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第3話 ルームシェア(2)
遡ること、一年ほど前。
その当時、笪也は十歳くらい年上の男がパートナーだった。その男のマンションで一緒に暮らしていた。男はでクレバーで野心家だった。出世のためならどんな努力も厭わず、時にはストイックに自分を追い詰めることもあった。十歳の年齢差を感じさせない体力や精力もあり、毎日が充実していた。
ある日の朝、経済紙や全国紙など数紙をテーブルに広げてコーヒーを飲む、その男のいつものルーティンの最中に、笪也は突然言われた。
「笪也、俺、結婚することになった」
笪也はネクタイを締める手を止めて、男の顔を見た。男は平然と続けた。
「俺ももうすぐ四十歳だし、周りが煩くてさ。専務の次女が先月、海外から帰ってきて、お見合いみたいなことしてさ…そしたら案外、俺、気に入られて」
「…で、あんたもその次女さんのこと気に入ったってわけか」
「いや、別に気に入った訳でもないけど、将来の布石だよ」
新聞を捲る音がやけに耳障りだった。
「だからさ、笪也との関係を終わらす気は全くないんだ。俺はここを出るけど、笪也はここにいてくれたらいいよ」
今住んでるマンションは男が所有している物件だった。
「ありがたい話だけど、俺はあんたが来るの待っているような侘しい妾になるつもりはない」
笪也はきっぱりと言った。
「えらく、古風な言いようだな」
茶化す男を無視して続けた。
「悪いが、一週間ほど時間をくれないか…それまでにここを出るから」
男は初めて淋しそうな目をした。
その日の仕事終わりから、笪也の物件探しが始まった。最低限の生活インフラは整っていて、できれば通勤時間は一時間以内、近くに夜遅くまで開いている食堂があれば尚いいが、と思っていた。
よくよく考えると、毎日仕事で忙殺されているのに不動産会社に立ち寄る時間など捻出しようがなかった。笪也はまずはネット検索からだなと思いながら、出先の中、遅い昼食を摂ろうと目についた定食屋に入った。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
気の良さそうな女将が厨房から出てきた。昼の時間をとうに過ぎているため、客は笪也だけだった。壁一面に貼っているメニューを見て、笪也は学生時代を思い出しハムカツ定食にした。
「お兄さん、よかったら美味しい小鉢もそこの冷蔵棚にあるから、好きなのをとってね」
女将は笑顔で水とおしぼりを持ってきた。笪也はマカロニサラダを取った。先にそれから食べようとすると
「お兄さんは今からお昼かい?」
「えぇ、まぁ」
「忙しいんだねぇ…ほらこれもよかったら、最後の一つだけど、サービスだよ」
そう言って女将が冷奴をテーブルに置いてくれた。
「すいません。ありがとうございます」
すると厨房から、あがったよ、と大将の声がした。
「はい。お待たせです。お兄さん、熱いから気をつけて食べてよ」
女将の気遣いに笪也も笑顔になっていた。運ばれてきたハムカツは笪也の想像以上の味だった。思わず、美味しい、と声を出した。
「あら、嬉しいねぇ。ご飯、おかわりしてよ」
笪也はこんな定食屋が近くにあるところに住むことができたらなと思った。軽い気持ちで女将に話しかけた。
「あの、女将さん。この辺りで、単身者が住めるようなマンションとかありますかね」
ご飯を頬張りながら笪也は訊いた。すると女将は、えっ、という顔をして笪也をまじまじと見た。
「お兄さん、家を探してんのかい」
「えぇ、まぁ。近々引っ越す予定で」
「ちょっと、お父さん…このお兄さん、家探してんだって」
女将は慌てて、厨房に向かって大声を出した。
「なんだい、お客さんの前で、お前は大声出して」
「だから、家探してるって、今、このお兄さんが」
笪也は、何事が起きようとしているのかはわからないが、この夫婦のやりとりが、まるでテレビのコントのように面白くて、ハムカツを食べながら見ていると、
「なぁ、お兄さん。いい家と言っていいかわからねぇんだけど、一度見てほしいとこがあるんだ。何時でもいいから、近いうちに時間取れねぇかな」
定食屋『権兵衛』の大将が真顔で言ってきた。
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