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第27話 そして先へ行く

⒓ そして先へ行く  大きなため息をついたのは音丸だった。片手で顔をこすりながら、 「知り合いが同じホテルに泊まっていたんです。騒ぎを聞きつけて動画を撮れば、テレビ局にでも売れるかと思ったようです」  と、ため息をついた。 「まあ、私が買ったわけですが」 「ええっ!?」  龍平が音丸から身を引いて、その横顔をまじまじと見つめている。 「この映像、買ったの!? だって助けにも来ないで、お金まで? あの師……知り合いは何なんだ!」 「あの人は、しわい屋なんだよ」 「何それ?」 「ケチ」  くすくすと笑い声が聞こえるのは、祖父だった。 「吝嗇家、赤西屋……とも言いますな。いや失礼。香乃子のためにお金まで出してくださいましたか。それは誠に失礼しました」  妙に楽し気に音丸と龍平を見比べている。そして叔父に向かって言うのだった。 「音楽教師だそうだ。香乃子の学校の。すぐに調べなさい」 「はい」頷く叔父に、香乃子は言葉を添えた。 「もう学校は辞めてる。安土音也。今はキリエ・カルテットのピアニストとして働いている」 「わかったよ、香乃子ちゃん。いろいろと大変だったね。無事でよかったよ」  半白の髪の叔父にまっすぐ見つめられて、またも香乃子は涙をこぼしそうになる。  何故一緒に暮らしている父母が言わない事を、違う家に暮らしている親戚に言われるのだろう。喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。  初めて会った時、龍平が自分の評判はどうなってもいいから音丸だけは庇いたいと言った時に、この上もない苛立ちを感じた原因はここにあるのだった。  叔父は立ち上がると「失礼します」と二人の客に頭を下げて部屋を出て行った。  音丸も龍平もただ唖然として、そのやりとりを眺めていた。 「ちなみにこの映像はおいくらで購入されたんですか?」  祖父は既に財布を取り出している。 「いや、いえいえ。結構です。それはお構いなく」  音丸は激しく手を横に振っている。 「そうですか」と祖父はすんなりと財布をポケットにしまった。多分後で何らかのお礼はするつもりだろうと香乃子には思えた。  しばらく応接室には暖房の微かな機械音しか聞こえなかった。 「あの噂はわが社にとっても好ましくないものです。場合によっては風評被害で訴訟も考えております」  厳かに祖父が言い出してから、香乃子はようやくまたオットマンに腰を下ろしかけたが、 「香乃子はこっちに来なさい」  と今まで叔父が座っていたソファを示されて、そちらに移動した。  香乃子が祖父の腕に触れると、その手をぽんぽんと軽く叩かれるのだった。 「ただ、拡散されて独り歩きを始めた噂をきれいさっぱり消せるかとなると……努力はしてみますが、お約束は致しかねます」 「充分です。ありがとう存じます」  音丸と龍平が揃って頭を下げた。 「他にご希望はありますか?」 「希望とおっしゃいますと?」 「大きなホールで独演会を開きたい。全国ツアーをやりたい。テレビで冠番組を持ちたい。何にでも力をお貸し出来ますが」  音丸は静かに首を横に振った。 「それは結構です。お願いしたいのは噂の件だけです」  隣に座った龍平も力強く頷くのだった。  祖父が笑って立ち上がった。音丸と龍平も立ち上がり、また深く頭を下げた。祖父はまた香乃子の腕を軽く叩いて、 「まだみんな食堂でデザートを食べているはずだよ。香乃子もみんなと食べて行かないのかい?」  と尋ねる。  香乃子は静かに首を横に振った。 「ここは家じゃないもん。おじいちゃんや叔父さんちだもん。ご飯は自分ちで食べる」  三人で祖父の家を出た。玄関で靴を履きながらまたもや龍平が音丸に囁いている。 「ここ、うちのワンルームがすっぽり入るよ」  確かにこの家の玄関はワンルームアパートの一室よりは大きいだろう。昔から香乃子はこの玄関は自分の部屋よりずっと広いと思っていたからその気持ちは理解できた。  玄関を一歩出ると外には冷たい風が吹いていた。香乃子は両腕で身体をこすりながら、駅まで送ると言ったが、 「いやいやいや。逆でしょう。僕らが香乃子ちゃんを家まで送るから」  と龍平は香乃子の背中に掌を当てるのだった。  そのふわりとした感触に妙に心が温まる。  既に昨日から気づいていた。  龍平や音丸と意識して握手をしたのだが怖さは感じなかった。  以前の激しい男性恐怖症は薄れている。  二人に家まで送ってもらう。  人通りも途絶えた道である。長い塀の横を等間隔に街灯が続く。アスファルト道路に三人の影が長く伸びている。香乃子を中心に歩いていた。  やがて道は新興住宅地へと到る。立ち並ぶ家々のサイズが小さくなっている。ラポール・ファミリオ・グループの会長宅と比べるとまるでミニチュアである。その中にあるのが芦田家だった。  家の前で立ち止まり、駅には来た道を逆に辿ればいいとまた説明してから、 「音丸さんは本当に、独演会とかテレビ番組とか頼まなくてよかったんですか?」  と音丸の腕を取る香乃子である。 「いいんです。それとこれとは別です」 「別?」 「今回の噂は、あなたと音楽教師二人のせいです」  と断言する音丸に龍平が、 「その言い方」  と注意するが香乃子は逆に頷いていた。そして龍平の腕も取った。 「音丸さんの言う通りです。私や安土スケベのせいであり得ない噂がたった」 「ですから噂を鎮めるのにおじい様のお力をお借りするのはありかと」 「でも、お仕事は違う?」  音丸はにやりと笑って頷いただけだった。 「まあ、プライドはあるよね。未来の名人としては」  言葉を足すのは龍平だった。  音丸は余計な事を言うなとばかりに龍平の脇腹を小突いている。 「そういうことしないで、ちゃんと龍平さんと手をつないでください」  と、たしなめる香乃子は既に音丸や龍平と手をつないでいるのだった。 「龍平さん、あの時真っ先に駆け付けてくださってありがとうございました。  音丸さん、あの場に一緒に居てくださってありがとうございました。  お二人がいたから私は命を救われました」  卒業式の送辞もかくやという名調子である。  またも目には涙が浮かんでいたが言葉を途切れさせることはなかった。 「どういういたしまして」  音丸は仕方なく香乃子の手を握り返した。 「だからもう喧嘩しないでください。一緒にいるから仕方なく仲良いふりをする人は嫌いです。一緒なら、ちゃんと仲良くしてください」  香乃子はもう一方の手にも力を込めた。龍平は笑って、 「一緒にいるから仕方なく仲良いふりするって……倦怠期の夫婦?」 「ごめんなさい。そういう意味じゃなく」  龍平はもう一方の手で逃げようとする音丸の手を強引に握り締めて、三人は輪になった。 「大丈夫だよ。僕たちは仲良しだよ。ねえ、音丸さん?」 「…………」 「音丸さん!」  龍平は強く音丸の手を引き、香乃子を抱き寄せ、三人で抱き合った。何かの大会で優勝したチームのようである。  一体何の大会やら?  4LDKの自宅では父がダイニングキッチンでぼそぼそと夕食をとっていた。母が持ち帰って冷凍してある田端さんの料理と市販の冷凍食品とを適当に電子レンジで温めた食事である。  香乃子は幼い頃から両親を見て夫婦とはこういうものだと思って来た。  母は暇さえあれば、あの広い実家に帰っている。両親が直接言葉を交わすことは殆どなく、話す必要が生じれば兄か香乃子の口を介して言わせる。  つきあいが半年のゲイカップルでさえ互いを思いやっているのに、これが長年連れ添った夫婦かと哀しくなる。 「香乃子。夕飯はいいのか?」  父が尋ねるのに、いらないと答えて二階の自室に上がる。部屋に入って鍵を掛けた。  なるべくここより遠い場所に進学する。となれば鹿児島にある国立体育大学しかないのだ。  さっそく机に参考書を広げて受験勉強を始めようとして、ふとスマートフォンを取り出した。  また祖父に電話をかける。ノー残業で帰る日は、祖父は家族で夕食をとるとすぐ床に入ってしまう。朝早く起きた方が仕事が捗るなどと言っている。  案の定、電話に出た祖父は眠そうな声をしている。 「あのね、おじいちゃん。さっきの柏家音丸さんのことだけど……」 「ああ。もう伯父さんの部下が動いてくれている。心配しなくていい」 「ありがとう。それとね……」 「何だ、香乃子。おじいちゃんはもう布団の中だ。眠いんだぞ」  少し前までなら、真垣宗太郎にこう言われたら香乃子は電話を切っていたはずである。 だが、今夜は「ごめんなさい」と謝っただけで話は続けた。 「音丸さんはやっぱり、あのこと以外は助けてくれなくていいって言ってた」  と確認せずにはいられない。 「わかっているよ。あの男は放っておいても、いずれ出て来る。小うるさい評論家どもが未来の名人とべた褒めじゃないか」 「うん。すごく落語が上手なんだ。エフ分の一のゆらぎがある声なんだって」 と我が事のように自慢してから香乃子は少しためらって口を開いた。

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