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第20話 スーパーマン&スーパーレディ―
昨夜この手が龍平を支えていなければ、自分は奈落の底に落ちていたのだ。命もなくなっていたのだ。悪くすれば龍平を道連れにしていたかも知れない。
そう思えばまたも前のめりで言わずにはいなれなかった。
「中園さんは音丸さんのことをとても心配してらっしゃいます」
「はい? 心配……ですか?」
「私、言われたんです。あのチンピラ達をやっつけたのは音丸さんじゃなく中園さんにして欲しいって。人気商売だから暴力の噂がたったら困るからって」
音丸は黙って握手の手を放した。
「どうも余計な事を申し上げたようですね。失礼しました」
「ううん。いいえ」と、ぶんぶん首を横に振る。
「私にはそんな風に自分のことを思ってくれる友達がいないから。音丸さんがとても羨ましかったんです」
過去形で言った。それは少し前なら歯ぎしりをする程に口惜しいことだった。だが今は何故だか素直に認められる。
音丸は落語家の顔で微笑んだ。
「あまりお気になさらないでください。昨日のことも。事故現場に居合わせれば誰でもすることです」
「逃げた人もいた……」
唐突に思いついて口にしていた。
この落語家が罵った声は、吹き抜けの底まで響いていた。おそらく逃げたのは安土スケベ之助ではなかったか?
音丸は苦笑いして首を横に振った。
「世の中にはいろいろな人がいます。責めても仕方がない」
香乃子はきりりと口を引き結んで言い切った。
「私は中園さんがおっしゃる通りだと思います。きっと菅谷さんも同じ意見だと思いますけど……落語家さんも人気商売なんだから、評判には気をつけなきゃいけないと思います」
決然と音丸の切れ長の瞳を見上げていた。
「だから私、昨日のことも、あの路地のことも絶対に誰にも言いません」
「いや、何もそこまで……」
更に苦笑いをする音丸に向かって、
「お礼もこれで最後にします。本当にありがとうございました」
膝に頭がつくほどに深々と頭を下げた。
視線の先には音丸の真っ白な足袋の先が見えるだけだった。けれど低い声が、
「どういたしまして」
と応じるのがはっきりと耳に届いた。
中園龍平は結婚式で岡山に一泊したら翌朝一番で東京に戻る予定だった。日曜日だけれど会社に行かねばならない。
社内で始まる新たなサークル活動の打ち合わせに出席するのだ。仕事ではないが今春入社の新入社員が欠席できるわけもない。
百合絵の部屋で別れてから音丸とは連絡がとれなくなっていた。
昨夜も今朝も音丸の部屋のチャイムを鳴らしたりノックをしたりしても応答がない。おそらく熟睡していたのだろう。
スマホでも連絡はとれなかった。音丸にはLINEもメールもまめにチェックする習慣がない。というか電源を切っている時間が長いのだ。サラリーマンの龍平には考えられないことだが。
このまま音丸と会わずに東京に帰ってしまうのは、どう考えてもまずかった。
伯母を一人殺すことにした。会社の先輩に電話して、
「夕べ遅くに訃報がありまして……結婚式の翌日なのに。これから黒いネクタイを買って、松山に移動してお通夜に出ます」
だから新サークルのミーティングには出席できないと断って厳かに電話を切った。
そしてチケット予約サイトでラポール・ファミリオ・グループ創業祭のチケットを購入した。残り少ないチケットは大ホールの三階末席だった。
おそらく高座の音丸の姿など豆粒のようにしか見えないだろう。けれど楽屋に訪ねることが出来れば構わないのだ。
今回の落語会はネタ出しだった。弦蔵師匠は「芝浜」という人情噺だが、開口一番の音丸は「夢の酒」という軽い笑いのある噺だった。龍平が大好きな噺でもある。なかなかラッキーに思えたのだが。
「面白かったー。音丸さんの〝夢の酒〟って僕、大好き」
「…………」
終演後、龍平が楽屋を尋ねた時、姿見に向かって音丸は着物を脱いでいた。
「ここの当日券が取れたから、帰りの新幹線の切符を払い戻して見に来ちゃった」
「…………」
取り急ぎ仕入れて来た地ビール〝独歩〟ごぼうチップスやチーズたこ等の肴も入れた袋を差し出したが、音丸は振り向きもしない。仕方なくその袋を座卓に置いた。
黙々と着替える音丸である。長着も襦袢も脱ぎ捨てると、おそらく高座で汗をかいたのだろう音丸の身体からは匂い袋の香りと体臭とが入り混じった得も言われぬ芳香が漂って来る。
龍平の脳下垂体を刺激する香りである(率直に言えば勃起しそうな香りである)。
「音丸さんはこの後、松山に移動するんでしょう? 僕も一緒に行こうかな? 松山に泊まって明日中に東京に帰っても、忌引きだから何とか言い訳できる」
下着姿の音丸は相変わらず黙って肩や腕を揉んでいる。どうにも剣呑な雰囲気である。昨夜の別れ方はやはりかなりまずかったと後悔する。
「ねえねえねえ」と笑顔で伝家の宝刀を取り出すも、今度ばかりは効果覿面とはいかなかった。
龍平はバッグから湿布薬を取り出した。
「音丸さん、けっこう筋肉痛出たでしょう。僕も朝から全身痛いよ」
音丸は答えずに黒い服を着ている。
「お医者さんに湿布薬を余分に貰ったんだ。貼ってあげようか?」
「あの女の子に余計なことを言ったらしいな」
龍平が近づくのを遮らんばかりに音丸はやにわに振り向いた。
「人気商売だから暴力がどうのこうの。国立演芸場のそばでチンピラを退治したのはおまえだとか……」
近づいた龍平が脱ぎ捨てられた長着に手を伸ばすのに、
「触るな」
きつい声で言うと、黒い洋服になった音丸は座って着物を畳み始める。立ち尽くす龍平を切れ長の瞳で睨め上げた。
「どういうつもりだ?」
「どうって……え? 今になって、あのチンピラどものこと言われても……だって困るでしょう。万が一にも暴力落語家とか話題になったら」
「おまえには関係ない」
切り落とすように言われて、龍平はついに黙り込んでしまった。ここまでにべもない対応をされたのは初めてである。
「それと、おまえはあの娘がここの主催者の孫娘だと知っててつきあっていたのか?」
「えっ?」
ぽかんとする龍平を切れ長の目は上から下まで睨め回している。そして着物類を風呂敷包にまとめた物を黒いザックに詰め込みながら、
「知らないようなら教えてやるが。芦田香乃子はラポール・ファミリオ・グループ会長の孫娘だそうだ」
「ラポールって……えっ、この会の? お嬢様? いや、興行会社の会長がおじいさんとは聞いたけど、もっと小さな会社かと……」
「お嬢様だ」
にやりと笑って頷く音丸である。つられて笑った龍平の表情が固まるような冷淡な声が飛んで来る。
「よかったな。夕べ手を放さなくて」
思わずごくりと固唾を呑み込む龍平である。
「万が一にもあの娘が落ちて死んでいたら……生涯かかっても払いきれないような莫大な慰謝料を請求されていたろうよ」
にわかに龍平は眦を吊り上げた。ザックを持って立ち上がった音丸の前に決然と立つ。
「その言い方はどうなの?」
「何が?」
二人は胸が触れ合わんばかりにして睨み合っている。
愛する時も諍う時も、距離が近いのは男の属性なのか。
「僕は彼女が何者であっても助けていたよ。あの場合、人として当然のことじゃないか」
「あの娘はおまえの何なんだ?」
頭一つは背が高い音丸に、じろりと睨み下ろされる。龍平も負けずに睨み上げて、
「何って……友だちだよ」
「ほお。そうなのか。あの路地で会った時から、変に粉かけていたようだが」
「粉って……不良にからまれてる子を助けるのは大人の義務でしょう」
「何が義務だ。〝英語de落語会〟の後もいちゃいちゃしてたな。何を泣かせていたんだよ」
「な、何だっていいだろう! 音丸さんだってキャバクラの女といちゃいちゃしたくせに。香水なんかつけちゃって」
「師匠のお供だ。仕方ないだろう。おまえこそ、あの時部屋に彼女がいたんだろう」
「あの時? いつ? どこの部屋に?」
「アパートだ! 落語会の後で部屋に行こうと思って電話したら断ったじゃないか。泣かせて部屋に引っ張り込んだのか」
「…………」
今度は龍平が黙り込む番である。呆れて声も出なかった。
止めを刺すように音丸は言い放った。
「女もいける口とは知らなかったよ」
「何それ! ええ⁉ 女? いける口って……」
龍平は殆ど悲鳴に近い声を上げている。まるで想定外の攻めだった。
「ええーっ⁉ 何その下品な言い方! 何なんだよ⁉」
驚きのあまり目に涙まで浮かんでしまう。
「うるさい」
と切り捨てるように言うと龍平を押しのけて音丸は出口に向かった。
その際、龍平の目に溢れる涙を見たらしい。
「いちいち泣くな。男のくせに」
「ジェンダーバイアスのかかった言い方するな! 男が泣いて悪いかよ!」
言うなりぽろぽろ涙を流す龍平は言行一致ではある。音丸はいよいよ忌々しげな口調になる。
「何だそれは。ジェンダーバイ……? 偉そうに小難しいことを言うな。夕べは日本語忘れてたくせに」
「どうせ日本語ヘタだよ! 帰国子女で悪かったな! 落語家でちょっと古い言葉を知ってるからって威張るな!」
「落語家が嫌なら来るな! 出て行け!」
声の大きさでは完全に音丸が勝っている。高座で鍛えた腹式呼吸である。
そこにノックの音が響き、二人同時に口を噤んだ。
「どうぞ」
音丸がドアの向こうに呼びかけると同時に、
「どうなさいましたの?」
と顔を出したのは百合絵だった。
龍平は手で涙を拭きながら玄関に降りて靴を履いた。
「喧嘩でもなさったんですか?」
このマネージャーもどきは二人が親友同士だと認識している。時には喧嘩の仲裁にも入ってくれるが、龍平は助けを求める気にはなれなかった。
「何でもないです。お先に」
と百合絵にだけ言葉を向けて、部屋を飛び出した。
その後、音丸がこの事態を百合絵にどう説明したかなど、もはや知ったことではない。
逃げるように岡山シンフォニーホールを後にして新幹線に乗るのだった。
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