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第14話 秋の旅
エスカレーターを降りた途端に、
「あれ。芦田さんもここに泊ってるんだ?」
隣で下りエスカレーターを待っていた男に声をかけられた。
スケベ……いや、安土音也である。
香乃子が呆然として何も言わないうちに、
「何号室?」
安土音也は、さも紳士がエスコートするかのように香乃子の腕を取るや、カードキーを奪い取った。あまりに自然な動作に香乃子はあっけにとられるばかりである。
「こっちの部屋だね」
とカードキーに印字された部屋番号を見て先に立って廊下を歩く。
香乃子が歩きながら呆然と覗き込んでいるのは、建物の中央にある吹き抜けである。
二十階建ての建物の一階から最上階まで長方形の空洞が突き抜けている。その周囲は腰高の唐草模様の手摺りが囲んでいる。
廊下は手摺り回りをぐるりと囲み、三方の壁には部屋のドアが並んでいる。残りの一方の壁が二機のエスカレーターがあるホールである。
つまりどの部屋でもドアを開ければこの階全ての部屋のドアが見渡せる造りになっている。もちろんエスカレーターも例外ではない。
香乃子が何故か安土スケベに先導されて部屋のドアに着いた時、もう一機のエスカレーターの扉が開いて、二人の男が降りて来た。
一人は上下ともに黒い服を着た背の高い男。柏家音丸だった。
ザックを背負ってスーツケースを二つ引いている。一つはアルミニウムの汎用品だが、もう一つはルイ・ヴィトンの物だった。
音丸に続いて降りて来たのは、がっしり体型の音羽亭弦蔵 である。ハンチングを被りスタジアムジャンパーを着ている。
吹き抜けを挟んで向かい側にある部屋の扉を開けた中年落語家の背中には、金糸銀糸で昇り龍の刺繍が施してあるのが見て取れた。
「ヤクザ?」と囁き声が聞こえたのは安土スケベだった。声が吹き抜けに響いている。思わずその身体を引っ叩きたくなる。
幸いにも向こう側には聞こえなかったらしく、音丸は年長の落語家にルイ・ヴィトンのスーツケースを渡すと二つ先の部屋に行き扉を開けていた。
安土スケベはといえば、
「ほら、ここが芦田さんの部屋だね。僕の部屋の並びじゃないか」
我が部屋のようにカードキーをタッチして扉を開けている。
このまま部屋に入り込まれたらどうしようと廊下でおろおろしているところに、バッグの中で携帯電話が鳴った。
エリとマリからだった。
「カンコちゃん。十階に製氷機や飲み物の自動販売機があるんだって。こっちに来る時に寄って氷とか持って来てくれない?」
「わかった! 十階で氷や飲み物を取って来ればいいんだね!」
香乃子は殊更に大声で答えて電話を切った。やはりこの廊下は大声を出すと吹き抜けに声が響くようである。
勝手にドアを開けて室内を眺めていた安土スケベが「友だち?」と尋ねるのに「おじいちゃん」と答えてみた。
「おじいちゃん……て?」
スケベ之助はにわかに表情を改めて部屋から出て来た。
そして淑女が部屋に入るのを助けるかのようにドアを支える。
「……真垣宗太郎さん?」
「そうだけど。私と従姉妹たちに飲み物をご馳走してくれるって」
香乃子は平然と頷いてみせた。
ラポール・ファミリオ・グループ会長のご馳走が自販機の飲み物というのも随分と安直だが、安土スケベは信じたらしい。
香乃子は部屋に入ってドアを閉めるなり鍵もチェーンも掛けた。覗き穴からスケベ之助が立ち去るのを見つめながら、真垣宗太郎の名前の霊験あらたかなことに驚嘆する。
もちろん龍平は音丸のスケジュールは把握していた。
十一月一日と二日は岡山のシンフォニーホールに音羽亭弦蔵師匠と共に出演、三日には四国は松山に渡って独演会である。
百合絵が管理するファンサイトはうっかりすれば音丸自身のスケジュール帳よりも正確である。
龍平は十一月一日に岡山で結婚式の披露宴に招待されていた。
新幹線で岡山に乗り込んで、大学時代の先輩の結婚を祝う。
その後で時間があればシンフォニーホールに駆けつけるつもりだったが、時間などなかった。
久しぶりに顔を合わせた学友たちが同窓会の様相を呈して、披露宴の後は二次会、三次会と夜になるまで宴は続いた。
ちなみに披露宴の余興はヲタ芸だった。先輩が推すアイドルの曲に合わせてサイリウムを振り回し十数名の男どもが踊るのだ。
招待された大学の仲間とファン仲間とが力を合わせたのだ。
何日も前からレンタルスタジオを借りて特訓を重ねた。お陰で龍平は音丸に関していつまでも思い煩わずに済んだ。
幸いにもヲタ芸は好評を博して二次会でも三次会でも披露する羽目になった。サイリウムは十時間発光の物を用意したから、宴がお開きになってホテルに戻ってもまだポケットの中で光っていた。
式場のあるホテルのアネックスに大学の仲間と六人で泊まる予定だった。
フロントで代表者がチェックインしているのを待つ間、未だにヲタ芸の真似事をする仲間につられてついステップを踏んだ龍平は、玄関を見て破顔一笑してしまった。
夜の色を纏ったかのような黒服で明るい玄関に現れた背の高い男は柏家音丸だった。
手ぶらなのは既に荷物は部屋に入れ、夕食にでも出ていたのか。
「音丸さん!」
思わず駆け寄ってしまう。
音丸はその場に棒立ちになっている。
「シンフォニーホールで仕事だったんでしょう。今夜はここに泊るの? 僕はみんなと泊まるんだ」
まるで飼い主に再会した子犬である。尻に尻尾が付いていたら力一杯ぶんぶん振っていたに違いない。
代わりに振っているのはオレンジ色のサイリウムである。
「何だそれは?」
「ヲタ芸!」
ちらりと背後に仲間達を振り返りながら言うと、音丸は礼服の集団に気づいたらしく「結婚式か」と頷きながら龍平を見つめている。
今日は踊りに支障がないように、くるくる天然パーマもジェルで固めて撫でつけてある。ダークスーツに真珠色のネクタイは仲間と揃いの衣装だが、自分の肌に映えると気づいていた。
そんな普段と違う装いに音丸がすっかり目を奪われているようで内心ガッツポーズをとる。
「大学の先輩が結婚したんだ。ねえねえねえ。音丸さんはどこの部屋に泊まるの?」
音丸はまだ驚いているのか無表情でポケットからカードキーを出して見せた。珍しく部屋番号が刻印されたタイプのカードキーである。
龍平は身を寄せて音丸の手元を覗き込むと番号を頭に刻み込む。
「後で行っていい?」
と言いかけたところに背後から、たおやかな声がかかった。
「あら、音丸さん。まあ、龍平さんまでいらしてたのね」
振り袖姿の菅谷百合絵である。
「あっ、百合絵さん。また落語遠征?」
上機嫌でつい百合絵と腕を組んでしまう。本当は音丸とそうしたかったのだが公衆の面前だから控えたのだ。
その音丸は、ようやく驚きから脱したのか、
「いつもありがとうございます。百合絵さん」
と百合絵に向かって丁寧に頭を下げている。
「ラポール・ファミリオ・グループの創業祭に落語が入るのは初めてなんですってね」
「らしいですね。オペラとフラメンコの間に一席やったのは初めてです」
「珍しい体験でしたわね。でも〝天狗さばき〟楽しかったですわ」
「百合絵さんも今夜はこちらにお泊りですか?」
「ええ。明日も音丸さんの落語を聞いてから帰りますわ。じゃあ、夕食に参りますので。ごめんあそばせ」
華族のご令嬢のような挨拶をして百合絵は玄関から出て行った。
龍平は仲間達に呼ばれて、
「後で音丸さんの部屋に行くね」
と囁くと音丸と別れた。
まだ光っているサイリウムをズボンのポケットに突っ込んで、六人の仲間とエレベーターに乗った。
新郎である先輩が用意してくれたのは、ツインルーム二部屋である。六人なのでエキストベッドを入れて一部屋に三人ずつ泊まることになる。
龍平は最初からエキストラベッドを希望した。
今となっては後悔しているが、龍平は大学入学時にゲイだと自己紹介してしまったのだ。
アメリカにいた時は普通にカミングアウトしていたから同じノリで言ったのだが、なかなか微妙な問題だったらしい。
もちろん誰も表立って差別などしなかった。まして大学を卒業した今となってはわざわざ口にする者もいない。けれど異性愛者たちが同性愛者を怖れる空気は伝わって来る。
在学中にゼミ合宿で察したのだ。同性愛者と並んで寝れば襲われるかも知れない。おちおち眠ってはいられない。
どうもそう怖れているらしい。
いや、待ってくれ。
自分は単に同性愛者であって強姦魔ではないのだ。
などとわざわざ言うのも変である。
そこで今回も自らツインベッドの片方ではなく、エキストラベッドを選択したのだ。
だが、いざ六階のツインルームに入れば、また六人が集まって宴会である。引き出物に入っていた大手まんじゅうや仕入れて来た魚肉ソーやポテチなどを肴に酒を吞む。
既に大分アルコールが回っているから、部屋割りも何もなく床で眠り始める者までいる。
その騒ぎをこれ幸いと龍平は部屋を抜け出した。
吹き抜けを囲む唐草模様の手摺りを掴んで、スキップせんばかりにエレベーターホールに向かう。
音丸の部屋は十二階である。
エレベーター内の鏡に写してネクタイをきちんと結び直す。
音丸はその際に相手のネクタイを外すのが大好きなのだ。下着を脱がせるような性的興奮を覚えるらしい。変態か?
鼻歌まじりに少しばかり乱れた髪も手櫛で整えて十二階で降りる。
大いに浮かれて音丸の部屋のドアチャイムを鳴らしたのだが、予想外の夜が待っていた。
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