18 / 30
第18話 スーパーマン&スーパーレディー
7 スーパーマン&スーパーレディー
今朝起きてみると香乃子の振袖や長襦袢は既にきちんと畳まれていた。柏家音丸が畳んだのだという。
香乃子は整形外科医が診察を終えて出て行くなり、部屋備え付けのルームウェアに着替えてベッドに入ってしまったのだ。そして眠りに落ちかけた。
そこにドアチャイムの音が鳴ったのは覚えている。百合絵が音丸とぼそぼそ話すのも聞いていた。あの時、廊下に散らかっていた着物を持って来てくれたのだろう。香乃子のルームキーに関しては泊まっている当人でないと貰えないらしい。
そして起きるなり百合絵に付き添われて、まずフロントに降りたのだった。スペアキーをもらって、ようやく自分の部屋に戻った。
スーツケースに入れて来た制服に着替えながら、自分では畳むことさえ出来ない振袖を平気で着ていたことを少し恥ずかしく思うのだった。
そうして小さなハンドバッグの中で充電が切れかけていたスマートフォンを出して、中園龍平にLINEメッセージを送った。
〈昨夜はありがとうございました〉
他に何も思い浮かばなかったので、それだけを送信した。
あの事態に到った詳細は夕べ既に百合絵や龍平を相手に話していた。
あんな恥ずかしい話が他人に出来るとは思っていなかった。
けれど百合絵が「まあ」「そうですの」「ええ」と深く頷きながら相槌を入れる度に、口からするすると言葉が出て来るのだった。
何となくこの女性が龍平や音丸の信頼を得ている理由がわかる気がした。
本館に向かう庭園の小道を歩きながら百合絵に尋ねてしまう。
「中園さんて何者なんですか?」
「あの方は天使ですわ」
にっこり微笑まれて、思わず一歩後ずさる。
「大丈夫。怪しい宗教じゃありませんわ」
「いえ、別に何も言ってません」
慌てて首を横に振ってから、喉が痛むことに気がつく。声も少し枯れている。
「まあ、喉が痛いの?」
問われて自分が喉に手を当てていることに気がつく。
「いえ……はい、少し」と要領を得ない答えである。
昨夜、声を限りに絶叫したのだ。喉を傷めて当然である。
百合絵も何故か自分の喉元に手を当てて、
「私の話し方は少しおかしいと思いませんこと?」
などと問うのだった。香乃子の答えを待たずに続ける。
「私は親の赴任先のイギリスで生まれ育ちましたの。両親が年老いていた上に古い日本語を美しいと思う人達で、日本語を覚えるのに昔の邦画などを参考にさせられましてね」
「ああ……」
言われてみれば、祖父や叔父が大好きな小津安二郎、溝口健司、黒澤明といった監督の映画では女優たちはこういう口調で話している。
「今はもう誰もこんな話し方はなさらない。日本に戻って学校に入っても浮いてしまって……だけど私には幼い頃から使っている言葉ですもの」
「はい」
「そう簡単には直せませんわ。困ってしまって、カウンセリングにも通いましたのよ」
「カウンセリング……ですか?」
「ええ。お陰で自分の気持ちが素直に表せる言葉を選べばいいと腹をくくることが出来ましたわ」
そして百合絵は香乃子にも、今回の事件がショックならカウンセリングを受けて、気持ちを整理するのも良いと勧めるのだった。
何しろプロのカウンセラーには守秘義務がある。どこかに漏れる心配もないのだ。
そこまで語ってから、改めて香乃子の顔を見た。
「その後、私は龍平さんと出会って……あの方はアメリカから帰ってらした方で、同じような気持ちを分かち合えましたの。とても救われましたわ。だから私には天使です」
「天使……」
「いますでしょう。ただそばにいるだけで幸せな気分にさせてくれる方。龍平さんはそういう方ですわ」
頷きはしなかったが、何となくわからないでもなかった。つい勢いで尋ねてしまう。
「じゃあ、中園さんと柏家音丸さんて……?」
「ファンですわ。私に勝るファンはいないと思いますけど。やっぱり男同士で気が合うようですわね。ちょっと妬けますわよね」
「ファン……なんですか」
自分はこのファンサイト管理人に何を訊こうとしていたのか。香乃子は少々後ろめたい気分になっている。百合絵は知る由もなく言葉を継いだ。
「私が落語に魅かれたのは、この話し方のせいかも知れませんわね。古い言葉が当たり前に使われる世界。落語を聞いていると今時の言葉が話せなくても大したことではないと思えますのよ」
香乃子はしみじみと百合絵の顔を見る。
もらったファンサイトのアドレスカードはまだ見てもいない。帰宅したらこの人が作ったサイトを覗いてみようと誓うのだった。
老ホテルマンに案内されたのは食堂の奥にあるサンルーム風な一角だった。ここもまた例年とは違う場所である。
両親と伯母と従姉妹たちがひとつのテーブルを囲んでいる。両親たちが背にした窓の外には秋バラが咲き誇る洋風庭園が広がっている。
「カンコちゃん」と従姉妹たちが手を振るのに頷いて、誰にともなく「おはようございます」と声を出した。
「どうぞ、香乃子様」
老ホテルマンに椅子を引かれてエリやマリの隣に座る。母の向かいの席だった。
母は今日も伯母に真垣姓でない故に受けた仕打ちを愚痴っている。両親が泊まった本館のツインルームは、いつものスイートルームに比べてかなり天井が低かったらしい。
「古い建築だから昔の日本人の身長に合わせて天井を設定しているのよ。スイートルームだけは外国人に合わせて高くしたみたいな」
「でも叔母さん、アネックスはけっこう天井が高かったよ。ねえ、カンコちゃん?」
とマリに促されて黙って頷く。
確かに十二階の柵にぶら下がって見た十一階の床は、飛び降りてみると思っていたより高かった。お陰で左足首を変に捻った。冬休みのハーフマラソン大会までに治るといいのだが。などと自分が大嫌いだったはずの部活のことを案ずるのも意外だった。
朝食が運ばれて初めて空腹に気がつく。勇んでナイフやフォークを持つが、手が微かに震えている。
今朝起きた時から全身が痛かった。肩から腕までパンパンに腫れているし、手首には捻じれたような筋肉痛が残っている。部屋に戻ったらもらった鎮痛剤を飲もうと思う。
「いつもと違う演し物にしたとか自慢してたけど何で落語が入るわけ?」
と伯母と母はちらちら奥の席を見ながら話している。
奥のテーブルで食事をとっているのは祖父や叔父などグループの首脳陣とも言うべき面々だった。
「来年たっちゃんが新卒で入社するのに条件を出したらしいわよ」
と声をひそめる伯母である。〝たっちゃん〟もやはり香乃子の従兄弟である。叔父の息子なのだ。
来年大学を卒業したら、グループ企業に入るはずだったのに大学で落語研究会に入ってしまい、卒業後は落語家になるなどと言い出したらしい。
それを翻意させようと祖父や叔父が口説いた結果、ラポール・ファミリオ・グループでも落語に力を入れると約束させられた。というのが伯母の解説である。
「だからなの? 今日なんかオーケストラとバレエの間に落語だって」
とエリやマリまで話に入る。
言われてみれば香乃子にもこの演し物の選択は疑問である。というか昨夜聞いた限りでは当の落語家、音丸さえも戸惑っていたらしい。
「新進気鋭の若手を使うんなら、キリエ・カルテットが大ホールで演ればいいのに」
「だよね。ねえお姉ちゃん、私たち今日は大ホールじゃなく小ホールに行かない?」
エリとマリは推しカルテットの演奏を聞きたくてならないらしい。
と、はしゃいでいた二人がにわかに抱き合うようにして黙り込んだ。ただじっと窓の向こうを見つめている。
つられてそちらに目をやれば、ラフな格好の若者たちが数人バラ園をそぞろ歩いている。従姉妹たちが口でパクパク伝えるのには、その若者たちこそキリエ・カルテットのメンバーらしい。
「行こうよ、お姉ちゃん。サインしてもらおう」
「ダメだよ。邪魔しちゃ。朝の散歩できっと演奏のイメージを高めているんだよ」
ファンとしてあるべき姿なのだろう、ただ黙ってメンバーが談笑して通り過ぎるのを息を詰めるようにして見つめている。
ともだちにシェアしよう!