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「確かにあなたはサイコだけど、いいところもあるってみんな知ってるよ」
古臭い木製のエレベーターは、男3人を乗せると若干息切れする。ゆっくり点滅する階数表示を見上げながら、シャハブは携えた消火器を抱え直した。
「犬が嫌いなこと、今でもマーヴィンに黙ってるんでしょう」
「別に嫌いってほどじゃ」
小さい頃、親戚のシャロンおばさんが飼っていたロッキーというペキニーズに腕を甘噛みされて以来、好んで近寄らないというだけの話。マーヴィンが飼いたいなら、犬だろうが火星人だろうが好きにすればいいと思っていた。こちらから近寄らなければ何も問題は起きない。
唇を尖らせれば、それまでどこかぼんやりしているようだったダフィットが「嘘だろ」と言葉付きを尖らせる。彼が握る斧は恋人が手にしているものと同じく、廊下の防災用品収納箱をこじ開けて拝借してきたもの。分厚い刃が、黄ばんだ天井の照明で鈍いぎらつきを放っていた。
「そういうところ、話し合わないから、こういうことになったんじゃないか」
「だから、あいつの犬なんだから別にどうでも……あと俺の体には誇り高きミクマク族と情熱的なブルゴーニュ人の血が流れてるけど、知ってる限りの親戚にシリアルキラーは一人もいない、断言できる」
多分、そのブルゴーニュ側の血が、ゲルマン民族の血に盛大に反発しているのだろう。飛行機へ乗る前にテューロで手配したが、5時間後の真夜中、マイアミ国際空港へきてくれるのはテスラのモデルYしかいなかった。こんなダサい車で気分が出ないと拗ねていたピエールを、ダフィットは道すがら「ふざけてる場合じゃないぞ」と叱り続けた。
「お前のマーヴが血も涙もない悪魔崇拝の儀式で殺されかけてるって言うのに」
「でもさあ、うーん、やっぱりどうしても信じられなくて」
真面目腐って悪魔崇拝だとか抜かされると、吹き出してしまいそうになる。さっき見せられた動画も、やはり特撮じゃないだろうか。似たような場面がある映画を昔観たことがあったし──あの有名なシーンでは、全身に血糊を塗りたくったスタッフが杭の上に乗せた自転車のサドルへ座り、木を模した発泡スチロールを口に咥えることで、串刺し女に見せかけたと聞く。
「何もないなら、それで構わないよ」
車窓に移ろう、時代掛かった旧市街地のネオンへ視線を流しながら、シャハブが呟く。
「もしも取り越し苦労だったら、みんなで蟹でも食べて帰ろう。そしたらピエールとマーヴィンは仲直りする、それで一件落着じゃないか」
彼のことは概ね良い奴だと思っている。けれど時折こんな風に見透かすような物言いをされるのが、ピエールはどうにももやついてならなかった。それが真実だからこそ余計に。
エクソシストごっこは二の次だ。ただただマーヴィンに会いたかったが為に、己ははるばる大陸を横断してマイアミまでやってきた。
モナ・リザではないのだから、黙って微笑んでいて物事が好転することなんかまずあり得ない。とにかく彼の話を聞こう。対策を練るのはそれからだ。どうせこちらには、端から戦略などない。
「そんなところが君の悪癖だよ、後先考えずに走り出すって言うのが」
いつもマーヴィンはそう言って、一人で大人ぶり、ピエールを嗜める。大学の学費が払えなくなったからポルノ業界へ飛び込んでしまう位の度胸があるのに、根っこのところで妙に良識的なのだ。
そんな彼をリラックスさせ、楽しませることこそが、自らの役割だと認じてきた。けれど人生は笑うこともあれば泣くこともある。そして己は、これまでマーヴィンの泣いているところをまともに見たことがない、ベッドの中での行為を除いて──犬が死んだ時ですら涙をこぼさなかった、重症だ。いっそのこと、胸に飛び込んでわんわん泣きじゃくってくれた方が、どれほど良かったか。
だいたい、ずるいではないか。己の見たことないマーヴィンがいるなんて。彼の笑顔も泣き顔も、全部全部独り占めしたい。それが不可能にしても、仲の良い友人ならばともかく、どこの馬の骨か分からない奴らと彼の感情を共有するなんて、真っ平ごめんだった。
出先での所在地を必ず誰かに教えておくという、ポルノ俳優時代の癖がまだ彼から抜けていなくて本当に良かった。その相手がシャハブだったとしても、この際許そう。
オールド・ビーチにある史跡級のホテルへ乗り込んできた3人組へ必要な情報を教えた後、フロント係の青年はすぐさま弄っていたスマートフォンに視線を戻す。個人情報保護もクソもなかった。ちょっと洒落た外観だが、案外いかがわしいやり取りに用いられることも多いのかもしれない。
「懐かしいね。君と初めて会った時も、サンタモニカ大通りの、こういうディプレッション・モダン的なホテルだった。君はまだ、アシスタントをしててさ」
「いいホテルだったよな」
微笑みかけるシャハブに、ダフィットは仏頂面を僅かに崩し、不敵な形で唇を捻じ曲げる。
「あの現場、マーヴもいただろ。お前を見て、『こんな子供を相手にするようになったら、僕もおしまいだ』って嘆いてた。彼、あれがきっかけで引退したんだっけか」
「違うよ。彼が辞めたのは、ピエールと付き合い始めたから」
突然飛び出した己の名前に、ピエールは目を瞬かせた。
「俺? なんで?」
「だってそりゃあ、あの業界から抜けるきっかけなんて、病気になったか、プライバシーのことを気にし始めたか、本気で身を固める覚悟がついたかのどれかだろうし……最後のはオープン・マリッジの人には当てはまらないだろうけど、マーヴは違うよ、絶対違う」
確かにピエール自身、早く俳優を卒業するよう口うるさく迫った記憶がある。てっきり、自らが駄々をこねて、彼が折れるという、お決まりの流れで決着が付いた出来事だと思っていた。
そうか。マーヴィンにだって自分の意思というものがあって、ことあるごとに主張していたのか。差し出してくれてはいたのだ、はしゃぎまくりの浮かれ頭では、気付かなかったけれど。
「何だか照れるな……」
本格的に話し合わなければいけない。堪え性がないことなんて、自らが一番よく知っている。ここから先のマーヴィンの時間、彼が自らに割こうと思ってくれた時間を、1秒たりとも無駄にしたくない。
「うん、折れた骨は治ればより固くなるって言うよな。きっとマーヴィンは、俺が白馬に乗って駆けつけたら、熱烈なキスで出迎えてくれると思うぜ」
「キスで誤魔化そうとする男って最低」
シャハブのぼやきを掻き消すよう、エレベーターは歯車の軋る音と共に停止する。
金属製のアコーディオンドアを叩き開け、廊下へ足を踏み入れた時から、ただならぬ雰囲気は感じていた。廊下を挟んで2部屋あるスイートのうち、向かって右側のドアが、全ての元凶らしい。
「えっ、何か悲鳴みたいなの聞こえてこない?」
「一々言わなくても分かってるよシャハブ。おいおい、冗談抜きでスナッフ映画でも撮ってるんじゃないだろうな」
貼り付けられた大理石のタイルが割れる勢いでドアノッカーを打ち付けても、返事は聞こえてこない。大声は益々響き渡るし、そこにどすんばたんと、重い物がひっくり返されているかのような物音まで重ねられる。
「マーヴの声はしないね……スマートフォン鳴らしても応答ないし」
「下がってろ」
大きな手の中で斧の柄を転がし握り直すと、ダフィットは2人を顎でしゃくった。
「さっき打ち合わせた通りだ。ヤバい状況なら、シャハブが消火器を撒いて相手を牽制する。その間に、ピエール」
「分かってるって! あー、最悪だ。俺マーヴィンの、こういう迂闊なところ本当に大嫌いなんだよ!」
嘘を付いた。本当は、だからこそ好きなのだ。けれど、ああやっぱり、彼の魅力へ気付いているのは、俺だけで十分なのに。
勇敢な戦士の血は、腹立ちを闘志へ変換する。
躊躇なく斧を叩きつけられ扉を破壊されたり、隙間からにゅっと伸びてきた手にドアチェーンを外されようものなら、普通の人間ならパニックを起こしてフロントなり911になり電話するだろう。室内の人間は呪文らしきものと唱えたり、喚いたり、と言うかこれは喘ぎ声だろうか? とにかく、まともな状況でないことは確かだった。
「ねえ中は?」
「分かんねえ。なんか赤い、エッチそうな光が……ああもう、いいからダフィ、どけってば!」
力任せに3回ほど蹴飛ばせば、真鍮製のごてごてしたドアノブは不愉快な音を建ててひしゃげる。ほとんど体当たりする勢いでドアを開けると、ピエールは室内へ雪崩れ込んだ。
最初に叫び声を上げたのは誰か、恐らくシャハブだったと思う。で、正気を取り戻したのはダフィット。尤も、彼が傍らの恋人を促した時、既にピエールは駆け出していた。
「シャハブ、消火器!」
背中を押すような勢いのいい粉塵で、こちらの視界もまともに効かなかったのは幸いだった。でなければ、あのうねうねした生き物へアメフト選手よろしくタックルする勇気なんて、とてもじゃないが持てなかっただろう。
「ピエール!」
「マーヴィン! 何やってんだ、もう!」
化学と人間の勝利。組みついた拍子に背後のテーブルが倒れ、蟲達は捕らえていたマーヴィンを手放す。どさっと小麦の袋のように落ちてきた、自らより少しだけ小柄な体を受け止めた時の、すっぽり腕に収まる感覚。やはりこの男はきっちり、自らのものなのだ。
「あーっ、駄目だって! それ壊したら暴走するってのに」
カメラを振り回し、バレット・クソッタレ・クロスボウが、悲しげな声をあげる。背後では、チャックでも開くように喉元まで腹を裂かれたアールが、床から浮き上がる程の激しさで体をのたくらせていた。
「自殺願望でもあるのかよ! お前、危ない撮影には絶対足を運ばない、鼻が無茶苦茶効く奴だと思ってたのに!」
「4年もブランクがあったら鼻だって鈍るさ!」
手に手を取って逃げ出そうとするが、床の上に広がる血溜まりで足を滑らせ、二人揃ってその場へ転がる。ほんの鼻先に、ケチャップの中で煮崩れたロールキャベツの如く、ぐずぐずに潰れた人間の体が転がっていると気付いた時には、ぎゃあと白馬の王子様らしくない悲鳴を上げてしまった。
悪魔的ミサの司祭が言う通り、蟲達は好き放題暴れまくった。シャーシャーと断末魔を上げ、太い体を嵐のようにぶんぶん振り回す。死体の足は掴んで壁に叩きつける。
忠実なる友人達は奮闘していた。ピエールの足へ忍び寄ろうとした1匹の頭に、シャハブは消火器を振り下ろした。とどめはダフィットが、既に数体を切断した斧によって刺す。
「何で君達ここにいるの、観光?」
「そんなジョーク全然面白くないし、ガチで言ってるなら俺がお前のこと殺してやる! あのカメラマン、常習者だぞ!」
ねばねば生温かい顆粒混じりの血の中、じたばたしながらも何とか身を起こすと、ピエールは目を瞠っているマーヴィンの手を掴んで助け起こした。
「なあマーヴィン、俺は犬が苦手なんだ。嫌いって言うか苦手! 小さい頃噛まれたからな」
「えっ、犬?…… そうなの? 知らなかった……言ってくれれば良かったのに」
「お前があんまり嬉しそうにしてるから、別にどうでもいいかなって。でもやっぱり、ちゃんと話しとくべきだったと思う……次に飼うなら猫にしないか。猫ならそんなベタベタしてこないし、俺だって妬いたりしないよ」
叫び声に振り返れば、腹を抱えて膝をつくシャハブの姿が目に入る。右の脇腹に押し付けられた両手は、溢れる血を抑え切れてはいない。ピエールに斧を投げ寄越しざま、ダフィットは恋人を抱き上げた。
「きりがない! くそっ、引き上げるぞ!」
二人にも、彼らの後を追いかけるピエール達にも、バレットは見向きしない。体を震わせる程昂ぶりながらカメラを回し続け、血飛沫の飛んだ壁、転がる骸──それにはアールのものも含まれている──その他惨劇の全てを収めようと集中していた。
ふつふつと込み上げてくるものに抗う気など、ピエールは微塵も起こさなかった。
力任せのフルスイングで、男の拳ほど厚さのある刃は、青年の横っつらへ半分ほどめり込む。
「ピエール!」
背後のマーヴィンが、愕然で喉を絞る。
「このクソッタレ、変態野郎、よくもよくも、俺のマーヴィンを!」
もう2、3発ぶち込んでやろうと思って肩に足を掛け、ぐいぐい引っ張ったが、がっちり噛み合った斧と頭蓋骨はなかなか分離しない。割れた骨の間から、ぷしゅっと炭酸でも抜けるような音と共に、脳髄が溢れ出すばかりだった。
「何やってんだピエール、さっさと来い!」
ダフィットの銅鑼声に舌打ちを一つ漏らし、必死に腕を引くマーヴィンへ従う。
エレベーターへ飛び込み、ボタンを連打してから機械が動き出すまでの時間が、永遠のように感じられる。ようやくゴトンと大きな振動と共に、籠が降り始めたとき、吐息を漏らしたのは誰だろう。今更ながら膝をがくつかせ、縋り付いてくるマーヴィンの体から、ポタポタと赤い液体が床へ滴り落ちる。ピエールは顔を跳ね上げた。
「怪我はない?」
「え、うん、僕は平気……」
自らが血まみれであるにも関わらず、マーヴィンはダフィットの腕の中でぐったりとしているシャハブを覗き込み、顔を青ざめさせた。
「シャハブ? ああ、どうしよう……」
「ごめんねマーヴ。君を、こんな目に遭わせて……」
「あいつらに噛まれたらしい、くそっ、ここから一番近い病院ってどこだ」
恋人をひしと抱き竦めるダフィットの声は、これまで聞いたことのないような動揺に染まり、震えを帯びている。
「大丈夫だ、シャハブ、絶対助けてやるからな」
「何だか、お腹がむずむずする……気持ち悪い」
悪夢に魘されているような口ぶりは妙に穏やかで、グチュッと潰れる音に現実感を与えない。
指の隙間を割り開くようにして滑り出した蟲に、ピエールは絶叫して壁まで後ずさったし、ダフィットは愛しい体を取り落とす。シャハブ本人だって悲鳴を上げていた。体を打ちつけた衝撃か、肉を食いちぎられた痛み故かは知らないが。
真っ先に動いたのはマーヴィンだった。くねりながら迫る蟲を両手で掴み、力任せに引きずり出す。一緒に持っていかれかけたはらわたを、咄嗟に手のひらで押し戻したダフィットは全くファインプレーだった。
「あ゛、ぁ、うそ、やめて、引っ張らないで……!」
震える声で乞うシャハブに、普段のマーヴィンなら甘ったるい慰めを吐き掛けていただろう。だが今、彼の足は無言のまま、床へ叩きつけたそれを踏みつける、何度も、何度も、原型を留めなくなるまで。
その鬼気迫った勇ましさに、ちょっとときめかなかったと言えば嘘になった。
ちん、と間抜けな音を立てて一階に到着し、倒けつ転びつしながらエントランスへと突進する。転がり込んだ車は返り血で悲惨な有様だった。弁償代金は、ここにいる誰が支払うことになるのか、少なくとも今の己に金はない。
「すぐ医者へ診てもらえるからな。気をしっかり持て」
「だ、いじょうぶ」
アクセルを踏み込むダフィットに訴えかける声は、先ほどよりも平静を取り戻している。
呼吸が落ち着くにつれ、ホテルから離れるにつれ、シャハブの傷は逆再生されたかの如く縮んでいく。通りの角を曲がり、人魚のレリーフが視界から消えた頃には、もう裂け目も完全に塞がっていた。紙のように白かった顔には血色が戻り、血の滲んだシャツを摘み上げる仕草は、普段と同じく、ぶりっ子めいたあざとさを振り撒く。
「どうなってるの……夢でも見てるみたい」
「酷い夢だったのかも」
後部座席に深々と埋まったマーヴィンが、気の抜けた口調で呟く。
「実際、悪夢だよ。こんなことって」
椰子の木を棚引かせる夜風は、たった今直面した惨事すらも吹き散らす。通りで呑気に浮かれ騒ぐ観光客達は、電気自動車に乗った血まみれの異邦人達など気にも掛けなかった。人は思ったよりも、他人に注意を向けたりなどしない。
だからこそ、大切な人のことは幾ら気に掛けても掛け過ぎることなどないのだろう。
「ローズマリーのことだけど」
ぼそりと溢したマーヴィンに、ピエールは音がするほどの勢いで向き直った。
「ごめん。大事にしてたんだよな。俺はその感覚、分からないけど、お前の感情は尊重するよ」
「いいんだ。僕も、君が嫌がってることなんて、全然知らずに押し進めた」
ふっと、乾いた血のこびりついた顔が緩む。たとえ地獄の果てから蘇ってきたのかと思える容貌をしていても、醸し出されるふんわりした慈愛は、決して隠すことができなかった。
「しばらくは、違うペットを飼う気になれない。でも落ち着いたら、新しい子を引き取るのもいいかもね。僕も猫は好きだよ、スコティッシュ・フォールドとか」
「だめ、あれは生まれつき障害を持ってる、可哀想な種族だから」
「うん。とにかく、次を選ぶときはお互い、ちゃんと話し合おう」
結局、この優しさにいつでも甘えてしまう。抱きしめられても素直に身を任せてくるのに託け、真紅に染まったマーヴィンの唇へ口付けた。お揃いの血の味。うっとり細められた目を覗き込み、ピエールはこの世の誰よりも大好きな、己の男へ囁いた。
「最初から、猫にしておけば良かったんだ」
「ねえ、お腹すいたよ。蟹でも食べに行かない?」
助手席にだらしなく沈み込んだシャハブは、提案する尻からスマートフォンを取り出している。
「前にここへ来た時、凄く美味しいシーフードの店を教えてもらったんだ。夜中の2時までやってるし……テイクアウトも対応してるって!」
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