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第2話①

 頭に浮かんだ曲を適当に弾き流しながら、音やペダルの動きを確認する。  大きな問題のなさそうなことを確認して、琉斗(りゅうと)はグランドピアノの清掃に取り掛かった。年に二度、適切な清掃の行われている内部は思ったほど(ほこり)も付着しておらず、ホッと胸を撫で下ろす――この分なら、外装を綺麗にするだけで充分だ。後は調律師に任せればいい。  チェックインラッシュも終わった午後のヴィラ本館ロビーには、人影こそまばらだ。しかしそれでも、いくつかの物珍しげな視線を感じる。気にしないように努めながら、琉斗は毛ばたきを使って鍵盤の埃を払い始めた。  ほとんどロビーの装飾の一部と化しているピアノだが、稀に心得のある宿泊客が弾きたいと申し出ることもあるため、定期的に清掃とメンテナンスを行っているらしい。  南の島の空気は乾燥しているが、海に囲まれた島の中のヴィラは、湿気とは無縁でいられない。動作を妨げる原因になる埃、これに湿気が含まれると、最悪の場合取れなくなることもあるから、定期的な清掃が必要になる――というのは、楽器全般に詳しかった祖父の受け売りだ。  そして、本来ただのアルバイトスタッフでしかない琉斗をこの作業に抜擢したのは、その祖父の息子である叔父である。  ――こうなると、もはや「何でも屋」だよな。  慣れた手付きで毛ばたきを使いながら、琉斗は小さく肩を竦めた。  弦楽器の制作を生業としていた祖父は、子供の頃から海外志向の強かった叔父の、良き理解者でもあったという。  どこかの親父とは大違いだ、と感傷的な気分になりかけたところで、無遠慮な声が思考の糸を断ち切った。 「今度は調律の真似事か?」  よく響く耳触りの良い低音に振り返ると、島内で最高級を誇るヴィラの中でも、最重要クラスのVIPである、某世界的大企業のCEO、ヴィルフリート・ハンコックが、悠然と近付いてくるところだった。燃えるような長い赤髪を一つにまとめ、グレージュのジャケットを小脇に抱えている。この暑い中ネクタイまできちんと締めて、それでいて野性的な美貌には汗一つかいていない。背後には専用コテージの離れに宿泊する秘書官を従えているところからも、「商用と休暇を兼ねて」という宿泊理由の、「商用」の方で出掛けていたのだろう。今日も憎らしいほどの男振りだ。 「意外な特技もあったものだな。これが君の本職なのか」  冷静な声音にほんの少しだけ興味を滲ませて、ヴィルフリートが手元を覗き込んでくる。だが実際のところ、琉斗は人より少しだけメンテナンスについての知識があるだけで、調律までは門外漢だ。  詳しく説明するのも面倒だし、と自分を納得させながら、琉斗は言葉を濁した。 「別に。そういう訳じゃない、ですけど」  敬語はヴィルフリートの部下の手前、表向きの関係を考慮したためだ。愛想笑いを浮かべて、琉斗は清掃を再開する。  本来の仕事に関しての問いをはぐらかしたことで、何か感じるところもがあったのだろう。ヴィルフリートは面白くもなさそうに「フン」と鼻を鳴らした。 「まぁいい。――夕食後、」 「!」  ハッとして、琉斗は再度顧客を振り仰いだ。  しかしヴィルフリートは、用は済んだとばかりに颯爽と身を翻す。  こちらに軽く一礼して、眼鏡の秘書官が後に続くのを見送ってから、琉斗は小さく息を吐き出した。 「……電話でも済むのに」  わざわざ口にしたのは、ちょっと動揺してしまったことを誤魔化す意味もある。しかし、琉斗の疑問は至極真っ当なものでもあった。今や琉斗は彼との間に、専用のスマートフォンを持っているのだから、必要ならそこから呼び出せばいいのだ、わざわざ仕事中に声をかけてくることもなく。  ――そう。  ただの裏方バイトのはずの琉斗は今、世界的大企業のCEO、ヴィルフリート・ハンコックの宿泊するコテージの、専属バトラーなのだから。                   ●  夕刻の潮風を浴びながら、南国特有の樹木で美しく整えられた坂道を登っていく。  様々な娯楽施設の併設されたヴィラの敷地は広大で、宿泊客には例外なくバギーが1台貸与されるシステムになっている。当然その中を駆け回るスタッフも例外ではなく、移動には専らこれが利用された。お陰で眺望の良い高台に配置されたVIP用コテージまでの道のりも、さほど苦にはならない。  ――おかしなことになったもんだ。  束の間のドライブを楽しみながら、琉斗はぼんやりと考える。  時刻は給仕(サーバー)達によって、VIPルームの夕食が片付けられる頃合いだ。ヴィルフリートからの呼び出しの理由は、きっと、まぁ、そういうことなのだろう。 『私に性技の指南をするんだ』  どんな運命のイタズラか、売り言葉に買い言葉で肉体関係を持ってしまった琉斗に対し、ヴィルフリートはまさかの提案に及んだ。彼の唯一(?)の弱点である、性経験に乏しくそのテクニックに未熟であることを克服するべく、琉斗に教えを請いたいのだという。  自分の失態を見逃してほしいとか、単純にアナルセックスに興味があったとか、琉斗がこの無茶な申し出をうっかり受け入れてしまった理由は多岐に渡る。が、「イケメンの圧に押された」というのが、実は一番大きい。  あの夜、ヴィルフリートが多少ワインで酔っていたらしいこともあって、半信半疑のまま従業員寮へ戻った琉斗だったが、ヴィルフリートの行動は素早かった。  翌日、叔父に呼び出された琉斗は、ヴィルフリート・ハンコックから専属のバトラーに指名されたことを知らされ、仰天した。それは同僚達も同様で、皆一様に、琉斗の人懐っこさ、というより人誑(ひとたら)しぶりに、驚くやら呆れるやら。そんな中、「やりたいことを見付けたい」と言って転がり込んできた甥を、苦笑しながらも快く受け入れてくれた叔父はというと、「これが本職になるかもな」と、嬉しそうに笑ったものだ。  しかし実際のところ、琉斗のスタッフとしての献身が評価された訳ではなく、求められているのはセックスの手解きだ。これが本職になるなら、金持ちに飼われるようなものだろう。ヒモ生活は気楽だろうが、さすがにそれは、将来にまだちょっとした期待がないでもない成人男子としては、いかがなものかと思う。  ――いや、ホテルスタッフとしても、とんでもないサービスだよ。  お陰でこれまでとはまったく畑違いの業務が増えてしまった。相手をするのが、秘密を共有しているヴィルフリートだけであり、多少所作が洗練されていないところは大目に見てもらえる気楽さはある。しかし、それでお小言を貰わないという訳ではないので、割に合わない気持ちは拭えない。  色んな意味で複雑な気分だ。

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