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第16話 予想外の夜
6 予想外の夜
廊下でけたたましくドアが開き、ばたばた人が走る音がする。
「きゃーーーっ!」
女の悲鳴が響き渡る。あの吹き抜けに音が長く反響している。
共に真珠色のネクタイを見つめていた二人は互いの目を覗き込む。
どうする?
目と目で言い合う。
「待て! あっ、えっ!」
男の驚いたような声もする。
「わーーーっ! あーーーっ!」
男の声がうるさい。
「うるさい」
音丸は声に出して言うなり龍平から離れてドアを開けた。
その隙間から龍平も廊下を覗き込む。
吹き抜けの中に妙な物がぶら下がっている。
廊下の向こう、吹き抜けの中で唐草模様の手摺りに長襦袢の女がぶら下がっていた。
足袋裸足である。両手で手摺りの裾にしがみついている。
手を離せば、この十二階から一階まで真っ逆さまに落下する空間である。
龍平は物も言わずにドアから飛び出した。
「え? どうした?」
と遅れて音丸も廊下に出て来た。
廊下には何故だか派手な色合いの振袖やら帯などが打ち捨ててあった。
それに足を取られないように、ぴょんぴょん飛びながら、二人で手摺りの前に駆け付けた。
手摺りの根元を両手で握り空中にぶら下がっているのは、あの女子高生。
芦田香乃子だった。
廊下にあった振袖の主である。
「放すな! 香乃子ちゃん!」
叫ぶなり龍平は、吹き抜けに身を乗り出した。鉄棒に取り付く要領で、手摺りの横棒を両手で握って飛び上がると腹を支点に身を乗り出す。
片手で横棒を握ったまま、もう一方の手を香乃子に向かって伸ばす。
けれど辛くも手は届かない。
「音丸さん! 掴んでて!」
腹というより腰を手摺りの横棒に掛けたまま、両手を中空に伸ばした。
生憎そう背の高くない龍平の下半身である。足裏が床から完全に離れた。
けれど下半身は強い力で支えられている。音丸の両腕が全力で抱きかかえているのだ。
何とか手が香乃子に届いて手首を握ろうとしたが、にわかに上半身が引力に引かれて吹き抜けに向かいそうになる。ジェルで固めた頭髪が逆立つ。というか総毛立っている。
すると何かがズボンのポケットから滑り出て、吹き抜けの中を引力の命ずるままに一階に向けて遠ざかって行く。
ヲタ芸のサイリウムである。
オレンジ色の光を放ちながら中空を遠ざかり、やがて奈落の底のような暗がりでコン……ココン、コンと一階に着地して転がったようである。
腰に抱き着いた音丸が強引に龍平を引き上げようとしている。
「No!! One moment!」
とっさに叫んで言い直した。
「まだ上げないで!! 僕まだ彼女を掴んでいない」
その刹那、龍平の両手は香乃子の手首を掴んだ。
「Yes!!」
とガッツポーズをとりたいが、両手はふさがっている。
人一人分の加重がずしりと龍平から音丸へと伝わる。
自分が落ちることはないと龍平は確信している。この世で最も頼りになる男が自分の命を繋いでいてくれる。
だが少女の命は自分の両手にかかっているのだ。掴んだ手首を決して放してはならない。
二人の男は身じろぎも出来ずに固まっている。香乃子の重みに慣れるまで動くに動けない。
「あんた! 手伝ってくれ!」
エフ分の一の揺らぎのある声が聞こえる。誰かに助けを求めているらしい。
相手の声は聞こえないが、
「おいっ!! 待て、この野郎……」
音丸は罵声を途中で止めた。相手がどこかに消えたらしい。
龍平は歯を食いしばった。そろそろ手首を握った腕を引き上げないと。
けれど香乃子の両手首の下では身体が不安定にふらふら揺れている。
長襦袢の袂が空中にひらひら舞っている。
「じっとしてて、香乃子ちゃん! 僕らが引き上げるから。動かないで!」
龍平の声が聞こえないのか、宙にぶら下がった身体は更に大きく揺れるのだった。
「揺らして!! 飛び降りる!!」
下から響く甲高い声は香乃子である。
「ええっ!?」
ここは十二階である。一階まで飛び降りるとは、つまりあの世に行くということである。
思っている間にも少女の身体は前後に大きく揺れている。まるで空中ブランコである。
「龍平! 彼女を十一階に飛び降りさせろ!」
上から音丸の声がはっきり聞こえた。落語家の素晴らしい発声である。
なるほど。身を乗り出している龍平にも十一階の廊下が見て取れる。上に引き上げるよりは、下に飛び降りさせた方が楽かも知れない。
だが覗き込んだ十一階の床までは随分と距離がある気がする。ホテルの天井は普通の建物より高いのか。
眩暈がしそうである。こんな高さを飛び降りたら怪我をさせてしまう。
躊躇している間にも音丸の指示が飛ぶ。
「いいか、龍平! 掛け声をかける。いち、にい、さんのさんで手を放せ!」
「OK!!」
答えるなり音丸の指示は、手の下にある香乃子にも飛ぶ。
「彼女!! いち、にい、さんのさんで龍平が手を放す! そしたら飛べ!」
「はいっ!!」
まるで体操選手のように声を上げると一段と揺れを大きくする女子高生である。
何だこのクソ度胸は?
芦田香乃子とはこんな女の子だったか?
などと考えている暇はない。
香乃子の身体は惰性がついて、いよいよ激しく揺れ始める。適切なところで繋いだ手を放さないと、吹き抜けの底に放り出すことになる。そうなればサイリウムと同じ運命である。
音丸の号令が「いーち!」「にーい!」と続き、香乃子の姿が十一階の廊下の絨毯に重なった瞬間に「さんっ‼」と龍平の腰を叩いた。
それをきっかけに龍平は両手で掴んでいた少女の手首を外した。
香乃子の姿はふわりと十一階の回廊の奥に消えた。
と同時に階下で、どすん、ばたんと重い音が聞こえた。十一階に着地したようである。
殆ど同時に龍平の身体は遮二無二に引き上げられ、勢いで廊下に転がった。
音丸の両腕で腰を締め付けられた龍平は、床に折り重なったまま身動きも出来ない。
その態勢のまま、
「香乃子ちゃん!! Are you alright!?」
階下に向かって叫んだ。
「大丈夫です!」
と声が返って来た。
起き上がろうとしたが、相変わらず万力のような力で身体が固定されている。未だ音丸が両手で身体を抱え込んでいるのだった。
「please let go of my hand……」
「おまえは何語で話してるんだ!?」
いきなり怒鳴りつけられる。
肺活量のある落語家の声が耳元にがんがん響く。
一重瞼の音丸はそれこそ能面のように真っ白な顔をしている。
龍平を両腕で拘束したまま起き上がった身体は未だに激しい鼓動を打っている。背中に伝わるその音に気づいたのは、龍平自身の動悸がやっと治まったからである。
「僕、日本語で話さなきゃダメだよね」
言ってみて自分でも何語で話していたのか覚えていない。
音丸の手を握って自分の身体から放そうとするが、ぶるぶると小刻みに震えて強張っている指である。しばらくそれを温めるように握ってから、ゆっくり自分の身体から外す。
そうして龍平は両手を床について身を起こした。〝腰が抜ける〟という日本語の表現はこの状態をさすのだろうか。足腰が強張ってうまく動けない。
音丸の肩に手をついて何とか立ち上がった。
すると音丸はまだ震えている手で頭を抱え込んで、
「勘弁してくれよ……」
蚊の鳴くような声を出すのだった。
その腕も頭も丸ごとハグをする。ついでに頭にキスをする。今はそうしなければいけない。よしや誰かに見られても。
「中園さん……」
下の方から声がした。
振り向くと、エレベーターターホールの脇にある非常階段を香乃子が昇って来る。こちらも動きは緩慢である。両手で壁にすがって足を引きずるようにして段を上がって来る。
「全然大丈夫じゃないでしょう⁉」
慌てて駆け寄るのに、香乃子は笑って首を横に振っている。
「壁にぶつかってから床に落ちて……体育で柔道の受け身を習ったのに、うまく出来なかった。足が変な風にぐにゃっとなって……」
香乃子に肩を貸して部屋に向かう。
すると廊下の先では音丸が正座して打ち捨てられていた振袖を畳んでいるのだった。帯は既に畳み終えたらしく傍らにある。
龍平は妙に感心するのだった。なるほど、あれが音丸なりの気の鎮め方なのか。ふと前座の頃の楽屋働きをしていた音丸を見たような気になる。というか、見たかったと思う。
音丸は香乃子に気がつくと立ち上がってやって来た。
「失礼」と香乃子の前にひざまづき乱れた襦袢を直して伊達締めを締め直す。
そしてちょっとした整体師であるかのように「ここは痛い?」「こっちは?」と身体のあちこちを触診するのだ。
柏家音丸はこうでなきゃ!
つい今しがたの取り乱しぶりに毒気を抜かれていた龍平はほっとする思いである。
誇らしく見ている龍平の前で、音丸は香乃子の身体を抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこである。
自分だってまだお姫様抱っこなんてしてもらったことはないのに!!
今この場に最もふさわしくない感慨を抱く龍平なのだった。
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