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第23話 生まれ変わるには早過ぎる
午後の眠たくなる時間。先輩から回された内線電話を取ると受付からだった。
「セントテレジア女学館高校の芦田香乃子様がお見えです。中園さんにお会いしたいそうです」
「……今……行きます」
龍平は電話を切るなり「Fuck」と口の中で毒づいた。
首からぶら下げたIDカードをガードマンのいる入り口のセンサーに翳してロビーに出る。
受付前のソファに制服姿の香乃子がちんまりと座っていた。膝に学生鞄と三琳デパートの手提げ袋を乗せている。
龍平はその前に立ちはだかった。
「何か用?」
「ここって声が響くんですね」
と言う香乃子につられて、龍平も天井を見上げた。初音製薬の一階ロビー空間は三階分の吹き抜けになっている。
「岡山で助けてくださって、ありがとうございました」
香乃子は天井に向けて大きな声で言った。
「ありがとう」が広がりをもってロビーに響き渡った。その場にいる数人が龍平の方を見た。
残響が消えてから香乃子は満を持して三琳デパートの手提げ袋を差し出すのだった。
「お礼です。ネクタイ。私が選んだんです。ちょっと店員さんに手伝ってもらったけど」
礼を言って手提げ袋を受け取る。
そして手を差し出されたので仕方なく握手する。
女子高生は龍平の手を握ったまま何やらしみじみこちらを見つめている。
「何?」
「いえっ。中園さんと音丸さんの二人分入ってます。違うデザインだからどっちがいいか、お二人で決めてください」
握手を切り上げて、紙袋を覗き込めば細長く平たい箱の包みが二つ入っている。
「別々じゃなくて、二人まとめてのお礼なんだ?」
と少々嫌味な口調で言う。
けれど香乃子はいよいよ嬉しそうな笑顔で言うのだった。
「だって私はいつもお二人が一緒の時に助けてもらってます。岡山でも国立演芸場のそばでも」
思わずその顔を見つめてしまう。日に焼けた肌は浅黒く口元に覗く歯が真っ白である。実に健やかで颯爽とした女子高生ではないか。少しばかりボーイッシュでもある。
考えてもみれぱ龍平は芦田香乃子が窮地の時にしか会っていない。笑顔を見るのは初めてと言ってもいい。
ひたすら暗く見えた肌色が笑っただけで健康的に見えるのだから、人の印象などわからないものである。
だが龍平は意地悪く言っていた。
「君、今日は学校は休み?」
「生理痛で早退しました」
「よかったね。あの時、生理が来て」
と更に嫌味に言ってから、にわかに顔を背ける。
何故香乃子に顔を見つめられたのか気がついた。自分の顔は目が真っ赤で瞼が見苦しく腫れているはずである。
怪訝そうにそれを覗き込まれる。
「中園さん、目……どうしたんですか?」
「お茶飲みに行こう」
龍平は先に立ってロビーを出た。香乃子は慌ててその後を追って来る。
談話室瀧川は商談などのサラリーマンで混み合う時間帯だった。
女子高生と連れ立って来るにはいかにも場違いである。とはいえ、席の近いカフェでは落ち着いて話していられない。
龍平はまたブラックコーヒーを飲みながら香乃子の進路に関する話を聞いた。鹿児島か大阪の体育大学に進学して保健体育の教師になるとのことだった。
百合絵に勧められて心理カウンセリングにも通い始めたと聞いて、
「こっちこそカウンセリングでも受けたいよ」
などとぼやいてしまう。
「何かあったんですか?」
「……別に。ただ連絡がないだけ」
「連絡って、音丸さんから?」
「…………」
自分で言い出したくせに何も答えずブラックコーヒーを啜る。
音丸からずっと何の連絡もない。
岡山の楽屋で言い争った時から音信不通である。
もちろん翌日には謝罪のメッセージを送った。だが既読はつかなかった。
めげずにいつものように朝起きた時、出勤の時、昼食の時、帰宅の時、夜寝る時など毎日いろいろなメッセージを送った。
全て未読だった。
LINEはまるで開いていないらしい。
ならばとメールも送ってみたが、これはもう未読か既読かもわからない。
だが諦めてはならない。何度かそんな連絡の中に〈ごめんね〉〈あの時は悪かった〉等々の文言を含めたが何の反応もなかった。
岡山、松山、広島と回って旅の仕事はとっくに終わっているはずなのに何ひとつ連絡がないのだ。
思い余って電話もしたが出なかった。
個人のスマホだけではなく仕事用のスマホも使って見たが、どちらでも同じことだった。
そもそも音丸は二つとも番号は知っているのだ。龍平からと知って無視しているのだ。
結果、龍平は夜毎枕を涙で濡らしていた。
今更考えても詮無いことを考えて、輾転反側するばかりである。
そうとも。龍平は男のくせによく泣くのだ。
だから音丸に嫌われたのだ。捨てられたのだ。
だからといって涙が止まるものでもない。
ジェンダーバイアスのくそったれが!!
そして今、目の前にいる女子高生である。
思い出すだに忌々しいが、龍平は音丸に「女もいける口」などと疑われたのだ。この女子高生のせいで。自分は紛う方なきゲイなのにバイセクシャル扱いである。
土偶の様な目を見つめて香乃子はカフェラテを飲んでいる。
「だって……お二人はいつも一緒でなきゃ」
などと言われて龍平は促されるかのように、
「彼は僕と別れたいんだよ。特定の恋人とかうざいみたい。きっと自由に遊びたいんだよ」
と投げやりに言っている。
「いつも言うんだ。高卒の落語家と帰国子女の一部上場企業の社員なんて釣り合わないって」
「うそ。釣り合ってますよ。Otto&リューでしたっけ? 似合ってましたよ」
「駄目だ」
と龍平は手拭いを出して目に当てた。あっという間に涙が噴き出して来る。何て緩い涙腺なんだ。年下の女の子の前で。いい大人なのに。
あまつさえ自分は音丸とゲイカップル前提で愚痴をこぼしている。
目元を覆った手拭いに涙を染み込ませながら、
「悪いけど僕、彼の分まで受け取れないよ。これは君が直接渡してよ」
と受け取ったデパートの袋をテーブルの上に置いた。
室内はサラリーマン達の商談の声が渦巻いている。
紙袋はいつまでも受け取られない。
「音丸さんと別れたんですか?」
「別れてないよ。まだ!」
手拭いを外して食って掛かるが目の前に香乃子はいなかった。いつの間にか龍平の隣に座って心配そうに顔を覗き込んでいる。
「だから目が腫れているんですね」
と手を伸ばして龍平のIDカードの角がコーヒーに浸かっているのを救い出した。そしてナプキンでコーヒーを拭いている。
それを受け取って、
「僕が……初めて会った時にこれを……」
と胸ポケットに入れた。ストラップは首に掛けたままである。
「うちの会社、ビルの上にホールがあるんだ。そこで毎年落語会があって。彼が呼ばれて来たんだよ」
「いつですか?」
「今年の四月。僕が入社してすぐだよ。毎年アテンド役が新入社員の初仕事なんだってさ」
「それが馴れ初めなんですか」
「来客用のこれを彼の首に掛けてあげたんだ……」
「首に? 掛けてあげたんですか?」
香乃子は若干非難がましく繰り返した。
「ああ……やっぱりそうなのか。先輩にはお節介だって叱られたし。彼にはホモ丸出しだって言われた。後でね」
こっちは涙ぐんでいるのに香乃子はくすくす笑っている。
「ずっと連絡がないって……喧嘩でもしたんですか?」
「別に……。僕はすぐ泣くし。彼にはそういうところが気に入らないんだろう」
投げやりに言ってしまう。そして生ぬるくなって苦さが淀んでいるコーヒーを飲んだ。香乃子との関係を疑われたなどと言えるはずもない。
テーブルの上の手提げ袋を香乃子の前に動かして、
「だからこれは君が直接渡してよ」
「駄目です」
と香乃子はそれを押し戻す。
三琳デパートの袋を押したり戻したりしているうちに、ぽろりと言ってしまう。心が弱ると口もかなりに緩むらしい。
「最近、彼に関して変な噂がたってるらしい……」
「変な噂?」
「百合絵さんに聞いたんだ。学校公演の仕事がキャンセルになったんだって」
「小学校の時、講堂で落語家や紙切りの芸人が公演したことがあるけど。そういうの?」
龍平は手拭いでまた顔を拭って頷いた。涙は何とか治まっている。
「彼が女子高生に暴力をふるったって噂が流れてて。そういう落語家を学校公演には行かせられないって興行会社が別の落語家に変えたんだって」
「そ、そんなことがあるんですか?」
香乃子はカフェラテを飲み干してから、龍平の顔をまともに見た。唇にミルクの髭が付いたのを拭いながら思いついた。
「待って。女子高生に暴力って……もしかして私に何か関係がある? 国立演芸場のそばのこととか、岡山のホテルとか……」
「僕も断定はできないけど。女子高生と言われると、悪いけど君のことを考えちゃうよね」
「じゃあ私、音丸さんに謝らなきゃ。私のせいでそんな噂になってるなんて」
にわかにテーブル上の手提げ袋を掴むと胸に抱く香乃子である。
「直接彼に聞いたわけじゃないから、何がどこまで本当かわからないよ」
「じゃあ、直接聞いてください」
「だから……僕がかけても電話に出てくれない」
「なら私が電話します。番号教えてください」
とスマートフォンを取り出す香乃子である。龍平は改めて香乃子の顔を見た。
「君、何だか人間変わってない?」
「かも知れません」
香乃子はにんまり笑うのだった。
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