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第5話④
「ヴィルフリート!!」
両手首を拘束された状態のまま、琉斗 は必死で跳ね起きた。ヴィルフリートの落下地点へ駆け寄り、目を凝らしてその姿を探す。しかし、小型艇の起こす波紋によって、痕跡はすぐに掻き消されてしまう。
「ヴィル……!!」
青褪める琉斗の背後で、犯人達も恐慌状態に陥っていた。
「何やってんだ!」
「ハンコックに報復されるぞ!」
「畜生、アイツが妙な真似しやがるから……!!」
口々に罵り合い、互いに掴みかからんばかりの有り様だ。ここまで落ち着き払っていたリーダー格の男が声を荒げているのも、動揺を誤魔化すためだろう。それほど、「直接的にハンコックを敵に回す」ことの恐怖は大きいと見える。彼らの揉み合う余波で、小型艇はグラグラと不安定に揺れた。
その間も、ヴィルフリートが浮かんでくる様子はない。助けに行かなければ。琉斗にあったのは、その一念だけだった。拘束を解こうと、何度目かに両腕を擦り合わせる。
今だ、と、微かに掛け声のようなものが聞こえたのは、その時だった。
すると、間髪置かずに、小型艇を囲むように激しい水煙が立ち上がる。驚いて周囲を見回すと、海面にそそり立つ岩礁の陰から、一斉射撃が行われているようだ。
慌てふためく男達の中、半ば呆然と蹲 る琉斗の目に、指揮を取るクレイグの姿が映った。とすれば、やはりヴィルフリートは律儀に犯人達の指示を守って一人でやってきたのではなく、会見の場に私兵を潜ませていたのだろう。そしてこの一斉射撃は、威嚇のために違いない。
ぱすん、と一際高く乾いた音が聞こえた。続いて男達が、崩れるように船底に倒れ込んでいく。
「騙したな……!!」
首筋を押さえながら、リーダー格の男が悔しげに吐き出した。その手元には細長い棒状の物が突き立っている。手足がガクガクと断続的に震えていることから、強力な麻酔銃でも撃たれたのに違いない。
首謀者の理不尽な言い掛かりに答えたのは、白亜のクルーザーに乗り込んだクレイグだった。
「ハンコックは貴方がたほど甘い組織ではないのですよ」
岩陰から滑るように近付いてきた船内には、防弾チョッキを身に着けた男達を2名随行させている。雨あられと降り注いだ威嚇射撃の凄まじさからも、周辺には相当数のハンコックの私兵が潜んでいたのだろう。
――犯人達からの要求をヴィルフリートに届けたのは、地元の子供だった。小遣い程度のコインを握らされた少年は、まったく無邪気に指示に従い、ヴィラの警備員に近付いてメモを手渡す。受け取った中年の警備員は慌てて支配人に事の次第を訴え、琉斗の叔父がヴィルフリートのコテージに駆け付けた。
犯人達を油断させるために、要求通り会見にはヴィルフリート一人で向かい、沖合に狙撃手を乗せた船を待機させて待ち伏せる。同時に、メモを渡された子供を見付け出し、一味の使い走りの身元も突き止めた。今頃は別働隊がアジトに踏み込み、一網打尽にしている頃だろう。
そんなこととは知らない琉斗は、ひとまず命の危険が去ったことにも気付かず、海に向かって必死に呼び掛け続けていた。
「ヴィル……ッ」
不安から、瞼の裏が熱くなってくる。それでなくても海で泳ぐのは苦手だと、ヴィルフリートは言っていた。手負いの状態では、本当に生死に関わる!
自由の利かないまま、それでも彼を追って、琉斗はほとんど海に飛び込み掛けていた。――その時。
「――ッ……!」
ザバリと海面を割って、ヴィルフリートが水中から顔を出した。
落下地点からほんの数メートル先、大きく息をつきながら、無造作に長く赤い髪をかき上げる仕草は、こんな時だと言うのにひどく艶めかしい。
呆然とした琉斗の視線を受けて、ヴィルフリートは少々バツが悪そうに呟いた。
「……海水で泳ぐのが苦手なだけで、泳げないとは言っていないだろう」
確かに、プールでの彼の泳ぎは見事だった。その上、どこも怪我をしているようには見えない。
「なんで……撃たれたんじゃ……?」
「素人の狙撃に当たるほど、私は鈍くない」
いつもの彼らしく、高慢に高い鼻を突き上げて見せながらも、ヴィルフリートはチラリとシャツをめくって見せた。その胸元からは防弾チョッキらしき装備が覗いている。自尊心もここまで来れば、見事というほかない。
「……マジかよ……」
桁外れのセレブの防衛手段に、琉斗は突っ込まずにはいられなかった。その間にヴィルフリートは、顔を顰 めながらも再びラダーをよじ登ってくる。
撃たれた反動や海に投げ出された衝撃は残っているのだろうが、周辺の海水や身体から落ちる水滴に血が混ざっている様子はない。
では、彼は本当に無傷なのだ。
――心配させやがって!
憤慨してみせようとした琉斗の目から、安堵の涙が零れ落ちた。ヴィルフリートの無事が確認できた今になって、彼を目の前で失い掛けた恐怖が、まざまざと蘇ってくる。
「良かった……」
「それはこちらのセリフだ。――怪我はないか」
琉斗の傍に腰を落としたヴィルフリートは、優しい手つきで涙を拭ってから、労わるように抱き締めてくれた。そしてどちらからともなく、吸い寄せられるようにして口付けを交わす。
それは魔法のようなキスだった。琉斗の胸の内から恐怖は瞬く間に消え、幸福感に満たされていく。
辺りには、犯人達の呻き声と、彼らを取り押さえるべく乗り込んできた狙撃部隊の怒声とが入り乱れていた。
けれど、互いの無事を確認し合ったふたりには無縁のことだ。
昨夜の暴力的な行為とは違い、愛おしむような口付けに酔い痴れながらも、琉斗は身動ぎ、唇を離した。
「――これ、解いてくれよ」
甘えるように言うと、ヴィルフリートは無言のまま琉斗の背に手を回し、ほとんど引きちぎるようにして拘束を解く。
「……ッ」
ようやく自由になった両手で、琉斗は思い切りヴィルフリートに抱き付いた。
応えるように、ヴィルフリートもしっかりと抱き締め返してくれる。
「――すまない。君を巻き込んでしまった」
いつになく素直な彼の声は、少しだけ震えていた。彼もまた自分を失うことを恐れてくれていたらしいことに、琉斗の胸は切なく震える。
「このくらい、何ともねえよ……」
精一杯の強がりを口にした琉斗の唇を、再度ヴィルフリートが塞いだ。深くなる口付けに、彼を教え導いてきたはずの琉斗は、陶然としてしまう。
ヴィルフリートの首筋に両腕を絡めたまま、琉斗は、たとえ彼が誰を愛していたとしても、自分の気持だけは大事にしようと心に決めたのだった。
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