15 / 30

第15話 秋の旅

「音丸さん。来ちゃった」  チャイムを鳴らして言うと、静まり返った室内からドアの鍵を外す音がする。細く開いたドアの隙間から見える室内は暗かった。  しまった。もう寝ていたのに起こしてしまったか?  明日もまた仕事なのだから、早々に眠るつもりだったのかも知れない。  なのに寝付いたところを叩き起こして。また嫌われるのではないか?  ほんの一瞬でまるで怒涛のように激しい後悔が押し寄せる。けれどここでめげるわけにはいかない。 「ねえねえねえ。音丸さんてば。開けてよ」  あえて明るい声で甘えてみる。  音丸にはこの「ねえねえねえ」に抗えないシステムが導入されているのだ。交際も半年たてばそれぐらいは心得ている。  効果覿面。  にわかに広げられたドアの隙間から身を滑り込ませて、 「僕の部屋、三人部屋なんだよ。もう狭くてさ」  と音丸に抱き着いてしまう。  背後でかちゃりとドアが閉まった音がする。  廊下の照明が届かない暗い室内。  やっと音丸と二人きりである。  誰憚ることなく黒いジャケットの中に顔を埋めて、くんくん匂いを嗅いでしまう。  常ならば音丸の身体に染みついた香りに大いに和む龍平である。着物に入れている匂い袋の香りがベースなのだ。  伽羅の香りが音丸の体臭と入り混じって、得も言われぬ癒し系の香りになっているのだが。  今夜は思わず顔を見上げてしまう。 「音丸さんの匂いじゃない……」  と身を離した。  ムスク系の香水らしきものが漂っている。 「何か臭い。……香水つけてる?」  見上げられて音丸は彫像のように固まっている。そもそも龍平の身体に手を掛けてもいない。  手を握ればカードキーを持ったままである。 「キャバ、キャバクラの、店の女が……師匠のお供で呑みに……」  言ってる間にそれを取って壁のカードホルダーに差し込む。照明と連動しているカードキーである。  にわかに室内が光に満ちた。  音丸は目をしばたたく。  微妙な違和感を覚えるが、疑問より色欲が先である。  大きな手で胸に頭を抱き寄せられる。  いつものように天然パーマをわしゃわしゃしようとしている。  いや今日はジェルで髪を固めたからそれは出来まい。などと一人ほくそ笑んでいると、手は肩から背中やがて尻まで愛撫する。 「やん……そこ感じる」  本音ではあるが、ちょっと色気を盛っている。  効果覿面パート2。  たちまち音丸は龍平の唇に口づけをする。 「ふぅん」などと甘い吐息が出てしまう。久しぶりの濃厚なるキスである。ああ、もう……くらくらする。  しみじみと音丸の唇を吸い舌を舐り合う。頬が熱くなり、息も荒くなる。堪え切れずに音丸の身体に両手を回して全身を擦りつけてしまう。  途端に部屋のチャイムが鳴った。 「おーい、音丸。帰ってるのか?」  男の声である。ぎょっとして身を離す。  音丸は、いきなりドアを開けてしまった。  泡を食って龍平は音丸の背中に貼り付いた。相手の視界からは完全に姿が隠れているはずだ。  室内に入って来たのは音羽亭弦蔵師匠だった。ハンチングを被り、昇り龍の刺繍が付いたスタジャンを着ている姿は、あまりカタギには見えない。今回の落語会では主役であり、音丸は開口一番のはずだった。  だが夜の夜中に何だって音丸の部屋にづかづかと入って来るのか?  弦蔵師匠はがっちり体型の短躯な中年男である。一般的にゲイに好まれるタイプなのだ。  もしや音丸とこの師匠は……⁉  と邪推したがそうではなかった。  あろうことか音丸は誤って師匠の部屋に入っていたのだ。部屋の奥にちらりと見えたルイ・ヴィトンのスーツケースが音丸らしくないと感じてはいたが。  師匠と二人で呑みに出かける際に、カードキーを預けられたらしい。 「ほらあ。エレベーターの前で。俺が財布を探してる間、音丸にカードキーを渡したじゃないかぁ」 「あ……そ、そうでしたっけ?」  音丸はデニムのポケットを探ってカードキーを取り出した。    壁のカードホルダーに入っているキーと手の中のそれを見比べている。 「ほらあ。そっちが音丸のだよ。おまえ、キーを二枚持ってたんだよ。まんま呑みに行っちまってよお。今戻ってきてどこ探してもキーがねえと思ったら……」 「す、いや……師匠、すみませんでした」  音丸は背中に龍平を貼り付けたまま蟹の横這いのように部屋を出て行くのだった。  正直、龍平は今にも吹き出しそうである。これで案外音丸は抜けている。そこがこの上もなく可愛いのだが。今が今くすくす笑いをするわけにはいかない。  ドアの外には艶やかな着物姿のご婦人が待っている。こちらは花のような香りを漂わせている。 「失礼しました」  そちらにも音丸は丁寧に頭を下げるのだった。  油断して棒立ちになっていた龍平は音丸の背後に上半身丸見えだったろう。  けれど、大人の色気あふれるご婦人は顔色ひとつ変えなかった。しとやかに頭を下げると花の香りと共に師匠の部屋に入って行くのだった。  音羽亭弦蔵はゲイではないようだった。 「ねえねえねえ。もっとキスってば……」  駄々っ子のように音丸の背中に貼り付いて耳元に囁く。  何やら硬い物が音丸の尻に当たっている……いや、あえて押し付けている気もする。  音丸は師匠の部屋から二つ先のドアにカードキーをタッチする。今度こそ正しい部屋だった。  龍平に貼り付かれたまま室内に入った音丸は、シングルベッドの足元に置いてある自分の黒いザックやキャリーケースを目視し、指差し確認さえしている。 「んもう」  焦れた龍平は音丸をこちらに向かせると、頬に手を添え改めて唇に唇を寄せた。心行くまで音丸の唇や舌を堪能する。  手は黒い服の中に忍び込み、滑らかな肌や筋肉を掌で指先で味わっている。  音丸はといえば濡れた唇をそっと離した。二人を繋いだ唾液がきらめく。    舌なめずりをするなり龍平の真珠色のネクタイに指を掛けた。ごくりと生唾を飲み込む音がする。 「うふふん」と吐息半分微笑みながら、ネクタイを解かれるのを待つ龍平である。  シュシュッと音をたてて真珠色の細い絹地がワイシャツの襟から引き抜かれる。 悦楽の夜が始まる。 と……

ともだちにシェアしよう!