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一体どうなってんだろ、とピエールは3本目のボイラーメーカー、というか半分干したクアーズの缶にオールド・クロウを注いだ飲み物を啜りながら、訝しげに首を傾げていた。ダフィットから電話で聞いた話だと、てっきり「シャハブのやらかし調査検証委員会」が開かれると思っていた。なのにアパートへやってくれば、待ち構えていたのすっかり萎れたテヘランの薔薇、それから腕組みして苦虫を噛み潰すくそったれアーリア人と来ているのだから。
「でも、今時、ポルノ撮影の現場に彼氏同伴で行くなんて時代でもないし」
「だから、ポルノじゃないってば」
膝の上に乗せた手をくねらせながら、シャハブは必死に言い募る。
「つまり……ああ、説明が難しいな」
「さっきアドレス送っただろ」
低く籠ったドイツ訛りはそうでなくても聞き取りにくいのに、不機嫌を増していると字幕が欲しいレベルで不明瞭さに拍車が掛かる。己の脇へ潜り込む姿勢のまま縮こまるシャハブの肩でとんとんと指を跳ねさせ、ダフィットは鋭く目を細めた。
人を縛ることをアートとか抜かす馬鹿だから、これ以上引き伸ばそうとしたら、パンチの一発くらいお見舞いされるかもしれない。このブロンド野郎は高慢そうな顔立ちから想像されるよりは好人物だし、いつまで経ってもあどけない風貌の恋人を手中の珠のように愛でている。が、体格も年齢もそれほど変わらないピエールには全く遠慮というものを知らなかった。
溜息をつき、ピエールは大柄な男が暮らす家の中で、数少ない小さなものであるガラスのコーヒーテーブルへ手を伸ばした。
「何? 俺ポルノサイトはXビデオしかアカウント登録してないんだけど」
「それはダークウェブで見つけてきた動画だ」
「お前、ただですらアングラな職業選択してるんだから、これ以上ディープなところに潜らないほうが良いと思うよ」
これウイルス添付されてないだろうな、と疑惑が頭をもたげたのはスマートフォンのポップアップを開き、テキストツリーのアドレスをタップしてからの話。いつもそうだ。考えるより先に行動してしまう。そして己のこの特質は、世間だと温厚なことで定評のあるマーヴィンの癇へ、絶妙に障ってしまう事があるらしい。
そんな時は、そっとしておくに限る。今回の旅行も、笑顔で送り出した。好きな人に機嫌よく過ごして欲しいと考えるのは当然の話ではないか──それがどうして、こうも訳が分からない事態へ陥るのだろう。
流れ始めた動画は暗く、再生環境に問題があるのかと一瞬疑ってしまった。だが目を凝らして観続けていれば、ただ単に撮影者が下手くそなだけだと分かる。或いは、わざと明度を落としているのか。はっきりと見えないようにする為に。
この動画は、出来る限り被写体の匿名性を保とうとしているらしかった。音声はない。数少ない照明は恐らくこの動画を撮影しているカメラに取り付けられたもので、日焼けした肌に反射している──多分、白人だ。本当に、それだけしか分からない。顔も何かで覆われているようだった。快傑ゾロのような目元を隠すマスクだろうか。
それは恐らく、男の体を拘束しているものと同じ素材に違いない。
男は天井から吊るされているらしかった。ダフィットがポーンハブで公開しているシリーズの変化球。暗褐色の平たいゴムバンドを思わせる帯は、腕を括り上げて頭上で一まとめにしている。左右から伸ばされた分は引き締まった胴体に巻き付くことで、身動きを厳重に封じる。唯一ばたつく事を許された足の爪先が、真っ白い床から5インチほどのところで、無様に伸びたり丸められたりしていた。くりくりとよく動く踝に彫られた赤いタトゥーの龍が、きゅっと締まった腰に向かって今にも昇っていきそうに躍動する。
「アジア式って言うの? こう言う極彩色なタトゥーってエロいよな。俺もマーヴィンに入れて欲しいんだけど」
「良いから最後まで観て」
何度か同じ現場へ入ったことのあるマーヴィン曰く、ポルノスター時代にはかなりえげつない仕事もこなしていたらしいシャハブが、心底の嫌悪と怯えに顔を染めている。と言うことは、よっぽどハードコアな作品らしい。スカトロ系だったら嫌だな、と思いながら眺めていたら、ようやく事態が動き出す。
ゆっくりと引っ張るようにして、太腿に絡んでいたそれが男の股を割る。しばらくの間、背後から潜るようにして伸びてきた新たな数本が、下肢でこちょこちょと蟠っていたが──どういう仕組みなのだろう? 視覚効果を施しているにしては、這い回った肌の上に残るぬめりがリアルだ。それに目を凝らせば、この帯はまるでミドリムシのように、無数の毛か足を裏側に持っているようだった。ライトを受けて、透き通るようなそれがわさわさ動いているのが見てとれる。
狼藉者がペニスの裏に回ると、男の抵抗は一層激しいものとなった。ぎしぎしと肩から揺さぶられる腕を戒める帯の力が強まり、前屈みの体を真っ直ぐに引き伸ばす。
次の瞬間、帯はアナルを真っ直ぐ貫いた。勢いは激しく、腹から胸に向かって、ごぼっと蜘蛛の巣を思わせる青紫色の血管が浮かび上がる。仰け反った喉が膨れ上がったと思ったら、天井へ向いて開かれた口から先端が飛び出し、少量のピンク色をした粘液を辺りへ噴き散らした。
「うわっ」と結構本気の悲鳴を上げてしまったのは許されて然るべきだろう。そのままう蟲がうにょうにょと顔を這い上り、眼球をほじくり始めたところで再生停止をタップしたのも、人間として当然の反応だ。
「駄目だよ、俺こんなのじゃ抜けない……ああ、『ぞうのババール』を読んでたら、いきなりババールが股間の象さんをパンパンに腫らして、親切な金持ちおばあさんの服を引きちぎるシーンが出てきたみたいな気分だ」
「ババールってアルジェリア闘争の暗喩だっけか」
「黙れよ、ダフィ。それにしても凄いVFXだな」
テーブルの上で置いてけぼりを食らっていた、クランベリージュースのソーダ割りを取り上げ、シャハブはまず己の唇を湿した。肉感的な粘膜が血を啜ったような色へ染まり変わり、動きの鈍い舌が言葉を紡ぐまで、痛いような沈黙が室内を支配する。
「それ、本物だと思うんだよね」
「まさかあ!」
思わず目を剥くピエールに、追撃はぽつりぽつりと重ねられる。
「僕だってちょっとはポルノ業界の水を飲んでたからね。中には本当に酷いのもあった。ベッドで大の字に縛り上げられて、いきなり豚の臓物を全身へぶちまけられたりとかさ」
「あれ観たよ。本物使ってたのか、暴れまくって絶叫してたのガチだったんだ」
「こう言う撮影って、意外と特撮が難しいんだ。血糊ですぐギミックが壊れたり、特殊メイクが剥がれたりするからね」
まるで再び顔へはらわたをぶつけられたよう己の肩を抱き、シャハブはぶるりと身を震わせた。
「ましてやカメラ一台をずっと回しっぱなしにしてのワンカットだなんて」
「CGだろ?」
「このレベルの効果を付けるよりも、本当に殺っちまった方がどう考えても安上がりだよ。大体、何もないなら、俺達だって口を挟んだりしないさ」
ダフィットが検索して表示させたのは、そこそこ有名なゲイ向けの情報発信ブログだった。でかでかと表示された「カタルーニャの種馬、消息を断つ」との見出しに続いて表示される男優の写真は、背中から尻にかけての見事な筋肉を誇示するよう、後ろ向きに身体を捻って白い歯を見せびらかしていた。踝に刻まれているのが龍のタトゥーだなんて、幾らなんでも出来過ぎている。担がれてるんじゃないかと、その時ピエールは本気で思った。
「世の中ふざけていい時と悪い時があるぜ」
「わざわざ冗談を言う為に呼び出したりなんかしない。こっちだって暇じゃないんだ」
ダフィットが真顔でそう答え終わる前に、ピエールは両手で顔を覆っていた。閉じ込められた溜息のホップ臭さ、そうでなくてもここのところ、不規則な生活のせいで胃が荒れているのに。
「で? この動画とマーヴィンがどう関係してるって?」
「最後から20秒くらいのところを見て」
シャハブが言う通りの位置にスクロールバーを持っていけば、そこにもう人はいない。よく分からない、血まみれの肉塊と化した部品の数々が、床へ積み上げらている。
だから、カメラがブレた際、画面の左側に、ちらりと人影が映り込んだ時は、いっそ安堵してしまった。恐らく一部始終を、傍らで見守っていたのだろう。赤黒く汚れた顔は一瞬掠めただけだが、その男が笑みを浮かべていると、即座にピエールは理解した。
「スロー再生して確認したんだけど、その血まみれになっている人、アールって言う元ポルノスターで……マーヴィンが今会ってるカメラマンの彼氏なんだよね」
「嘘だと言ってくれよ」
普段からユーモアのセンスに溢れ、とにかく口八丁で見事世の中を渡り歩いてきたと自負していた。そんな己が、食い縛った歯の奥からそう漏らすことしか出来ないなんてこんな状況、全く忸怩たる話だとしか言いようがないではないか。
「あのさあシャハブ。俺、お前のこと、ジュールはクリーム・フレーバーなんか吸ってるようなあざとい可愛い子ちゃんの癖して、凄く遣り手だと思ってたし、実際にこの世でマーヴィンの次位に気立てが良い人間だと思ってたよ。それがなんで、俺の彼氏を死出の旅へ送り出すことになったんだ?」
「本当にごめん。以前会った時、バレットもアールも凄くいい人だと思ったんだ……有名なインフルエンサーとも仕事をしてるし」
どんどん声が小さくなるシャハブを励ますよう、ダフィットは氷で色が薄まりつつあるグラスに、クランベリージュースを注いだ。
「何度か電話したんだがマーヴは応答しない、テキストの既読もつかない。そっちから連絡して……」
「マイアミだよな? 俺、あっちに行くわ。今から空港へ向かえば、今日中に到着できる……時差があるから、ぎりぎり今夜かな。お前らも一緒に来る?」
「え、あ……行く」
おたおたと、駐車場まで車を取りに行くべく席を立ったシャハブを後目に、ダフィットは眉根を寄せた。
「本当は、痴話喧嘩なんか自分達で解決して欲しいんだけどな」
「喧嘩? 今回はどう考えても変な斡旋をしたシャハブのおかげで……」
「いや、お前が全部悪い」
披露しようとした抗弁の奔流は、重々しい口調でぴしゃりと遮られる。
「聞いたぞ、犬の話。マーヴの奴、大分落ち込んでたらしいじゃないか」
「犬? ああ、ローズマリーの事か」
もっと深刻な話題を切り出されるのかと身構えていたら、盛大に肩透かしを喰らう。
「だって、たかが犬じゃないか。俺がよく家を空けるから、寂くて飼ってたんだ。あれが死んでからは、ちゃんと側へいるようにしてるし」
「ペットって言うのは家族も同然の存在だぞ」
「あいつが勝手に連れてきたんだぜ。お前だって、ある日いきなりシャハブが知らない男を連れてきて、今夜から毎晩3Pしますって宣言したら怒るだろ」
そこでダフィットが黙り込んだのは、もしかして実際にスリーサムをしたことがあるのかもしれない。そうとなれば、多分「カップルに奉仕する役」を引き込んだのは目の前の男だ。シャハブは12人の陪審員に犯される少年犯罪者の役とか、馬鹿みたいな設定の作品に出ていた癖、意外なほど健気な性格だった。
大体、2人の親密な間柄にある人間の関係性について、他人に云々される事の煩わしさを、この男ほど知っている人間も少ないだろうに。
世間は己のことを悪鬼であるかの如く罵るが、マーヴィンは、マーヴィンだけは、ピエールを愛してくれる。
可愛いマーヴィン。年上の余裕をかまそうとしていつも失敗している、最高にチャーミングで素敵な己の恋人。確かにあのギリシャ彫刻みたいに美しい肉体には、決して枯れることのない博愛の泉がこんこんと湧いているのかもしれない。だから周りに対して、あんな無造作へ優しさを分け与えるのだ。
その澄んだ水面へ波紋を作るのが己の役目なら、全力で飛び込んでやる。何なら一滴残らず飲み干してやる自信があった。それをマーヴィンは、全く分かっていない。
彼が大切で、少しでも長くやっていきたいから、出来る限り努力してきた。これまでの人生で思いつかなかった程沢山の妥協もしたし、家にいる時は毎日フローリングへ掃除機を掛けた。
自らが愛情表現だと思っている行為を腕一杯に抱えたまま、抱きしめようとした。そんな聖人君子を気取らなくていい、ありのままの姿をちゃんと愛してるからと。なのに肝心のマーヴィンが受け取ってくれないとなると、後は途方に暮れるしかない。
「それが駄目なんだよ。自分勝手な愛の押し付けって言うのがな」
ふうっと太い息を押し出し、ダフィットは首を振った。全く偉そうに、自分を何様だと思っているのだろう。
「いいか。俺は以前、シャハブにブランダー・ブロードのコスチュームを着せて、コミックの再現写真を撮る提案をしたことがある。ブランダーは今でも人気のある伝説的なボンデージ・ヒロインだし、11歳の時に祖父の家の納屋で雑誌を見つけて読んで以来、俺の原体験とも言える存在だ」
やっぱりドイツ人ってSMが好きな国民性なんだな、とピエールが感心する間もなく、夢見るような蜜色の瞳は、ふっと翳りを帯びる。
「最初はシャハブも乗り気だったんだが、いざ衣装合わせの頃には、すっかり元気がなくなってた。あのワンダー・ウーマンのパクリみたいな服装が、どうしても好きになれないんだって」
「あいつ、もっと恥ずかしい格好なんて、これまで山程してきてるのに」
「そんなの関係ない。とにかく俺は、予告だけでツイッターのフォロワー数が千人単位で増えた肝煎の企画を、すぐ没にした。間違いなくあいつに似合うって、俺も世間も認めて熱望してるコスチュームでも、本人が嫌がるなら着せちゃ駄目だ」
少しの間、ピエールはすっかりビールの味が優勢になったボイラー・メーカーを飲みながら考え込んでいた。
「でも、一度は着てくれたんだろ? そのまま勢いでやっちまえば良かったのに」
去年の夏、マーヴィンに素敵な下着を送った時のことを思い出す。大事なところがチャック一つで丸見えになる、黒いレザーのランジェリー。箱を開けた瞬間は引っ叩いてくるほど恥ずかしがっていたが、あの晩結局マーヴィンは、ベッドの中でプレゼントへ足を通してくれた。ワイルドな肉体に革製品はくらくらくる程似合っていたし、ちりちりと噛み合わせが解れていく時、うずうず悶えていた、あの尻の弾み方と言ったら!
「それに、シャハブだってきっと、お前が喜んでくれたら嬉しいと思っただろう」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
まるで二日酔いでも起こしたように、ダフィットは額を抑える。
「だから、世間の人間が、みんなお前と同一の行動規範を持ってるんじゃなくてだな……第一、本当にそんなことだったら、あっという間に第三次世界大戦が起こって人類は滅びる」
「俺だって、マーヴィンと話し合いたいとは思ってるよ。けどあいつ、最後は何でも笑って許してくれるから」
恋人の顔を思い起こす時、彼が浮かべている表情はいつだってスマイルだ。微笑の時もあるし、ピエールの冗談に涙を流しながら腹を抱えている時も。
彼が笑ってくれたら、自らも嬉しい。それが人間として当たり前のことだと思っていた。「当たり前」なんて言葉も、マーヴィンと出会うまでは、従ってみようとなどちっとも思わなかった概念だった。
「マーヴが意外とずぼらで、そう言うところへ目を瞑りがちなのは知ってるが、お前だってまだまだ努力不足だと思うぞ」
「ああ、くそっ、認めるよ。俺達、ちゃんと喋らなきゃ」
小便みたいなアルコールへ沈んでいたバーボンが不意に顔を出し、がつんと喉を叩いたかのようだ。苦く辛いおくびを飲み下すと、ピエールはふわふわするような頭を乱暴に振った。
「それで、しっかりあいつの話を聞くんだ」
「そうだよ、死んで十日しか経ってない愛犬のベッドを捨てるなんて、あんまりだ」
戻ってきたシャハブが賢しらな口を叩いても、今晩は許してやる。まあ、流石にやられっぱなしなのは腹が立つので、一言釈明しておきはするが。
「だって、目の前で解体して燃えるごみに出すより、いない間に無くなってた方が、あいつの心の傷も少ないだろ!」
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