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第26話 飛躍の再生

 二人の男はカラオケボックスに残されてただ呆然とするばかりである。  龍平が残ったパンケーキをフォークで突ついていると、音丸はデパートの紙包みを開いてネクタイの箱を出している。当然のように二つとも開くと一つを龍平に差し出した。 「おまえの分だ」  龍平の前に置かれた箱の窓からは、臙脂で灰褐色のドット柄のネクタイが覗いている。  音丸は丁寧に包装紙を畳みながら、老緑に白と黒のストライプ入りのネクタイを眺めている。  確かに赤系なら龍平で緑系が音丸だろう。香乃子のセンスもなかなかだと感心している龍平とは裏腹に、音丸は箱を開けもせずにぼやくのだった。 「ネクタイの結び方なんか知らないぞ」 「でもスーツは持ってるよね? 着たことあるんでしょう」 「ネクタイはおかみさんや徳丸あにきに結んでもらってた」 「何それ?」  と龍平は腰を上げると、音丸の横に座った。  向き合って老緑色のネクタイを音丸の首に掛ける。けれど対面でネクタイを結んだことがないので手順がわからなくなる。 「ちょっとそっち向いて」  音丸にこちらに背中を向けるように座らせた。その背後に立って両手を前に回す。  二人羽織という遊びがあるが、それに近い形である。音丸の肩の上から回した両手でネクタイを取って、自分で結ぶ時のように胸の前で手を動かす。  音丸は身を固くして、されるがままになっている。  不埒な心がむくむくと沸き起こる。殊更に背中に身体を密着させて頬を摺り寄せようとした時、音丸の右手が動いた。  指先で天井を示している。つられて上を見れば、丸いボールのような監視カメラが付いている。  密閉されたカラオケボックスで猥褻行為に及ぶ不逞な輩を監視しているわけである。  何やら腹立たしく思い切りネクタイを締め上げてしまう。 「締め技か⁉」  と眦を吊り上げて振り向く音丸である。黒いトレーナーのハイネックを老緑のネクタイが締め付けていた。 「緩める時は、ここを持って……」  と結び目に指をかけると音丸の細い指がそれに重なった。ネクタイの締め方は知らないくせに、解くのは大好きな男である。  思わせぶりに指を絡められて、改めてちらりと天井を覗えば、Bravo! 死角である。  互いの視線が絡み合い、ここぞとばかりに顔を寄せる。  唇が唇に触れようとした瞬間、 「すまん音丸! 遅くなった!」  とんでもない大声と共にドアが開けられた。  四角い顔の男がガラガラとうるさい音をたててスーツケースと共に入って来る。  音丸の兄弟子、柏家徳丸(かしわやとくまる)である。ここで稽古をつけてもらう予定だったのだ。  秒速で音丸から離れて龍平は自分の席に戻った。臙脂色のネクタイをビジネスバッグにしまうなり、 「それじゃ、僕はこれで失礼します」  と音丸と徳丸の二人に向かって頭を下げた。 「音丸さん。次回の〝英語de落語会〟もよろしくお願いします」  そう言ってドアを閉めた。あながちそれも嘘ではない。  前回の〝英語de落語会〟からもうそれだけの時間がたっているのだった。本気で次回の打ち合わせをする必要がある。  木曜日の夜。  祖父の応接室で香乃子は再度あの動画を見る羽目になった。  実はカラオケボックスであの映像を見せられた夜、また悪夢にうなされるのではないかと怯えていた。だが、あにはからんや熟睡できた。  眠る前に龍平とメッセージ交換をしたせいもある。待ち合わせについてまた連絡が来たのだ。 〈何度も言うけど、本当に香乃子ちゃんの気が進まないなら、いつ断わっていいからね〉 〈全然大丈夫!〉  金メダルでVサインをしているスタンプも送った。  すると親指を立てたチビドラゴンのスタンプが返って来た。  中園龍平のアイコンは小さなドラゴンなのらしい。  何故かにこにことその絵を見ながら眠りに就いて、爽やかに目覚める香乃子だった。  祖父宅の応接室には98インチのディスプレイがあった。会議用だが香乃子にはまるで学校の黒板のような大きさに感じられる。  そこに自分の裾振り乱して血相変えた長襦袢姿が映ったのだ。  音丸のスマートフォンを繋いで大画面で見られるようにしたのは叔父だった。  最初から最後まで見て祖父は言ったものだった。 「香乃子は何でまたこんな剣呑な事になったんだい?」 「それは……」  香乃子はすっかり冷たくなっている紅茶を一口飲んだ。  音丸や龍平を引き連れてこの家を訪れた時、玄関先に現れたのは母だった。まるでここが自宅であるかのように、 「あら、香乃子。お帰りなさい」  などと言うのだった。ノー残業デーの一族フレンチをしていたらしい。  応接間に案内してくれたのは古くからいる家政婦だった。  グランドピアノのあるこの部屋は、兄が音大受験の時から入り浸っているせいか、楽譜や文具の他に漫画だのゲームだのが雑然と置かれていて(家政婦も片づけるのを憚っているのだろう)妙に生活臭に満ちていた。  香乃子が幼い頃は、古い緞通が敷き詰められシャンデリアが下がったこの部屋は、何やら重々しくも恐ろしい雰囲気の部屋だったのに。母や伯母に言わせればシックでレトロな設えらしい。  ともあれ、祖父と叔父は一人掛けのソファに座り、テーブルをはさんで長椅子に龍平、音丸が隣り合っていた。それぞれに脂色と老緑色のネクタイを締めている。  そんな二人を香乃子は少し低い位置から眺めている。  オットマンに膝を抱えて座っているのは「カンコちゃんのお椅子」と幼い頃に従姉妹たちに定められた定位置だったからである。  二人の男は香乃子が地下鉄駅に迎えに行くまで、改札外で人一人分の隙間を作って待っていた。  まるでその隙間に香乃子が入るのを待ちかねているかのようだった。  香乃子の先導でこの屋敷に近づくにつれて、二人の隙間は狭まって行った。  長い塀に沿って歩いているうちに、 「もしかしてこの塀の中……全部が香乃子ちゃんのおじいさんの家?」  と龍平は音丸にぴったり身を寄せて言うのだった。  しまいには糊で接着された人形のように、二人一組で玄関に入って来るのだった。 「この玄関て……僕んちと同じ広さだ」  いちいち龍平の言葉は呟くように間が空いて、音丸は黙って頷いているようである。  そして今、香乃子は馴染んだオットマンで膝を抱えるようにして、安土音也という音楽教諭の仕打ちを話すのだった。着物の帯を解かれて振袖を剥ぎ取られ、吹き抜けの中にぶら下がるまでの経緯である。  これは既にカウンセリングでも話している。  過去の出来事は何度も繰り返して話すうちに自分の中で印象が変わって上書きされるものらしい。  特に専門家のサジェスチョンがあれば、単なる思い込みが正しい筋道へと変換される。  たとえば安土音也との初めてのセックスにしても、最初は愛の行為と思っていたのに、繰り返し思い出しては語るうちにカウンセラーが示唆するように性暴力と思うようになっていた。  今また吹き抜けでの出来事を語るうちに、窮地を脱するために自分がどれ程の勇気を奮ったか思い知るのだった。  自分にはそれだけの精神力も体力もあったのだ。  そして単なる知り合いに過ぎない二人の男性が、自分を救うために命を懸けてくれたことにも改めて感謝する。  生半可に出来るものではない。  勇気ある紳士にのみ可能な行為だろう。  そんなことも含めて吹き抜けの受難を祖父に語っているのだった。  祖父は腕を組んで眉間に深い皺を刻んでいる。  叔父はそんな祖父と香乃子とを見比べている。 「音丸さんと龍平さんは、たまたま同じホテルに泊まっていて私を助けてくださったの。女子高生に暴力をふるったのは落語家じゃない。安土音也という音楽の先生なの」 「それで香乃子は朝食の時、食堂で足を引きずっていたのか」  祖父は一人で頷いている。  唐突に香乃子は目頭が熱くなるのを覚えた。家庭内で左足の捻挫についていたわってくれたのは祖父だけだった。あわてて手でごしごしと両目をこする。  そして祖父は音丸と龍平を順番に見やって、深く頭を下げた。 「あなた方は孫の命を助けてくださった。お礼を申し上げます」 「いいえ。とんでもないことでございます」  祖父よりももっと深く頭を下げる落語家である。  今度は祖父は大画面に目をやった。 「それにしても、この場面を撮影した人がよく居たものですね」  最初に戻って停止している画面には唐草模様の黒い手摺りばかりが映っている。 「偶然撮ったにしては出来過ぎている。全てが仕組まれたお芝居とも思えますな」  音丸は頭を下げたままである。龍平は驚いて祖父を見つめている。 「孫の命を助けたんだから金を出せ、と強請ることも出来ますな」 「おじいちゃん!!」  香乃子は悲鳴に近い声で叫んで立ち上がった。 「あるいは、嫁入り前の娘がこんなはしたない格好をしている。拡散されたくなければ金を出せと脅迫も出来ますね」 「やめてよ!! 言ったでしょう!? 音丸さんや龍平さんはそんな人たちじゃない!」  香乃子は祖父を睨み付けている。  くすくす笑い出したのは頭を下げたままの音丸だった。 「なるほど。そう受け取られる可能性もありますね。そこまでは思いつきませんでした」  逆に龍平は珍しく鋭い目で祖父を睨みつけている。 「失礼ですが、会長。それでは香乃子さんも我々の共犯者だとおっしゃるんですか?」 「おい」と音丸がたしなめる低い声が聞こえた。けれど龍平の言葉は止まらなかった。 「確かに会長にとっては、我々はどこの馬の骨かわからない者でしょう。でも香乃子さんは……お孫さんは被害者なんです。お芝居なわけないでしょう。ご覧のような、本当にひどい目に遭ったんですよ」 「では、一体何故こんな映像が残っているのですか?」  それが祖父の反論だった。

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