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第19話 スーパーマン&スーパーレディ―

 香乃子はまた別の意味で彼らを見送らざるを得なかった。グループの中に安土音也がいた。  その目はひたすら香乃子を凝視している。香乃子にはまるで安土スケベが昨夜のことを「誰にも言うな」と脅しているようにも思えた。  ただでさえ痛かった腕の筋肉が激しく痛む。デザートスプーンを持つ手がかすかに震えて、掬ったはずの洋ナシのゼリーが皿にぽてんと落ちた。  落ち着こうとコーヒーカップを手に取って一口啜る。  伯母や母は従姉妹たちの静かな熱狂に気づかばこそ愚痴を続けている。 「今年はいつもと客層が違う気がするの。ロビーにヤクザみたいな男が歩いているのよ。昇り龍の刺繍が入ったスタジャンなんかを着てるんだから」  と伯母が言えば、母も打てば響くように応じる。 「落語なんて下品な大衆芸能より、エリちゃんやマリちゃんが好きなキリエ・カルテットのがずっといいわ。聖都もファンなのよ。最近、新しいピアニストが……」  母の言葉が終わるのを待たず香乃子は飲んでいたコーヒーをその顔にぶちまけた。  茶色い液体が見事に母の顔に飛び散るのを見届けるなり、無言で席を立った。今度ばかりはタイミングを過たなかった。  そうか。龍平にカフェラテをぶちまけたあの時の怒りはここに繋がっていたのか、などと思いながら。  母は金切り声で騒ぎ、老ホテルマンが後片付けに奔走しているようだ。コーヒーは既に冷めていたから火傷はしないはずである。せいぜいお気に入りのドレスに染みが出来るぐらいだろう。  香乃子は振り向きもせずに祖父のテーブルに行った。もう隠さず左足を引き摺って歩いた。 「おじいちゃん」  と、その横に立つと祖父が少し手を動かしただけで、控えていたウェイターが椅子を持って来て香乃子を座らせた。  窓の外を見るとキリエ・カルテットのメンバーはバラ園を立ち去っていた。  なのに安土音也だけが残っていた。バラの花に心奪われたかのようにスマホで写真を撮りながら、ちらちら香乃子の様子を覗っている。  香乃子が殊更に祖父に身を寄せたのは、スケベ之助に見せつけるためだった。そして母や伯母には聞こえないように小声で囁いた。 「落語家の柏家音丸さんの楽屋に行きたいんだけど」 「おお、そうか。香乃子は落語家さんに会いたいのか。よしよし」  と相好を崩して祖父は横のテーブルで食事をしていた若い男を呼ぶと、香乃子をホールの楽屋に案内するよう命じた。  男は祖父に声をかけられるなり直立不動で立ち上がり、香乃子にまで最敬礼するのだった。  そうか。自分はラポール・ファミリオ・グループ総帥である真垣宗太郎会長の孫娘つまりお嬢様だったのかと今更再認識する香乃子である。  それを如実に教えてくれたのは誰あろう、安土スケベ之助だったが。  何しろこれまでは創業祭ではいつも黙って両親の後をついて回っていただけだった。祖父は叔父家族や重役達と行動を共にしており、香乃子は子供だから部外者だと思っていた。こんな風に自主的に祖父に話しかけることすらなかったのだ。 「時に香乃子は、足をどうしたんだい?」  総帥は目敏かった。  香乃子は何故か涙目になりながら、 「ちょっとくじいただけ」  と首を横に振った。  祖父の指示で香乃子を楽屋に案内してくれた男性はなかなかのイケメンだった。それに真っ先に気づいたのはエリとマリだった。  整った顔立ちで艶やかな髪をオールバックにしている。ムスク系の香りを漂わせたスーツ姿は実に垢抜けている。 「いいなー。私もカンコちゃんと一緒に行きたいなー」  と言うエリもまた祖父にねだってキリエ・カルテットの楽屋に案内してもらうことになっていた。アテンド役は女性社員だったが。 「落語家なんてカンコちゃん渋過ぎる。私は絶対にピアニストの安土音也さんのがいいな」  無邪気に言うマリである。  岡山シンフォニーホールの楽屋口から入った香乃子たちは中で別れた。大ホールと小ホールの楽屋は別れているそうである。 〝柏家音丸様 控室〟  そう掲示されたドアをイケメン社員がノックすると「どうぞ」とエフ分の一の揺らぎのある声が聞こえた。  途端に香乃子は気がついた。  この落語家と直接話したことがない。  襦袢(洋服で言えばスリップに近い下着らしい)の着付けを直されて、お姫様抱っこまでされたというのに。  楽屋に入ると音丸はこちらに背を向けて姿見の前で黒紋付の羽織を着ていた。着物に焚き込んであるのか典雅な香りがほのかに漂っている。ムスク系の香水ほどには自己主張が強くない。  鏡越しに香乃子を見ている音丸に向かって、 「あっ、あのっ……昨日はどうもありがとうございました!」  殆ど前のめりになってお礼を言う香乃子である。 「どういたしまして」 と声だけが鏡の前から返って来る。  先に立つイケメン社員が怪訝そうに、 「ラポール・ファミリオ・グループの真垣会長のお嬢……いえ、お孫様の芦田香乃子様です」  と紹介するのだった。  音丸は羽織紐を結びながら、こちらを振り向いた。 「……こちらの主催者様のお孫さん?」 「はいっ!」  出席をとられた生徒のように、大きく頷いてしまう。 「どうぞ」と音丸に誘われて座敷に上がったのはイケメン社員が先だった。  香乃子は包帯で厚くなった左足で無理に履いていたローファーをもたもたと脱いでいる。それに向かって、 「あれは知ってるんですか? あなたが主催者様の……」  言葉を濁す音丸である。〝あれ〟とはおそらく中園龍平のことなのだろう。そう察して、 「えっと……ご存知ないかも知れません。興行会社の会長とは言ったけど会社名までは言わなかったし」  と答えた。  まだ立ったままの音丸は何やら首を傾げて香乃子を見下ろしている。  イケメン社員は座卓の横に用意された茶道具で二人分のお茶を淹れると、音丸と香乃子に差し出した。 「おみ足の具合はいかがですか?」  香乃子が靴を脱いで座卓の前に座ってから、音丸は向かい側に正座した。 「夕べお医者さんに診てもらったから大丈夫です」 左足を庇って横座りをしていた香乃子がつい脚を正そうすると「そのまま」と制する音丸である。それに甘えてまた脚を崩す。 「音丸さんこそ……あんな無理をさせてしまって。今日の落語は大丈夫かと思って、心配で伺ったんです」  落語家は〝柏家〟という屋号亭号ではなく〝音丸〟という下の名前で呼ぶべきである。  今朝ほど百合絵に教わったばかりだが、初めて言葉を交わす相手に妙に親し気できまりが悪かった。 「落語家はただ座布団に座って話すだけの仕事です。口と手が動けば何も問題はありません」  香乃子はふと顔を上げてまともに音丸の目を見た。国立演芸場のそばで助けられた時の言葉が蘇ったのだ。 「手は怪我出来ない。足なら折れても何とかなる」  昨日の高座を思い返せば、その意味も理解できる。 「あのっ、お礼が遅くなりましたけど、前にも猫の階段……いえっ、国立演芸場のそばで助けていただいて、ありがとうございました」  音丸はお茶を静かに啜っている。 「あなたはとても運動神経がいいんですね」 「はい?」  お茶は香乃子の前にも供されている。ぼんやりそれを眺めながら音丸の声を聞く。 「あの時も昨日も……よくぞ飛んだものです」 「はあ」 「あの高さで下に飛び降りると思いつくのも凄いが、実際に飛んでしまうなんて。並大抵の度胸じゃないですよ」 「だって、そうしなきゃ落ちるだけだったし……」 「感服しました。見事な度胸と運動神経ですよ」  褒められても香乃子は今一歩ピンと来ない。死にそうになれば誰だってあれぐらい必死でやるだろう。 「何か運動をしてらっしゃるんですか?」  重ねて訊かれて、陸上部に所属していると答えた。 「やっぱりね」  音丸は初めて微笑んだ。口の端を上げただけだが、一気に表情が柔らかくなった。 「国立演芸場のあの路地でも、あなたは飛んだ」 「はい?」 「私は後ろにあなたがいることを考えないで蹴ってしまった。でもチンピラが倒れてぶつかると思った瞬間、あなたは段の上に飛んでよけた。見事でしたね」 「えっ?」  香乃子の記憶の中では弁当を抱えて立ち上がっただけである。チンピラが手前にずれて倒れただけのように見えた。 「うそっ。音丸さんが計算して蹴ったから、私にぶつからなかったんでしょう?」 「そんな余裕はなかった。あれが殴られてカッとなっていたから」 「……そうなんですか?」  自分が飛んだのか。あまりにも意外過ぎて声も出なかった。 「そろそろ開演のお時間では……?」  イケメン社員がそそくさとドアを開けて外に出て行く。手でドアを押さえた隙間から香水が漂うばかりである。  香乃子は立ち上がって音丸に握手の手を差し出した。音丸も立ち上がると軽く握手を返して来た。手首がまだ痛むけれどその大きな手をもっと力を込めて握り返した。

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