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第4話 天然の幸祐(4)
幸祐は朝からウキウキしていた。今日は仕事終わりに、ルームシェアのお試し期間中に気になっていたパン教室にトライアル体験をしに行く予定だった。習い事は子供の頃のスイミングスクール以来だ。
「幸祐、今日だよな、パン教室」
笪也はコーヒーを飲みながら壁のカレンダーを見て、幸祐に話しかけた。カレンダーにはゴミの収集日や簡単な二人のスケジュールも書き込むようにしていた。
「はい。習い事は久々だし、ちょっと緊張してるんですけど、楽しみにしてました。あっ、笪ちゃんの方が帰りが早かったら、夕飯は冷蔵庫に温めればいいだけの物があるんで、それ食べてくださいね」
「サンキュー。いつも用意してもらって悪いな」
「そんな、好きでやっていることなんで」
幸祐は少しずつ、笪ちゃん、と呼ぶ気持ちの上での抵抗は薄れてきているが、まだ意識せずにいると、成宮さん、と言いそうで、言葉を飲み込むことがあった。
その夜のパン教室の生徒は幸祐を合わせて七人であったが、そのうち四人が男性だった。定年後の趣味で通う人や幸祐と同年代のサラリーマン風の人やどう見ても高校生っぽい男子といった年齢もバラバラであったが、皆んなパン好きの共通点があることで、和気あいあいと楽しくパン作りを習うことができた。
終了後、幸祐は早速、月二回の教室への入会を申し込んだ。初めて作ったブリオッシュ数個を持って、早く笪也にも食べてもらいと思い、早足で帰った。
商店街のアーケードの隙間から見える窓には明かりが灯っていた。家の鍵を開けて中に入ると、パソコンを操作する音や紙の擦れる音がした。幸祐は、今日はノー残業デーの水曜日でどうやら笪也は仕事を持ち帰っているようだと気付いた。
階段を少し上がって、笪也の様子をうかがった。食卓代わりにしていたステンレスの調理台は調理器具で手狭になったため、新しく買った小さめの食卓の上に書類を広げ、幸祐と一緒にいる時には決して見せない険しい表情の笪也がいた。
幸祐は自分だけが楽しく過ごしてきたのが何だか申し訳なく感じた。階段を上がり切ると仕事の邪魔にならないようにそっと言った。
「成宮さん…ただいま」
笪也は幸祐を一瞥すると、何も言わずにまたパソコンの画面を見た。
幸祐は、笪也は仕事でイライラしているのだと思うようにした。
自分のスペースに行き部屋着に着替えた。そこで、はっと気付いた。今、自分は、笪也に成宮さんと言ってしまったことを。
笪也の仕事中の厳しい顔を見たことや、自分だけ楽しんできたことを少し後ろめたく感じ、つい無意識に言ってしまった。そして笪也が何も言わずに一瞥だけするようなことは今までなかったのに、それを仕事のせいにしてしまった。
幸祐は笪也の傍に行くと、もう一度言った。
「笪ちゃん、ただいま」
笪也は幸祐の顔を見ると、優しい笑顔で言った。
「おかえり、幸祐。楽しかったか?パン教室」
「うん。とっても」
「そうか、よかったな」
幸祐は思った。笪也は少し意地悪な仕方かもしれないが、二人の距離を縮めるために、まず、自分のことを笪ちゃんと呼ばそうと決めたんだと。
ここは会社ではないのだから、先輩後輩でもない。笪也は優しくて少し意地悪な年上のルームメイトなのだ。幸祐はもう少し笪也に近づいてみようと思った。そしてもう少し甘えてみようと思った。
「ねぇ、笪ちゃん。コーヒー淹れるから少し休憩しない?パン教室で作ったパンもあるしさ」
幸祐は笪也の肩を揉みながら言った。
「おっ、いいね。じゃあ休憩しよっかな」
笪也は肩を揉んでくれている幸祐の手に触れると、嬉しそうに言った。
コーヒーを飲みながら幸祐はパン教室の生徒は男の方が多かったことや、今食べているパンはブリオッシュっていうんだよ、と作り方を身振りを入れながら話した。
十五分ほどのコーヒーブレイクの後、笪也はまた仕事を始め、幸祐はシャワーを浴びに一階に下りて行った。
笪也は幸祐の自分への接し方の急な変わりように、どういう心境の変化なんだと思っていた。理由はどうあれ嬉しいことに違いはない。初めて幸祐から触れてくれた肩を触って揉んだ。
そして、スマホのスケジュールアプリを開けると、今日の日付けのこの時間の欄に小さなハートマークを印した。
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