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第21話 生まれ変わるには早過ぎる
9 生まれ変わるには早過ぎる
落語はもとより創業祭イベントの最後まで見届けて、香乃子らが岡山を発ったのは夕刻だった。
行きと同様に新幹線で従姉妹たちと三列席に座っていた香乃子を二列の席に呼び寄せたのは
父だった。通路側の席で父親は香乃子を窓際の席に閉じ込めるかのように、こちらを向いて座っている。
そしてにわかに厳かな声で言うのだった。
「お母さんは泣いているぞ」
思わず前の席を覗えば、母は伯母と笑いながらお喋りに興じていた。
別に泣いてないけど?
言えば面倒臭くなりそうなので黙って父の言葉を聞いていた。
朝食会場で母の顔にコーヒーをぶちまけたことから始まって、あれやこれや穏やかに教え諭すように話している。
「お父さんは仕事でたくさんの女子高生にインタビューしている。だから今時の女子高生が、お父さんやお母さんの時代とは違って、いろいろ進んでいることも知っている」
と言い出すに及んで、母に話した安土音也との性交渉が父に伝わっているのだと知った。
父は赤の他人の女子高生にインタビューはしたが、家の中にいる女子高生には何もインタビューしていない。
「でも香乃子が自分の身体を粗末に扱うのは、命がけで産んでくれたお母さんを悲しませることになるんだぞ」
ぐらりと鍋が煮えたぎるかのような腹立ちに襲われた。
得意気に言い募る父の顔にもコーヒーをぶっかけてやりたい。なのに手元にコーヒーはない。
香乃子の身体を粗末に扱ったのは安土スケベなのだ。母に訴えたはずなのに完全スルーである。そんな反論を思いついたのはもっと後になってからだった。
「若い欲望が抑えがたいことはお父さんだって知っている。だけど刹那的な快楽に溺れると、女の子は特に、取り返しのつかないことになるんだぞ」
心の中で何かがぐにゃりと捻じくれた。
「何それ⁉ 何言ってんの⁉ バカじゃないの⁉」
悲鳴に近い声で叫んでいた。
思いを筋道だてて言語化する術もなく地団太を踏まんばかりにして絶叫している。そもそも左足を捻挫しているから地団駄も踏めない。
「人を何だと思ってんの⁉ 何なのよ‼ 信じらんない‼」
叫んでいるのは意味のない絶叫だった。
立ち上がると父親の膝を蹴散らさんばかりにして通路に飛び出した。
左足首が父の脛にぶつかってまた痛む。
足の捻挫を気にしてくれたのは、祖父に老ホテルマンに落語家と外の人ばかりだった。
怒りのままに通路をずんずん歩いて行く。左足首が痛むのは心の痛みが表出したかのようである。
車輌をいくつも突き抜けただひたすらに前進すると、とある車両で「あっ」と小さな声が聞こえた。小声なのに何故か目立つ響きだった。
ようやく足取りを緩めて振り向くと、強面でガタイのいい男が香乃子を見つめている。片手に岡山の地ビール〝独歩〟反対側の手にはごぼうチップスを持っていた。
「音羽亭弦蔵……師匠」
香乃子は自ら後ずさってその席に近づいていた。
〝師匠〟という尊称は真打だけに付けられる。これは前に龍平に習ったも百合絵に習った。
「あのっ! 落語とっても良かったです。昨日のも今日のも! 感動しました」
瞬時に怒りが別の興奮に変換された。迸るように落語の感想を話しているのだった。
「二日とも聞いてくださったんですね。ありがとうございます」
と言いながら弦蔵師匠はじろじろと香乃子の顔を見ている。
おそらくラポール・ファミリオ・グループ会長の孫娘だと見知っていて、思わず声を出してしまったのだろう。
とはいえ、香乃子が「この度はご出演いただき」などと挨拶する立場でもない。そんなのはあり得ない。だから、ただひたすらに落語の感動を伝えるばかりだった。
勧められるままに隣の席に座ってしまう。弦蔵師匠は一見ヤクザのような怖い風貌だが、よく見れば黒目勝ちの小さな目も愛らしい中年男性なのだった。
これまた勧められたコーラを飲みごぼうチップスを摘みながら、落語の豆知識や小話などを面白おかしく話してもらう。
父親のお説教などどこへやら、香乃子はげらげら笑っているのだった。
「落語って今回初めてちゃんと聞いたんですけど、思っていたより全然面白いんですね。今度、寄席っていう所にも行ってみたいです。ううん、絶対に行きます!」
そう宣言したのは決してお世辞ではなかった。
月曜日の朝、左足首にまだ湿布を貼っていたが、香乃子は陸上部の朝練に参加した。
岡山土産を持参したのはこれまでにないことだった。駅で新幹線を待つ間、両親と共に居たくなかったので売店を冷やかしているうちに買ってしまったのだ。
部員達は意外な程に喜んでくれた。
「このおまんじゅう、芦田さんの岡山土産だって」
「えっ! 芦田さんが? 私も欲しい」
「大手まんぢゅう! まんじゅうじゃないよ」
「それ何がどう違うの?」
と部室は大騒ぎである。みんなで大手まんぢゅうを奪い合っている。
「……ただのおまんじゅうなんだけど」
と後ずさりする程だった。
そして菱木忍にそっと訊いた。
「体育大学を受験するんでしょう?」
まんじゅうを頬張りながら菱木忍は頷くのだった。
「芦田さんは大学部に進むの?」
問われて香乃子はつい口にしていた。
「今から進路変更ってむずかしいかなあ?」
「どこに変更するの?」
「……体育大学」
「へえ」
と菱木忍は少しく驚いた様子で香乃子を見やると、
「もし決まったら一緒に受験勉強しよう」
と言い残すとグラウンドに出て行った。一人でストレッチを始めている。
香乃子は顧問教諭に左足首が治癒するまでは無理しないように言われていた。
部員達がトラックを走っているのを膝を抱えて眺めながら、漠然とした考えがいよいよはっきり形を成すのを感じていた。
昨日、東京駅で新幹線から降りた時、香乃子はこれまでにない不思議な感覚を味わった。
見える景色が違っている。
いや景色自体に変わりはないが明度が彩度がまるで違う。
輝いて見えるのだ。何やら生まれ変わったかのような気さえする。
ある意味、生まれ変わったのかも知れない。
岡山のホテルの吹き抜けで実は自分は落下して死んで新たな命を授かったのではないか。
そう思えるような新鮮さなのだった。
あの落語家は香乃子の度胸と身体能力を評価してくれた。
中空に命がぶら下がったあの刹那、香乃子が自ら下した決断を即座に理解して「手を放せ」と龍平に命じてくれたのだ。
香乃子の飛躍を後押しすべくカウントまでしてくれた。
「いーち、にーい、さん!」という低く力強い声は、今も耳元に蘇る。
それを思い起こせばどこへでも飛んで行ける気がするのだ。
楽屋では他人事にしか思えなかった「感服しました」という言葉が今ようやく心の底に着地したのだ。
あの賞賛はこれまで誰に言われたどんな言葉より尊く思えた。
家の中では香乃子の身体能力はむしろ唾棄すべきものだった。
色黒になる、筋肉がつく、女らしくなくなる、しまいにはタンポンを使うことまで……否定しかされて来なかった。
いや部活では大いに賞賛されていたはずだが、香乃子の耳は聞くのを拒んでいた。それがすっかり変わっていた。
この家を離れたい。この家族とはもう共に暮らしたくない。それももうずっと感じていたことだった。
けれど未成年者の香乃子には如何ともしがたい。だから見ないふりをして来たけれど、もう間に合わない。術があることに気づいてしまった。
香乃子には人より優れた度胸と身体能力があるのだ。
それを生かして仕事にしたい。たとえば体育大学に行って体育の教師になる手もある。なるべく家から離れた大学に行けば、一人暮らしも出来る。
というわけで香乃子はにわかに忙しくなっていた。
学校では部活動、家に帰れば進路について事細かに検索し、もちろん受験勉強も始めるし、ついでに音丸のファンサイトで落語を聞きに行ける日がないかスケジュールを調べたりもする。もちろん都内の寄席のホームページを読むのも忘れない。
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