土産が名古屋の手羽先、熊本の芋焼酎、青森の南部せんべいなのがそのいい証拠である。
それに比べれば今回は、岡山、高松、松山、広島と方角が固まっているだけ楽なのかも知れない。
実は龍平もその方面に旅行の予定がある。うまくすれば旅先で音丸の楽屋を訪ねることが出来るかも知れない。
顔を見て謝ればきっと許してくれるだろう。仲直りできるに違いない。
そう儚い望みをつないでいた。
ともだちにシェアしよう!