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第17話 予想外の夜
何があって香乃子が肌襦袢姿で吹き抜けの中にぶら下がる羽目になったのかはわからないが、一つだけすぐにわかったことがある。
「鍵は?」
部屋の前で香乃子を抱いたまま音丸が呟いた。
「カードキーとか考えないで部屋を出ちゃったから……」
香乃子が答える。
音丸はちらりと向かい側の自分の部屋を見やってから尋ねるように龍平を見た。
肩をすくめて首を横に振って日本語で答える。
「ごめん。持って出なかった」
香乃子も龍平たちもカードキーを持たずに部屋を飛び出したのだった。
早い話が締め出しを食ったのだ。上品に言えば、締め出し食べちゃった。
そこにエレベーターの扉が開いて、振り袖姿の菅谷百合絵が現れたのは僥倖だった。夕食というか晩酌を済ませた百合絵は酔いのせいでいつもより太っ腹になっていて、
「どうぞ、どうぞ。私はツインルームのシングルユースだもの。三人とも泊まれてよ」
などと言うのだった。
いや、とりあえず怪我をした香乃子だけ休ませてもらえばいいのだ。
そう言うなり、
「今さっき音丸さんのファンのお医者様にご馳走していただいたのよ。ちょうどいいわ。その先生に診察していただいたら?」
と、さっそく医者に連絡をしてくれる。
毎度のことではあるが、菅谷百合絵の敏腕マネージャーぶりには舌を巻く。
どうやらこのホテルで整形外科医の学会が開かれているらしい。新郎である先輩が本館が満室でアネックスの部屋しかとれなかったとぼやいていたのは、そのせいらしかった。
そして音丸は部屋の鍵を開けてもらうために一階フロントに降りた。
龍平は百合絵の部屋で香乃子の話を聞いていた。
また何やら廊下が騒がしい気もしたが、もはや覗く気にもなれなかった。
結論から言えば、その夜龍平はもう二度と音丸とキスすることは出来なかった。無論それ以上のことも。
百合絵の部屋まで来てくれた整形外科医の見立てでは、香乃子は左足首が軽い捻挫とのことだった。湿布薬を貼られて包帯で固定された。他にも身体に打撲傷があるようで大量の湿布薬や鎮痛剤を渡された。
龍平もその薬を分けてもらったのは、既に腕や腰に筋肉痛の予感があったからである。
そして何故こんな事態になったか女子高生から聞き出すのは、菅野百合絵にとっては自家薬籠中のものだった。
新たなカードキーを持って部屋を訪ねて来た音丸が、ちらりと龍平を見たのだが、
「じゃあね。お休みなさい」
とつれなく言っていた。今度こそ、この女子高生の話を聞かねばならなかった。
百合絵も重ねて、
「音丸さんは明日も高座ですものね。災難でしたわね。ゆっくりお休みになってくださいね」
などと言うものだから、音丸は早々に自室に帰らざるを得なかった。
音丸と二人して危機を脱出した後で、この対応はかなりまずかったかも知れない。龍平がそう思い知るのはもっとずっと後になってからである。
音丸の能面のように真っ白な顔、蚊の鳴くような声、そして小刻みに震える手を思い出しては後悔したが、この時は少女に寄り添うのが最善だと思ったのだ。
従姉妹のエリは恋多き女だった。大人達は知らなかったろうが、親戚の子供たちはそう認識していた。香乃子もそんな子供の一人である。
今回会ったら、安土スケベについて話してしまおうと思っていた。けれど十五階のツインルームでエリの恋愛遍歴を聞くにつれ香乃子は妙に白けた気分に陥るのだった。
大学一年生になったエリはゼミの先生やサークルの男子学生たちと次々に〝恋愛〟をしている。
ホテルの特製スイーツを食べながら香乃子の頭に浮かんだのは〝ヤリマン〟という下品な言葉だった。
「お姉ちゃんは恋多き女だもんね」
などと妹のマリが誇らしげに言うのも片腹痛いだけだった。
あの音楽教務室でスケベ之助と抱き合っていた女生徒は、きっとエリのような〝恋多き女〟だったに違いない。
小さい頃からエリに憧れていたのが、幼さゆえの勘違いだと思い始める香乃子だった。大人達の酒宴を終えて伯母が戻って来たのを機に従姉妹たちの部屋を出た。
そうして十二階の部屋に戻って、恐るべきことに気づく。
和服が脱げない!
ふくら雀に結ばれた帯はすでに潰れてぐずぐずになっている。
エリやマリが「少し緩めてあげる」の「直してあげる」のと触っているうちに、雀なのか鼠なのか(そんな結び方はない)よくわからない堅結びにされていた。
草履も脱ぎ捨て足袋裸足で紐の結び目と格闘する。
とりあえず帯締めは解けたが、帯揚げと帯が変に絡まって解けない。いっそ解かないで無理やり下から脱ごうとしているところに、ドアチャイムが鳴った。
腹立ちまぎれにドアスコープを覗きもせずに「はいっ⁉」と勢いよくドアを開けてしまった。
たちまち押し寄せて来るのは、とんでもない酒臭さだった。
ドアの前には安土音也がふらふらと揺れながら立っている。ふわふわウェーブの髪の下で顔が赤いのは泥酔しているようだった。
「何ですかっ⁉」
強引に帯を脱ごうとしながら、怒鳴るように言う香乃子である。
「ダメだよそれじゃ。ふくら雀だろ。貸してごらん」
と安土スケベはその場で帯揚げの結び目を解くと、香乃子の身体を回して背中の帯に取り掛かる。
「何これ? 誰か変な風に結び直してるね」
酔っ払いのくせに手は確かなようで、苦労しつつ帯揚げと帯の固結びを解いている。酒臭さには辟易するが、一人でどうにもならなかった香乃子はされるがままになるしかない。
「僕の母は着付の先生なんだよ。女物の着物も着せられたからね。脱ぐのも畳むのもできるよ」
言われてみれば、香乃子は着物の畳み方など知らない。脱いだら丸めてスーツケースに放り込む以外に術がなかった。
「よし! 解けた」
音楽教師が言うなり、身体がいきなり回転した。解けた帯を力一杯引っ張られたのだ。
時代劇で深窓の姫君が悪代官によって帯を解かれて「あーれー」などと言いながらくるくる回される場面さながらである。
気がつけば部屋から廊下に飛び出しており、そこで繰り広げられる悪代官ごっこである。
安土音也は酔っ払い特有の箍が外れたげらげら笑いをしながら、香乃子の帯をぐいぐい引いては身体を回す。
「えっ?」「あっ!」と合いの手のような悲鳴をあげながら香乃子は回るしかない。
帯が外れると振袖の長着も引っ張られて剥かれる。
散々に回されて目が回った香乃子は吹き抜けの柵に縋るが尚も身体は回転する。
それを安土スケベが抱き止めるなり、長襦袢の上から胸に触っていやらしく揉む。
「やめてください!!」
と男の身体を突き飛ばしたはずが、香乃子は身体がぐるんと回転していた。
何だかわからないまま必死で手元にある鉄の柵を鷲掴みにした。
ずんと下に引かれる強い力を感じる。引力の仕業である。
足元を見てその下が深い深い穴だと気づいた瞬間、
「きゃーーーっ!」
生まれて初めて甲高い悲鳴が出た。
吹き抜けに声が長く反響する。
「待て! あっ、えっ!」
安土スケベが柵の向こうから手を伸ばしたが、香乃子は片手が柵から滑って外れた。
「わーーーっ! あーーーっ!」
野太い悲鳴を上げている音楽教師である。
香乃子は歯を食いしばって、外れた手でまた摑まる場所を探す。無駄に動いてはいけない。慎重に柵の根元に手を掛け、また両手で中空に浮いた。
その時現れたのが、中園龍平だった。
最早それはスーパーマンである。
香乃子の悩みを解決してくれなかったただのサラリーマンではなかった。
そんな悪夢のような夜が明け、香乃子は音丸のマネージャー(?)菅野百合絵の部屋で目を覚ますのだった。
身支度をして本館の食堂に出向く。夕べ従姉妹たちと歩いた本館に向かう庭園の小道を百合絵と共に歩く。
香乃子はもう振袖など着ていない。高校生の正装は制服である。着慣れた菖蒲色の服にリボンタイを結んでいる。学校指定のローファーは草履などよりはるかに歩きやすい。
「おはようございます。香乃子様」
入り口で挨拶をするのは、毎年このホテルで一族の担当をしてくれる老ホテルマンだった。
「どうぞ。こちらに皆さまお揃いです」
と奥に案内しようとする。
香乃子が百合絵とホテルマンとを見比べているうちに、
「じゃあ、私はあちらでいただきますわ。香乃子さん、また後程お会いしましょう」
百合絵は既に一人用テーブルに向かっているのだった。
女性一人で颯爽とホテルの朝食会場を歩いて行く百合絵は、とても大人に見えた。
「香乃子様、おみ足をいかがなさいました?」
老ホテルマンは目敏く香乃子の左足首に目を止めた。白いソックスを長めに履いていたのだが、包帯が少しだけ覗いているのだった。
「あ……ちょっとくじいただけ」
香乃子は左足を庇うように歩いていたが、なるべく普通に歩くように努めた。
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