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第28話 そして先へ行く
「……それでね。私、セントテレジアの大学部に進まないで他を受験することに決めたんだ」
「ああ。香織に聞いた」
香織とは母の名前である。ちなみに伯母は詩織である。
「女の子も家を出て一人暮らしを経験すべきかも知れないな。おじいちゃんやおばあちゃんが詩織や香織をお嫁に行くまでずっと家に置いたのは、間違いだったのかも知れない」
香乃子は口を開けたまま何も言えなくなっている。
実家に入り浸ってこの家に戻ってこない母について、祖父は祖父なりに反省しているらしい。
「香乃子は好きにするといい。何なら海外留学でもするか?」
「え? それはちょっと……」
と目を泳がせてトレイの中に埋まっているエアメールの封筒に気がつく。
何気にそれを指先で摘み出した。マダガスカルからの同級生の手紙だった。まだ何の返信もしていない。
「鹿児島の体育大学を受けるんだろう。香織……お母さんは、大学関係者に伝手があれば、香乃子を合格させてやって欲しいと頼んで来たが……」
「待って! 違う! おじいちゃんは何もしないで!」
慌てて声を荒げると、電話の向こうで祖父は笑った。
「香乃子は自分の実力で入りたいと言うんだな?」
「うん。私、頑張って受験するから。おじいちゃんは黙って見ていて」
「わかった。何もしないよ。合格したらお祝いしよう」
「ありがとう。おじいちゃん大好き!」
弾んだ声で言うと「おやすみなさい」と電話を切った。
記憶にないほど昔、口癖のように「大好き」と言っていた気がする。
「お母さん大好き」「お父さん大好き」「お兄ちゃん大好き」等々。
いつからそれが言えない家庭になったのだろう。
自分が悪いと思い込んでいたが、果たしてそうだったのだろうか。
そんなことを思うとまた涙が滲む。
今日はいろいろな人に「大好き」を言う日だった。実は龍平にも言ったのだ。
あのカラオケボックスで音丸が来る前に、二人で一つのパンケーキを分け合って食べた。龍平はネクタイも緩めワイシャツの第二ボタンまで外していた。
「美味しいね。僕が思ったほどしつこくない」
「でしょ。甘さが軽いから」
などと言い合っているうちに、何故か口から言葉が漏れ出たのだ。
「私、龍平さんが大好きです」
瞼が腫れた龍平は、きょとんとした顔で香乃子を見た。
「ありがとう」
と言いながらポケットを探ったのは、手拭いを出したのだった。「付いてるよ」と香乃子の頬に付いたクリームを拭い取ったのだ。
「だから、惚れてまうやろーっ!」と古いギャグを叫んでしまいそうになる。とりあえず冷静に言ってみる。
「私は龍平さんが大好きでキスしたかったの」
「無理」
「そんなに即座に否定しなくても」
「ごめん」
「恋人になりたいって思ってた」
憧れていた音楽教師の醜態を知った時、龍平が現れたのだ。
自分を卑猥な目つきで見ない初めての男性であり、悩み事も誠実に聞いてくれた。恋心を抱くのは当然だろう。
けれど決して女性には魅かれない男性だからこその恋心でもあったのだ。男に傷つけられた香乃子としては当然かも知れない。
心の動きというのは実は案外理に叶っていたりする。
「でも今は違う。恋人じゃなくていい」
「そうなんだ?」
と何がなしほっとした表情の龍平である。香乃子にしてみれば小憎らしい。
「今はただ友達として大好きなんです」
「ありがとう」
二度目である。気まずいのかしきりにアイスティーを飲んでいる。
「友達としてキスして欲しいんです」
ストローがずずっと音をたてた。「失礼」と龍平は空のグラスをテーブルに置いた。
「日本にはそういうキスないから。お辞儀という美しい作法がある」
と小さく頭を下げて見せた。
「それにもう彼に言われたくないし。あの女の子と、どういう関係だって」
「えっ! そんなこと言われたんですか?」
「陰険なんだよ、あいつは。嫉妬深いしさ。自分は地方で遊んでるくせに」
「遊んでるんですか?」
「……と僕は睨んでる」
「やだっ。音丸さんてそうなんだ?」
と女子会に突入した次第である。
恋の鞘当てで香乃子が音丸に負けたと思ったのはネクタイである。二人でカラオケボックスに入った時には龍平はネクタイを思い切り緩めていた。
なのに音丸が来た途端に締め直したのだ。やはり音丸の前ではきちんとした格好でいたいのだろう。
二人が似合いのカップルであることは否めない。
それでも少し寂しい香乃子なのだった。
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