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第22話 生まれ変わるには早過ぎる

 左足の具合が良くなればいよいよ部活動に励む香乃子である。朝練、放課後の走り込みと重ねれば日々身体が軽くなり、筋肉がついて行くのがわかる。 「受験の筆記テストはこれから塾に行くつもりだけど。実技って大丈夫かな?」 「実技はただの体力テストだから。芦田さんなら問題ないと思うよ」  などと菱木忍と情報交換したりする。 「芦田さんならいろいろな競技で成績を出しているから、推薦でも行けるかも」  と太鼓判を押してくれるのは顧問教諭だった。  そしてとうとう職員室で担任教師に進路変更を申し込んでいた。 「体育大学に行きたい? 日体大か」 「いいえ。日体大は家から通えるから駄目です。大阪とか鹿児島とか遠くの体育大学に行きます」 「せっかく大学部に進めるのに、何でまた急に……」  白髪頭の男性教諭はひたすら呆れていた。 「親御さんは何ておっしゃってるんだ?」 「まだ何も伝えてません」 「じゃあ、先に親御さんと相談してからまたいらっしゃい」  香乃子は一瞬黙って、担任教諭の姿をぼんやり眺めた。  まばらに生えた白髪の間に頭皮が見える。顔にも手の甲にも小じわが刻まれ茶色い老人斑も散っている。全くの老人である。  なのに、これまでに感じたことのない怖さを感じる。  何なのだろう? これは?  その感覚を見極めたくて口を開かなかったが、教師に促すように目を見られて、 「……そうですね。じゃあ、また来ます」  と頭を下げてそそくさと職員室を出た。  ひたひたと廊下を歩きながら首を傾げる。  これまでは何とも思っていなかった男性教諭が怖く見えたのだ。何ならあのホテルの廊下で帯を解かれてぐるぐる身体が回った感覚までもが蘇る。  気のせいだと自分に言い聞かせる。  それより問題は進路変更である。  おそらく両親は香乃子の進路変更を快く思わないだろう。高校二年生の二学期も終わる頃から受験勉強を始めても到底間に合わない。などと悲観的なことを言うに違いない。  だが香乃子の予想を裏切って、両親は特に反対はしなかった。母親は例によって「ええ?」と嫌そうに言いはしたが。 「香乃子が行きたいならいいんじゃないの」  と娘の自主性を尊重するかのような言い方をした。 「でも体育大学で真っ黒な筋肉隆々の女になって、お嫁に行けなくなっても知らないわよ」  と腐すのも忘れない。  自己卑下から始まる認識が覆って見ると、全ての視点が異なって来る。自分の母親はこういう性格だったのかと今更認識するのだった。  父親がまた「お母さんは泣いているぞ」とか珍妙な説教をしたらどうしようかと思ったが、特に意見はないようだった。  考えてもみれば子供の教育に関しては元々母親任せだったのだ。  もし両親が反対した場合どうするかあれこれ策を練っていたが、その心配もない程に香乃子は構われていないのだった。    百合絵に勧められたカウンセリングに関しては据え置きにしていた。  正直、カウンセリングだの精神科だのにはやはり抵抗がある。そこまで自分は狂っているわけではないと。  だが、職員室で初老の担任教師に感じた恐怖は他の男性に対しても感じるようになっていた。  登下校の電車の中で男性客に近づかれただけで、ぞっとして総毛立つ。満員になり男性の身体が密着すればじきに動悸が激しくなり、膝ががくがく震えて来る。  今になって処女喪失した時の安土スケベの肉体感覚や、岡山のホテルの廊下でぐるぐる回された感覚が眩暈と共に蘇ってくるのだ。  しまいには夜中に吹き抜けの底に落下する悪夢を見ては目覚めることが繰り返されるに及んで、カウンセリングを受けるしかないと思い決めた。  素人でもわかる。これは所謂(いわゆる)トラウマによるPTSDに違いない。  散々に検索しては口コミを見比べて決めたのは、自宅とは違うJR路線沿いにあるビルだった。そこのワンフロアを借り切った心理相談室には、グループミーティング室だの個別カウンセリング室だのがある。  とりあえず週に一回三か月のタームを予約した。親には部活動に行くと言ってある。ハーフマラソン大会までは土日の練習もあるのだが、この日だけは休んでいた。  料金はお年玉などを貯めたお小遣いで充分に賄えた。もともと物欲がなく買い物の趣味もなかったから(それもまた母親には気に入らなかったのだろう。エリやマリが母親と一緒に買い物を楽しむのをひどく羨ましがっていた)結構な金額が貯まっていたのだ。  だが担当のカウンセラーは期待とは大幅に異なる人物だった。  ひっつめ髪の中年女性は、香乃子が学校での安土音也とのセックスについて話すと、 「完全なるレイプですね」  と言い切ったのだ。 「いえっ。私から頼んだというか……だからそういうのじゃなく……」 「あなたは嫌だと表明したのでしょう? なのにやめてくれなかった。それはもうレイプという犯罪です」 「犯罪って……」  あまりのことに半笑いまで浮かべてしまう香乃子である。  窓のない小部屋の中で机をはさんで一対一で話している。何やら少し息苦しくなる。 「でも、安土先生は私に言われたからやってただけで……痛くて嫌だったけど……」 「痛くて嫌だったんでしょう。なのにやめないならレイプです。まして教師が未成年者になんて、とんでもないことです」  この人は一体何回〝レイプ〟という言葉を使えば気が済むのだろう。香乃子は少々腹立ちを覚えている。 「あなたは性暴力の被害者なんだとはっきり認識した方がいいと思います」 〝レイプ〟の次は〝性暴力〟である。  まだ始めたばかりだが個別カウンセリングは毎回この調子である。香乃子は不得要領な気分でカウンセリングルームを後にするのが常だった。  中園龍平と話してみたい。  そう思いついたのは、何回目かのカウンセリングを終えた帰りだった。あの青年の意見を聞いてみたかった。  そういえば、妊娠検査薬を買いに行って欲しいと頼んだ時にも辛辣な事を言っていた。  曰く、妊娠検査薬とはセックスした相手と買いに行く物であり、それを頼めないような相手とセックスしたのは自己責任だとか何とか……。  あの時は妊娠の不安で心が占められていたから気にする余裕もなかったが、今になってみればなかなかの正論だったと思う。  カウンセラーの〝レイプ〟発言についてはどう言うのだろう。  いや話を聞く以前にまず、岡山で命を助けてもらったお礼をしなければ。  あの時は取り乱しただけで感謝の言葉を全く述べていなかった。音丸には直接伝えたのに。  三学期の期末テストも終わり、予備校の入塾テストが待っている。その前に一度会いたい。そう思ってLINEをするのだが、既読スルーが続く。電話ももちろん出ない。  誠に卑怯ではあるが、龍平を必ず呼び出せる呪文は知っている。  会いたい意図とは大幅に異なるが、 〈会ってもらえないなら、柏家音丸さんが同性愛者だと公表します〉  また脅迫していた。  すると、やっと龍平から返信があった。 〈お好きにどうぞ〉  えええっ!?

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