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第13話 秋の旅

  5 秋の旅  十一月一日。秋晴れの朝。香乃子の一家は岡山に向かった。曾祖父の出身地、岡山で開催されるラポール・ファミリオ・グループの創業祭に出席するのである。  東京駅まで車を運転したのは兄だった。兄は大学祭に重なったそうでこちらに留まる。実は去年も受験勉強があるからと一人で残ったのだ。  祖父の家に下宿していれば手伝いの人が大勢いるから暮らすに困ることはない。それでも母は駅で車を降りる際「本当に一人で大丈夫?」と案じて、まるで今生の別れであるかのようだった。  母がにわかに陽気になったのは、東京駅で仙台に嫁いだ姉一家と落ち合ってからだった。新幹線に乗り込むなりおしゃべりが始まり岡山駅に着くまでそれが止む間もなかった。 「カンコちゃん!」  と幼少時のあだ名で呼びかけるのは伯母の子供達、従姉妹のエリとマリである。 〝かのこ〟という発音が幼い舌にはむずかしかったのか〝カンコ〟と呼ばれるようになっていた。  今やエリは大学一年生、マリは高校二年生だから〝かのこ〟の発音に難はないが呼び名は変わらないのだった。二人は兄や香乃子と同じ年である。久しぶりに会ったから、こちらも女子ではしゃいでいる。  ただ一人の男、父は缶ビールを呑みながら窓際で通り過ぎる富士山を眺めているのだった(伯父は仕事のために欠席だった。香乃子の父は関連会社だから来ないわけにはいかないのだ)。  岡山駅前でタクシーを待つ間、大きな楽器ケースを担いでマイクロバスに乗り込む楽団員らしき人々を見た。 「あれキリエ・カルテットじゃない? 大ホールの予定に入ってないのに」 「小ホールでもコンサートをやるんだよ」  とエリ、マリは創業祭の公演予定表を検索しては盛り上がっている。  正直、香乃子はもう創業祭には飽いていた。従姉妹とは他に会う機会もあるし。来年には兄のように受験勉強を口実に欠席したいとも思っていた。  岡山での定宿は老舗ホテル本館のスイートルームだった。最上階の全室を真垣宗太郎の一族が借り切って、各家庭に別れて泊まるのだった。  だが、今年に限ってスイートの空きが足りないとのことだった。大安吉日と何やらの学会が重なって、ホテルは満員らしいのだ。 そこで芦田一家には本館のツインルームとアネックスのシングルルームとが割り振られた。 「真垣の姓じゃないから、この扱いよ。ひどいと思わない?」  恨みがましく言う母親である。確かに仙台に嫁いだ伯母やエリ、マリ姉妹もアネックスの部屋だった。  本館のツインルームには母と香乃子が、アネックスのシングルルームには父が泊まると言われたが香乃子は首を横に振った。母と二人で一室に泊まりたくはない。 「アネックスに泊まってみたい」  と言ったところが、たちまち母の柳眉がつり上がった。 「女の子が一人でなんて危ないでしょう」  というわけである。  それでなくとも昔から格式高く古色蒼然とした本館は少しばかり怖かったのだ。  エリやマリを含めた子供たちを集めて、このホテルで起きた心霊現象を吹き込んでくれたのは他ならぬ父だった。  その記憶があるのかどうか知れないが、 「まあ、いいじゃないか。香乃子ももう大きいんだし」   という父の許しを得て、初めてホテルのシングルルームに一人で泊まることになる。  とりあえず荷物をフロントに預けてホテルの美容室で持参した振袖を着付けてもらう。  丹後縮緬の生地に燃え立つような緋色の京友禅は裾に金銀の菊の花が描かれている。 「お顔立ちがくっきり映えて可愛らしいですわ。健康的なお肌が逆に若さを引き立てて」  とショートカットの髪をそれなりに整えながら美容師が褒め称える。  鏡に映った我が姿をそう見下げたものでもないと珍しく見直す香乃子である。  そのままホテルのバンケットルームの記念パーティーに赴き、立食パーティーが昼食代わりである。  午後はタクシーでシンフォニーホールに移動して、記念コンサートの鑑賞だった。エリ、マリ姉妹が検索したように小ホールでも催し物が行われていたが、一族は大ホールに席が用意されていた。   叔父がしきりに自慢していたのは、今回の出演者は大御所ではなく将来有望な若手や新人を集めたということだった。  振袖の帯はふくら雀に結ばれていた。席に着いても帯を潰すのが心配で背もたれに寄りかかれない。早朝からの移動で疲れた後にパーティーであれこれ食べたのだ。後は眠るばかりのコンディションだった。  とろとろと瞼が落ちかけたところに、この上もなく心地よい声音が聞こえて来た。  目を上げると金屏風の前に黒紋付の柏家音丸が居た。緋毛氈を敷いた高座に座り静かに話している。  今回の出し物には落語も含まれていたらしい。にわかに目をこすって高座に注目する香乃子である。  実のところ音丸の落語をまともに聞くのは初めてだった。  国立演芸場では安土スケベと女生徒の猥褻行為が頭を占めており、落語など聞く余裕もなかった。 〝英語de落語会〟では始まるなり寝落ちしていた。あの時はマイクなしの地声を聞いていたから、エフ分の一の揺らぎがある声は眠気に直に働きかけたに違いない。  今回は三階席まである大ホールでマイクを通した声である。香乃子は落語家の姿を凝視していた。  音丸は切れ長の瞳で右を見たり左を見たりして人物を演じ分けている。落語のこの所作を〝上下(かみしも)()る〟と呼ぶらしい。  女性を演じる時は嫋やかに小首を傾げ、男性を演じる時には長い腕を自在に動かし、様々な登場人物になり切っている。  するすると吸い込まれるように耳に噺が入って来る。  江戸時代なのだろうか。  長屋住まいの男がうたた寝をしていたのを女房に起こされて夢を見ていたと決めつけられる。  その夢の話を聞かせて欲しいと乞われるが、男は夢など見ていないから話せない。  それで喧嘩になって……というバカバカしい噺である。  音丸は特に大袈裟な声を出すでなく、身振りを大きくするでなく、なのに奇妙な可笑しさを醸し出している。香乃子はついくすくす声を出して笑っているのだった。  音丸の噺が終わると、今度は妙に強面でガタイのいい男が出て来た。やはり黒紋付で羽織袴の姿だが、まるで暴力団の盃事に参列しているかのようである。めくり(名札)には〝音羽亭弦蔵〟とある。  その押し出しとは裏腹に、囁くような声で始まった落語は次第に力強い語りになって行く。  親と子の情愛を描いた落語だった。  時に軽い笑いを誘われるがラストには、会場中からすすり泣きの声が聞こえた。  香乃子も膝の小さなハンドバッグからレースのハンカチを取り出して目に当てるのだった。  何ということだろう。落語とはこういうものだったのか。  龍平が柏家音丸を自慢にするのも当然である。  三度目にしてやっとその正体を知った。気がつけば背中でふくら雀が椅子に押し付けられて潰れていた。  コンサートが終わってまたホテルに戻り本館の和食レストランで早目の夕食をとった。  大人達は残って酒宴とのことだが、未成年者の香乃子やエリ、マリだけがアネックスに向かうことになる。 「荷物は先に部屋に入れてくれたそうだ。何かあったら電話するんだぞ」  と父に恭しくカードキーを渡されて香乃子は少しばかり緊張して受け取ったものである。  一旦本館を出て庭園脇の小道を伝ってアネックスの入り口に辿り着く。こちらは宿泊客だけがカードキーで出入りできる裏口である。そこから正面玄関に回るとエレベーターが二機並んでいる。  そしてエレベーターに乗って行き先階のボタンを押す。三人で乗った小箱が上昇を始めると香乃子はついに大冒険を果たした気分になっていた。 「本館と別館て大通りに並んで建ってるのに」 「こんな裏道があるなんて知らなかったよね」  とエリやマリもわくわくした表情である。  香乃子は先に十二階で降りた。従姉妹たちは「すぐ来てね」と言いながら十五階の部屋に昇って行った。  これから女子会である。部屋にホテル特製のスイーツやコーヒーを取り寄せる手配をしたのは大学生のエリである。  本来アネックスではルームサービスをしないそうだが、そこは祖父、真垣宗太郎の名前が役に立ったらしい。

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