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第9話 桃

 エントランスを通り過ぎて、エレベーターホールに来た。 「ねぇ、君のことなんて呼べばいいかな」  こういうシチュエーションでいきなり名前を聞かないあたり、紳士なのか、手慣れているのか。 「僕は…レオと言います…お兄さんのことは何て呼べばいいですか」  お兄さんは軽く握った手を自分の口元に当てると何か閃いたような顔をした。 「俺ね、誰かからお兄さんって呼ばれたことがなくて、今レオ君がお兄さんって言ってくれたの、すごく新鮮だった。俺のことお兄さんって呼んでもらってもいいかな」  はいはい。結構ですよ、お兄さん。 「はい。じゃあお兄さんって呼ばせてもらいますね」  俺はとびきりの笑顔で言った。  エレベーターの扉が静かに開いた。お兄さんは何階のボタンを押したのかは見えなかったけど、間違いなく高層階だ。静かに到着チャイムが鳴り、扉が開いた。内廊下を曲がったすぐの場所にお兄さんの部屋があった。時間帯にもよるんだと思うけど、人の気配が感じられない。部屋と部屋の扉の間隔が広すぎる。ここにお兄さんは住んでいるのか?いけない大人の遊び場だったりして。妄想は絶えない。  お兄さんは部屋の扉を開けて俺を中に入れた。玄関から奥の部屋に続く廊下は真っ白な大理石…だと思う。硬くて冷たくて特有の模様だし。玄関と廊下の段差もほぼ無い。お兄さんは自分のスリッパと俺の分を廊下に置いた。皮のスリッパだ。スリッパじゃなくルームシューズっていうんだな。この先はなんとなく想像ができる。リビングには大きなソファーがあって、その床には毛足の長いラグが敷いてある。大きな壺に杖みたいな棒が入れてあったり、ヘルメットみたいな傘のフロアーランプがあったり、色々想像していたけど、ほぼ壁一面のガラス窓からみえる夜景は想像以上だった。 「どうぞ座って」  促されたソファーは一旦座ると、立ち上がるのに一回の動作では到底無理な代物だ。 「ちょっと着替えさせてね」  お兄さんはリビングの隣りの部屋の扉を開けた。チラッとベッドが見えた。しばらくすると、着心地が良さそうなルームウエアに着替えたお兄さんがソファーに来た。 「レオ君は、お酒はどう?」 「僕、お酒はあまり強くないんです」  嘘です。お酒大好き。ちょっとだけ警戒。お酒に何か入れられることはないと思うけど、前回のゆすりまがいのデートのこともあったから。それに、もしお兄さんといいことができるんだったら、絶対シラフでしたいしな。 「じゃあ、レオ君こっちにおいでよ。果物だったらいいでしょ」  ソファーに2回手を付いて立ち上がり、お兄さんの後についていったところはキッチンだった。やっぱりここでは住んでないみたいだ。生活臭というのが全くしない。お兄さんは冷蔵庫を開けて何かを出していた。 「テーブルのどこでも好きなところに座って」 「はい。ありがとうございます」  お兄さんはソフトボールくらいある桃を二つガラスの皿に入れて持ってきた。 「美味しいんだよ、これ」  でしょうね。そう言って手に持たされた桃は冷んやりとして重さのある物だった。 「ねぇ、桃の美味しい食べ方って知ってる?」 「僕、缶詰しか食べたことないから」 「じゃあ、教えてあげるよ」  お兄さんは椅子に座った俺の後ろに回り、桃を持った俺の左手を包むように手を添えた。柔らかい手だ。 で、俺の右手にも同じように手を添えて人差し指だけを摘むようにして持った。 「いいかい?桃はね、とってもデリケートな果物だから、そっとそっと優しく剥いてあげるんだよ」  お兄さんの優しい声で言われると、桃がいやらしい果物に見えてきた。 「ここに割れ目があるだろ?この割れ目に沿って、ぐるっと一周ナイフ入れるんだよ」  お兄さんは俺の右人差し指で、桃の真ん中の凹んでいる部分を一周なぞらせた。そして俺に小さめのナイフを持たせて、その手を包み込んだ。お兄さんの手は大きいし、指も長い。 「いくよ。割れ目にナイフを刺してみて…そう、真ん中にある種に当たるまでね」  桃は完熟なんだろう。すんなりとナイフが入った。お兄さんはゆっくりと桃の凹んだ部分にナイフを進めるよう俺の手を誘導した。種を感じながらナイフで一周すると、ナイフを置いた。 「いいかい。ここからが大切なんだ」  お兄さんは切り込みを入れたところを真ん中にして桃を両手で包むよう俺に持たせた。 「そっと、だよ。そっとひねるように回して。優しく持ってね」  切り込みの部分を中心にして、そっとひねっていると、種と実を引っ付けている繊維がちぎれてミチミチと小さな音を立て始めた。 「そう、上手だよ」  お兄さんは優しく俺の手を包んだ。なんだか俺の手がまるで桃になったように思えてくる。するとひねっていた桃が急に軽く擦りあった。桃を半分に分けた。白い果肉の中に擦れて爛れたような赤い種があった。お兄さんは分けられた桃の種が付いていない方の半身の皮に少し切り目を入れて、ナイフを当てながら皮を引っ張ると、つるりと綺麗に皮が剥けた。その実はお尻のようにぷりっとして、とても可愛く見えた。 「さぁ、どうぞ。このままかぶりついてみて」 「うわぁ、美味しそう。いただきます」  たぶん、俺の人生初の桃のかぶりつきだ。

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